千曲川旅情の歌ー島崎藤村
一
小諸なる古城のほとり
雲白く游子ーゆうし(旅人)-悲しむ
緑なすはこべは萌えず
若草もしくによしなし
しろがねの衾ーしとね―の岡辺
日に溶けて淡雪流る
あたたかき光はあれど
野に満つる香りも知らず
遠くのみ春は霞みて
春の色僅かに青し
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ
暮れ行けば浅間も見えず
歌かなし佐久の草笛
千曲川いざよふ波の
岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて
草枕しばし慰む
二
昨日またかくてありけり
今日もまたかくてありなむ
この命なにを齷齪
明日をのみ思ひわずらふ
いくたびか栄枯の夢の
消え残る谷に下りて
河波のいざよふ見れば
沙まじり水巻き返る
ああ古城なにおか語り
岸の波なにおか答ふ
過ぎし世を静かに思へ
百年もきのふのごとし
千曲川柳霞て
春浅く水流れたり
ただひとり岩をめぐりて
この岸に愁いを繋ぐ
江戸期の短歌・漢詩の古風体から、五七調の『新体詩」を歌い出した島崎藤村の、有名な「小諸なる古城のほとり」と「千曲川旅情の歌」の二曲を、後に合体したもの。藤村の百有余の新体詩は、リズムを踏んでいるが,ほとんど抒情的で無い。この二曲と「椰子の実」だけが「旅愁」に共感を与えて、人々に愛された詩である。
ちょうど三月のこの頃の歌だうか。
小諸城・懐古園 眼下の千曲川