神社(神地)の乗っ取り 1 京都 蚕の宮 | 閑話休題

 神社(神地)の乗っ取り 1 京都 蚕の宮

 今では想像もつきませんが、6世紀頃まで先住民が祀っていた神社を、後に進出して来た有力部族が乗っ取った例がいくつかあります。それが現在有名神社として信仰されています。

 

 平安遷都前の京都盆地に、紀元2世紀頃の弥生時代、茨木を本拠とする銅鐸祭祀集団の一部が、淀川・桂川を遡って京の北部の地で、銅鐸を祭祀し、米作りに太陽の恵みを願う人々が入植して来ている。その痕跡が太秦の「木嶋座天照御魂神社」である。

 当時、茨木市東奈良は銅鐸生産の中心地で、その銅鐸で米作りの豊作を太陽に祈った。太陽神の天照御魂神社がこの茨木に3ヶ所も集中しており、それが大和・京都にも分祀されている。

 

 だがこの銅鐸祭祀は3世紀後半に終わり、銅鐸はなぜか神聖な土地を選んで地中深く埋められてしまった。この京都でも梅ケ畑向地町の山中から銅鐸4ヶが発見されており、天照御魂神社を造った銅鐸祭祀の人々が、太秦にいた証拠を残している。

 

 一方5世紀後半、シナ遺民が朝鮮半島の動乱を避けて日本に集団亡命して来た。指導者は弓月君という。その孫の泰酒君が葛城に住し、雄略天皇に絹織物をうずたかく積んで献上、太秦ーうづまさーの名を賜り、子の大津ーおおつちーは山城の深草に移り、更に7世紀初め族長の泰河勝葛野(京都)に移り、聖徳太子から賜った弥勒半跏思惟像広隆寺を造営して祀って以来、太秦の地が泰氏の集団移住地となった。

 

 2世紀に進出し、天照御魂神社を祭祀した集団も、有力職業集団の秦氏の隆盛にかなわず、養蚕の神を摂社に受け入れてから、この神社は乗っ取られて蚕の社となった。

 更に泰氏の神社(神地)乗っ取りの最たるものは、伏見稲荷神社である(続く)。