有吉佐和子―「大徳寺で考えたこと」
これは有吉佐和子の随筆の一つ。彼女の本質に迫る物の見方に驚き、私は共感した。冒頭に書かれているのは、
大徳寺の総門をくぐると、右側に朱塗りの色もあざやかな、三門が聳えて見える。・・このあざやかまでに けんらんとした豪華
さ はどうだろう。その純粋さを固持して来た禅の清冽な姿とは、まるで違う。勅使門でさえ、三門の前ではいかにも簡潔に、もの
さびて見えるではないか。禅と茶との結びつきを、あざ笑っているような、このきらびやかな三門に、茶聖と言われる千利休が
かかわっている。
「わび」を求める茶道の本山の大徳寺に、朱色の三門はどう考えても似合わない。私も予ておかしく思っていたところである。全国の禅寺を見ても、このような朱塗りの三門はどこにも無い。利休が膨大な資金を出し、しかもその楼上に自分の木造を造ったのである。その下を勅使や戦国大名が通るのに、利休像の下をくぐらせるとは何事かと秀吉が怒り、像を引き出して一条戻り橋に張り付けにして首をはねたといわれている。
この三門は今では利休三家で茶の修行をし、茶指南の免許を得た者だけが、その際に登ることが許されるという。私はつてを求めてこの三門に登ったことがある。狭い入り組んだ急な階段を登ると、約20畳位の広い板敷の部屋になっていて、諸仏が配され、復元された利休の像を見ることが出来た。傲岸な顔つきである。
利休は永年仕えた秀吉から、切腹を命じられている。奈良出身の村田球光が侘茶を始め、その茶の作法、わび的な茶器の選定、茶室の構造など、茶道の作法を利休がt考案し、信長、秀吉の茶頭として仕え、日本の茶道を確立した功績は認められる。
だが利休には本質的に堺商人としてのあくどさが目立ち、傲岸で唯我独尊の姿勢など、石田三成などに嫌われ、秀吉に告げ口される。
南蛮の安物の壺を茶壺にして高価に売ったり、朝鮮の安物の日常茶碗を茶碗として高価に売りつけたり、ダダの竹を削って花入れや茶杓にして高い値段で売りつけてたり、楽茶碗を独占して法外な富を造った。
それに鳥羽から大坂に通う淀川の川船が、途中休憩に立ち寄る枚方の鍵屋は、床下に船着き場があり、上に登る階段に狭いくぐり戸がある。利休はそこからヒントを得て、天王山の戦いに明智光秀に勝利した秀吉のために、初めて2畳台目の草庵風の茶室を造り、客は狭い躙り口-にじりぐちーから入る構造の茶室待庵て秀吉をもてなした。、鍵屋のくぐり戸からのヒントを得た躙り口が、その後の茶室の原型となった。客は腰をかがめて入室させ、主人は立って茶室に入る。武士よりも茶道を別格にした利休の傲岸さが見える。それらの傲慢さが秀吉に鼻もちにならなくなった時、利休は切腹を命ぜられるのである。
大徳寺に行かれる時、禅寺に不調和なこの三門を見て、利休の生涯に思いを馳せられると、歴史が面白くなる。
大徳寺三門 楼上の利休木造像(復元)
待庵・国宝 にじり口―茶室への入り口
待庵二畳台目




