キリスト教脱出記ー赤岩栄
明治41年から昭和41年。少年時代からキリスト教を学び、長じて牧師となり、佐渡ヶ島に赴任。その後東京の教会で牧師を勤める反面、共産主義に共鳴して共産党に入党。牧師と共産党は両立する筈がないのに、党を離脱した後もキリスト教と共産主義の一致を解く異端者。 その彼が晩年死ぬ前に書いたのが「キリスト教脱出記」である。
※ 今日の知識人と言われるキリスト教徒のうちに、一人でも生活の配慮から自由にされ、隣人に
全き愛に生きて いる者がおろうか。 生活に心配することが無いから出来ることで、無一文に
なってもそうした自由に生きられるだろうか。
※ 原始キリスト教団は、復活されたキリストが、間もなく再誕され、そこで最後の審判が行われ、
キリスト教を信じない者は永遠のゲヘナ〈猛火〉に投げ込まれ,キリスト教徒だけが、聖なる民
として永遠の神の国に受け入れられると信じて疑わなかった。
※ 私たちがまず、他人が地獄に墜ちても、自分だけ天国に行きたいというような、得手勝手な
欲望を断念する必要がある。
※ また私たちは、地獄の威嚇から自由にされる必要がある。
※ 宗教的人間には、一方で私たちの欲につけこむ詐欺師的人間がいると同時に、また他方では
地獄の火で威嚇する強盗的人間もいる。 しかし一方で地獄に墜ちる人間がいて、他方では
天国に入る人間がおれば、神は全能でもなく、愛でもないことになる。
やや意固地なこのキリスト教徒は、教会の牧師として生活が安定し、人生の大半をキリスト教会に養われてきたのに、最後になってアンチ・クリストの主張をするのは、きわめて認知症的なピエロを思わせる。自己の考えをを主張するなら、早くキリスト教会ら離れて、自説を展開するのが道筋ではなかろうか。
私も若い戦後思想混乱の中にあって、聖書になじみ、時にはチャペルの説教台で、自分のキリスト教の見解を披露したことがあった。それが教授陣に知れ、私に大学に遺るように説得された。専攻は「神学」と言われた。だが私は断った。その後世界史を勉強すると、キリスト教団は愛を解くのに、異教徒との戦いばかりで、後は大航海時代の美名に隠れた世界侵略に協力しているキリスト教に失望し、その後私は人間的なギリシャ世界へと走ったことを思い出す。