閑話休題 -3ページ目

 偉大なGNA一族 

 今でこそ大阪から中国自動車道で1時間強で福崎インターに着くが、明治の昔、姫路から播但線に乗り換えて小一時間、中国山脈の山麓に、兵庫県神崎郡田原村があった。その田舎の松岡の一家から、明治時代偉大な人物がら輩出している。

その人たちは次の通り。

  長男 松岡 鼎             千葉県布佐町の有名な開業医

  三男 井上通泰  井上家に養子  医学博士 宮中顧問官 万葉学者

    五男 柳田国男  柳田家に養子  貴族院書記官長 日本民俗学の祖

  六男 松岡静雄             海軍将校で退官 「日本古語辞典」「記紀論孜」

  七男 松岡映丘             日本画家 帝国美術会員 名作「室君」

  (次男・長女・四男は幼くして夭折)

 

 兄弟五人もおれば1~2人位落後する者も入る筈だが、松岡家の場合生存している兄弟五人とも錚々たる出世のをした人達である。

 父松岡操は藩医であったが、住まいも平屋の小さな家で゛、生活は裕福だったとは言えなかった。だから子供たちも小さい頃から英才

教育を受けて育ったのではなく、三男と五男は養子に出されている。

 といことは子供の五人は、生まれる前から先天的に優秀なDNAを夫婦どちらから受け継いだとしか考えられない。しかも学者的・学究的な遺伝子である。揃いも揃って、五人とも医者・学者・画家として成功している。

 ご先祖は前世に余程善行を積み重ねられたのであろうか。うらやましいことである。

 

      

              井上通泰                    柳田国男

呉春

 若い頃から日本酒が好きであった。焼酎やウイスキーなどの蒸留酒は私の体質に合わないのであまり飲まず、専らビールと日本酒で、各地の名酒を取りそろえて得意がったり、他人からも大酒のみだと言われたほどよく飲んだ。ところが年と共に酒量も減り、銘柄も今は池田の「呉春」一本に絞るようになってきた

 プレミャムがついて一般酒より値段が高いが,実に美味しい。少々甘口である。池田の水だが六甲山系の灘とは違って、箕面五月山の水だろうか、軽くて上品、口当たりはすごく良い。殆ど地元や大阪で消費されていて、関東には出回らないローカル地酒かも知りない。

 

 商標になっている呉春とは江戸中期の京都の絵師で、池田に移り酒を愛した人物の名からその名をとって商標にしたのであろう。花鳥図を得意とし、円山応挙と組んで四条派の画家である。性格も放逸で、自分の画に失望して自殺しょうと思い、数匹のフグを肴に大酒を飲み、毒に当たるのを願って眠りについたが、翌日元気で生きていたという。この時悟る所があって、京都から摂津呉羽の里(池田市)に隠棲、呉春と改名した。

 彼は蕪村門下として俳諧もよくし、文筆にも達し、管弦にも通じる多芸多能者で、性は甚だ酒落、酒を嗜み、酔いに乗じて春画を描いて人に与えた。妻は家族を顧みず、酒を飲み、春画を只で人に与えることをなじると、呉春は笑って答えず、ゴロリと膝を枕に眠ってしまったという。

 なお彼の大作「白梅屏風図」(重要文化財)は同じ池田にある小林一三の「逸翁美術館」で見られる。

  彼の画像と「白梅屏風図』の写真が撮り入り困難なので,各自でホームページで参照ありたい。

 

   

 

 

  

 

千曲川旅情の歌ー島崎藤村

      一

   小諸なる古城のほとり

   雲白く游子ーゆうし(旅人)悲しむ

   緑なすはこべは萌えず

   若草もしくによしなし

   しろがねの衾ーしとね―の岡辺

   日に溶けて淡雪流る

 

   あたたかき光はあれど

   野に満つる香りも知らず

   遠くのみ春は霞みて

   春の色僅かに青し

   旅人の群はいくつか

   畠中の道を急ぎぬ

 

   暮れ行けば浅間も見えず

   歌かなし佐久の草笛 

   千曲川いざよふ波の

   岸近き宿にのぼりつ

   濁り酒濁れる飲みて

   草枕しばし慰む   

 

       二

   昨日またかくてありけり

   今日もまたかくてありなむ

   この命なにを齷齪

   明日をのみ思ひわずらふ

 

   いくたびか栄枯の夢の

   消え残る谷に下りて

   河波のいざよふ見れば

   沙まじり水巻き返る

 

   ああ古城なにおか語り

   岸の波なにおか答ふ

   過ぎし世を静かに思へ

   百年もきのふのごとし

 

   千曲川柳霞て

   春浅く水流れたり

   ただひとり岩をめぐりて

   この岸に愁いを繋ぐ

 

 江戸期の短歌・漢詩の古風体から、五七調の『新体詩」を歌い出した島崎藤村の、有名な「小諸なる古城のほとり」と「千曲川旅情の歌」の二曲を、後に合体したもの。藤村の百有余の新体詩は、リズムを踏んでいるが,ほとんど抒情的で無い。この二曲と「椰子の実」だけが「旅愁」に共感を与えて、人々に愛された詩である。

 ちょうど三月のこの頃の歌だうか。

 

       

                     小諸城・懐古園                         眼下の千曲川

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 世阿弥ーぜあみ

 私は日本の芸術家のなかで、最高と認めるのは世阿弥である。

 父の観阿弥は鎌倉幕府が倒壊した年1333生まれで、飛鳥の山田寺の猿楽師であったがー、当時大和で一番勢力のあった興福寺の猿楽に参加するため、大和国内で一番勢力のあった興福寺の猿楽に参加するため、大和国結崎の有力寺結崎寺ゆうざきてらーに鞍替えして来た。27歳の時である。その2年後の貞治2年ー1363ー結崎の寺川の河原小屋で鬼夜叉ー後の世阿弥が生まれた。

 父の観阿弥もすぐれた能楽師であった。それまでの滑稽な笑わせる物真似的な猿楽から、古今の書を読んで時流に合った新曲をつくり、舞でも「天女の舞」「女曲舞-おんなくせまいーを取り入れ、新しい猿楽の想像に情熱を燃やし、次第に好評を博して行く。

 

 そして息子の鬼夜叉が世に出たキッカケは、僅か12歳の時<、京都今熊野で18歳の将軍足利義満の前で猿楽を舞い、絶賛を浴びてからであった。爾来義満の小姓として伺候し、義満の死ぬまでの30年間、能楽師として観世の能楽を完成させている。

 私が感心するのは、彼は生れが貧困だったのに、華美豪奢な室町の生活に流されず、ひたすら王朝文化の「みやび」と、室町時代から培われて来た「わび」「さび」の精神文化の粋を、新しい能楽の創造に取り入れたことであった。彼の美意識は「幽玄」であった。 

 世阿弥の言う幽玄とは、一子相伝の『風姿花伝書」によれば,「花やかなる色香」を指し、女舞=「鬘もの」にそれを求めた。特に老女ものに[凋める花の色なうて匂い残る」舞を最高とし、その頂点は「関寺小町」であるとされているが、演ずる人は少ない。

 

 世阿弥は義満が死んだ後は悲惨で、四代将軍義持に室町幕府から遠蹴られている。恐らく世阿弥が義満の小姓として、夜の席に侍り男色関係にあったことが、義持が毛嫌いした理由ではなかろうか。更に71歳の老境になってから、六代将軍義教により佐渡島に遠島されている。これも理由がはっきりしないが、恐らく義教が可愛がってた、世阿弥の養子音阿弥に、一子相伝の「風姿花伝書」を見せなかったことを聞き、義教の逆鱗に触れたことが原因だと想像できる。2年後には許されて大和に帰り、最後の余生を送った。

 

  世阿弥は能の世界において、舞と謡曲の新作つくりの不世出の天才であった。だだ一生の間に栄華とどん底を経験した者は他にあるまい。ただ「風姿花伝書」が遺されいてたことは、日本文化史にとってかけがえのない遺産となっている。

 

   

 

  世阿弥の生まれた大和結崎の碑     最高の老女舞「関寺小町」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『破戒』ー 島崎藤村

 正月以来体調不順で、遂に主治医の指示により、入院の余儀なきに至ったが、一週間で退院して来た。その間病院で読む本として、島崎藤村全集の「破戒」を選んで持って行った。久しぶりの『破戒』は読みごたえがあった。

 

 江戸徳川時代、貴族、武士、平民の外に、穢多(エタ)と呼ばれた賎民の階層が居て、死体焼却や皮革作りなどに携わって、一般社会から賎民として峻別されていた。明治維新で戸籍を得たが差別は無くならず、戦後になって新平民として認知されたが、彼ら部落民の激しい闘争の結果、平民に統括されて、居住地も分散し、今部落民の痕跡を明らかに出来ないほど、一般人と同化している。

 

  『破戒』の主人公、瀬川丑松も、信州小諸のエタの子として生まれ、小学校を終えた後師範学校に入り、のち信州飯山の小学校に奉職したが、父は子のエタの出生を隠そうとして、小諸を離れて山手に転宅し、更に山奥の牧場に牧夫として身を潜め、丑松には「エタの出自だけは絶対口外するな」と強く命令した。その父が種牛の雄牛の角に刺されて死亡する。亡くなる前夜、遠く離れた牛松に父の声が届く。

 他方、「吾はエタなり」と自称する社会評論家の猪子蓮太郎の著書の思想に共鳴し、蓮太郎に近づく。それが友達からも瀬川もエタではないのかと云われ、綻びの端緒となり、猪子の著作一切を売却、あわててその痕跡を消そうとする。

 その蓮太郎が応援する代議士候補の市村弁護士の政敵に、信州出身の高柳利三郎がおり、その美人の妻女もエタで、その女から丑松もエタであること知った高柳は、知人に告げ口をする。それが小学校の教師たちにも広がり、丑松は四面楚歌になる。

 

 市村・猪子の政事討論会が開かれ、その終わった直後一人で会場を出た猪子蓮太郎が、高柳利三郎の配下に襲われ急死する。丑松は蓮太郎の遺体に取りすがり嘆き悲しむが、それをきっかけに丑松は学校に進退伺いを提出し、飯山を去る決意をする。荼毘に附された遺骨を、未亡人と共に東京に運ぶその日、知り合いや教え子の見送りを受けて旅立つ。

 かくして四六時中胸にわだかまっていたエタの苦痛から開放され、自由を謳歌した丑松のその後は、知人の紹介でアメリカのテキサスの開拓のために渡米したともいわれるが、著者は明言していない。丑松を恋い慕っていた同僚教師の娘で、美しく賢いお志保も、或いは

丑松を慕って渡米したかも知れない。

 

 私も戦後の昭和22年の学生の頃、大和の神社詣りをし、帰りを電車に乗らずに大きな駅まで歩こうとして、川沿いの堤防を歩いていたら、突然獣の皮のなめしの嫌な匂いのする部落に入った。急いで部落を出ようとしたら、ぱったり見たこともないような色白の美人の娘に出会った。どう見ても美しい、整った顔立ちの娘であった。後で調べると、エタにはそういう美人が多いという。同族の近親結婚のせいだろうか。今でも私はその情景は忘れられない。

 

 二月の背振山

  背振山-せふりやまーと聞いても知っている人は少ないと思います。福岡の西南部から西に延びて、福岡と佐賀の県境をなす山で、主峯の背振山は1055mに過ぎず、西に延びる金山‣雷山の連山もそれ以下ですが、玄界灘に面して北側の斜面は、南の佐賀側より急峻です。

  鎌倉時代建仁寺の栄西禅師がシナから茶の木を持ち帰り、背振山に植えたのが、日本茶の始まりとされ、それが京都の栂ノ尾に移され、後に宇治に移され、気象条件が良かったのか宇治茶は茶の代表になりました。この背振山の気象では無理だったと思います。

 

 というのは背振山は、冬は玄界灘から吹き付ける寒風で雪が深く積もり、これを避けるのは困難です。その代り山の水は清冽で極上です。太閤秀吉が朝鮮出兵の折、呼子に名護屋城を建てた時、茶会に使う水をわざわざ七八里も離れた背振山の水を運ばせたと云われている。実際飲んでみると実に美味しい。名水の中の名水である。

 

 ある年の二月、福岡中州の名だたるホステスで、山ガールとしても有名だった彼女に誘われて、数名のグループで冬の背振山に登った。

渓筋にそって登ぽって行くのだが、200m程登ると、雪が膝まで積もり、とても登り切れず途中から引き返した思い出がある。雪の無い時期はちょうど登るのによい高さの山で、野生のわさびが沢筋に密生している。また西の雷山への縦走路には、春には山つつじ、シャクナゲが

咲き誇り、北の玄界灘を望んで格好のハイキングコースである。

 博多のような大都会で一時間もかからない近郊に、このような雪深い冬山があるのがうらやましいのである

 

 

 

 樹木希林

  樹木希林(昭和18年~平成30年)さんが逝ってからもう一年が過ぎた。惜しい俳優であった。

 芸能社会では、銀河系の河の流星のように、絶えず輝き続けることは難しい。新しい星が生まれて輝き出しても、いつの間にか消え去ってしまう。その中で独特の個性と、演技が大衆受けする者だけが生き延びて行く。死ぬ年まで輝き続けることは難しい が、樹木希林さんはそれを見事にやってのけている。さすが大女優の名に恥じない。

 

 私は樹木希林さんを知り好きになったのは、NHKのドラマ番組、早坂堯演出の「夢千代日記」からであった。山陰の湯村温泉らしい温泉街で、吉永小百合演ずる芸者置屋「はる家」の女将、夢千代と、同宿の菊奴こと樹木希林らの温泉芸子たち。お座敷では地元の民謡「貝殻節」の三味を引いたりを声を張り上げて唄ったり、踊ったり。派手な温泉芸者を演ずる。旅役者が来て披露の小型トラックが来ると、「はる家」の二階から、声を張り上げて声援を贈る菊奴。またヌードショウをもつスナック白兎の主人長門勇とのやり取りなど。田舎芸者たる温泉芸者の役を完全に演じ、その芸域の巾の広さにびっくりし、感心してしまった。

 

 役者は個性的でないと長生き出来ない。顔立ちもさることながら、演技力=芸の巾の広さが名優たる資格を決める。あの大衆が近づきやす樹木希林さんの顔つき、人柄、演技力、また一人惜しい人を失くしてしまったものだ。もう一度「夢千代日記」のビデオで彼女を偲ぶことにしよう。

                               

 

 

 

 

 

 多治比奇子ーたじひあやこ

  学生たちにとって、一番苦しい受験シーズンがやって来ました。誰もが通って来た道ですが、無事志望校に合格したいと神に祈るのが、

ー祈ったとて必ず合格できるわけではないですがー日本人が縄文時代から持っている呪術信仰のDNAです。日本人だけじゃないかと思います。その頂点に立つ神社が京都北野天満宮です。

 

 学識に飛びぬけていた菅原道真は、宮廷で実力を振るうにつけ、権門の藤原一族の藤原時平の讒訴に逢い、醍醐天皇によって大宰府に左遷され、望郷の望みも絶えて大宰府で客死します。

 その時多治比奇子という巫女さんが、神がかりして「菅原道真が在世の折、常に北野の右近の馬場に遊んで、心をなぐさめていた。彼が大宰府に左遷された時、肝を焦がすまでに苦しんだがが、この馬場のことを思い出すと胸の炎も鎮まるのを覚えた」と口走った。

 

 その託宣のあった後、923年、道真を大宰府に追いやった藤原時平の外孫で、皇太子保明親王が亡くなられたり、宮中の清涼殿に落雷、大納言藤原清貫や女人たちが焼け死にするという不祥事が起こった。

 その時、近江比良郷、神良種ーみわよしたねーの子、7歳の太郎丸が神がかりして、火雷天神が右近の馬場に移りたいと宣託した。そこで多治比奇子が自宅に祀っていた小祠を、右近の馬場に移して祭祀した。これが今の京都北野天満宮の始まりだという。

 今年も受験生や親御さんたちで、各地の天満宮は一杯でしょう。

 

 

 

 

三都の名物

 江戸の中頃、京・大坂‣江戸の名物を並べて口ずさむ狂歌が流行した。

れを二代目市川團十郎 1688~1758 が,「老のたのしみ抄」という冊子に書き残していた。

  

  京都の名物  水、水菜、女、染物、みすや針、寺と豆腐に黒木、松茸

  大坂の名物  橋と船、お城、私娼、茶屋、揚屋、天王寺蕪に石屋、植木屋

  江戸の名物  鮭、鰹、比丘尼、むらさき、生鰯、大名小路、ねぎ、

 

参考までにその頃の三都の人口は、

                京都        大坂        江戸

  寛永11  1634       410,000            280,000

    正徳  5     1715       350,000           370,000

    享保元年 1716       350,000           400,000             700,000 (うち武士・僧尼 200,000)

 

  

 

     

  

 

  寒ブリ

 ひさしふりにこの辺りでは一番大き魚市場にち寄った。私は魚市場が好きだ。旬の魚が私を楽しませてくれる。

その中で大きさが35cmもある寒鰤の生きのよいのに出会って、思わず半身だけを購入した。

 

 

 寒鰤と言えば、、真冬の大寒の時期に、日本海の富山湾海域に回遊してきて獲れる、一番脂の乗った最高級品である。昨年富山から嫁入りした娘の家は、娘の嫁入り先に儀礼として冬の寒ブリを贈る習慣があったそうだ。

 その昔私は冬の金沢に行き、友だちに誘われて近江町市場の粋な居酒屋に連れていっ貰って、寒ブリの塩焼きを食べさせてもらった。関西ではぶりは甘辛い煮つけで食べるものとばかり思っていた私はびっくりした。とにかく肉質が新鮮、脂もたっぷり、塩だけてブリの旨さを引き出してくれている。まさに絶品であった。いまは冷凍技術や搬送技術の発達で、大阪でもぶりの塩焼きが食べられるようになった。

 

 ブリの料理は楽しい。

 一日目はブリシャブ  漬けダレは旭ボンズが最高

 二日目はお待ちかねの塩焼きと煮つけ 

 三日はお休みにして

 四日はブリ大根

 

 日本っていいですね。列島は四面海に囲まれて,四季それぞれの旬の海の幸に恵まれている。山の恵みもあり、野の恵みも豊かだ。日本っていいなあと、歳をとったら余計そう思い、感謝したくなる。