京都上・下賀茂神社の謎
京都を代表する京都上・下賀茂神社は、その成立からして、謎の多い神社である。
賀茂=鴨族の主神、加茂健角身命ーかもたけつみのみことーは、日本神話では神武天皇の大和への進攻に、熊野から大和に道案内をした神ー八咫烏(日本サッカーのシンボル〉 として出て来る。
4世紀末応神天皇の頃のこと推定される。
この鴨族はそれ以前、日向から大和葛城山の南東、なだらかな高原状をなした高鴨の地で、水神の高鴨神を祀り、山畑や狩猟をしていた山の民である。
その彼らが5世紀後半雄略天皇の頃、高鴨神を奉じて葛城を出て、木津川の岡田に移り、さらに開拓地を求めて、先住の久我族の住む賀茂川上流の地に進出して来た。
欽明朝(540~571)の頃、水不足で五穀が実らず、水神の加茂神の祟りとされて、「馬に鈴をかけ、猪の頭を被って駆ける、山の民の荒々しい古俗を伝える、流鏑馬ーやぶさめーが行われると豊年になったので、以来祭りは盛大になり、近在からも人々が群集して乱闘騒ぎが起きた程で、たびたび政府から禁止令が出されている。
この加茂族が7世紀に入ってから奇怪な神話を創る。
「山城国風土記逸文」」の賀茂族の神統譜〈下図)によると、祖神のカモタケツミノ命が、丹波の女と婚姻して玉依彦と玉依姫を生み、玉夜姫が瀬見の河原で水遊びしていた時、流れて来た丹塗り矢を取って床の上に置くとカモワケヅチが生まれたので、このカミを上加茂神社に祀り、母の玉夜姫を下加茂神社に祀った。父である丹塗り矢とは乙訓の火雷神という。
全く「歴史のカケラ」もない丹塗矢神話は、大和の大神神社の説話と一致する。大神神社では丹塗矢は三輪の神の大物主で、生まれたヒメタタライスキヨリヒメは、神武天皇の皇后になったという。どうも両社の丹塗矢説話は同根である。
これは雄略天皇の時、大神神社の司祭を握った大田田根子の大田族が、この丹塗矢の説話を賀茂神社に持ち込んだものと思われる。太田族は摂津茨木を本拠とし、河内陶邑で須恵器を焼いて財をなした当時窯業の豪族で、上・下賀茂神社の創設に彼らの影響力は無視できない。その証拠は上賀茂神社の摂社、カキツバタで有名な太田神社に残っている。丹塗り矢神話を持ち込んだ大田族の神を祀ったものである。今の祭神ウズメノミコトは、賀茂族の神統譜には何の関係もない。
かくて上賀茂神社は天武朝の7世紀に、下賀茂神社は奈良朝の8世紀に創設され、祖神のタケツミノ命は、本来賀茂族の祖神として上賀茂神社に祀られるぺきなのに、久我氏の大宮に遷され、下賀茂神社の玉依姫とも並祀されている。解しがたいことである。
これらの不理解な説話に立つ上賀茂・下加茂神社も、8世紀末793、僥倖にも都が遷され、京都唯一の天つ系神社として、皇室の尊崇を享け、斎王が置かれたり、盛大な葵祭などで、上・下賀茂神社の地位は一挙に向上する。しかしこの神社の原像は霞の中のままである。
上賀茂神社
下賀茂神社 摂社 太田神社

