平戸・度島のキリシタン遺跡 -4ページ目
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平戸・度島の隠れキリシタンの伝承があるウドの洞窟

平戸・度島では秀吉の伴天連追放政策でキリシタンの

取り締まりが行われ行き場を失ったキリシタンは

隠れキリシタンとして生き延びていました。

 

度島の北海岸にあるウドの洞窟も

その伝承がある。

 

このウドの洞窟の向こうの見えるのが

ナンドサンナンドと言われる洞窟がある場所。

ウドには自然な石がそのまま残され

2m以上の石や岩など・・隠れたり

祈る場所には最適だったかも知れません。

平戸・度島の丸島にも十字を切った石があった・・

度島で一番高い山と言えば・・

丸島(飯森山)高さ103mです。

平戸から度島丸に乗って最初に目に

飛び込んで来るのが丸島ですね。

 

 

平坦な度島ですがこの丸島の頂上から

見下ろす風景もなかなかいいですね。

 

 

度島のキリシタン時代には

十字を切った石が置いてあったそうだが

誰かが持ち出したらしい(森重郎氏)

 

今は船の安全を祈願して金比羅様が

祀ってあります。

ここは眺めもいいし・・

ここを整備して展望台にようにすれば

多くの人が訪れるかも知れませんね。

 

 

 

江戸時代の平戸・度島は多久島と呼ばれていた??

40年間のキリシタンの時代が終わった度島・・・

井元権右衛問のキリシタン征伐で立願時にあった過去帳では度島は200人ほどの

殉教者を出したと言われる。

 

江戸時代になると・・キリシタンは平戸や生月

の一部を除いて隠れキリシタンとして

密かに信仰の対象としていました。

 

度島は生月に比べても小さい島ですから

すぐに・・隠れキリシタンの存在が分かるのでしょう。

 

井元権右衛門の取り締まりがある限り

どこへ逃げて信仰を続けるのは

難しく・・明治の時代に解禁されるまで続きました。

 

伴天連追放後の度島のキリシタンは

ウドの洞窟とかナンドサンナンドの洞窟と

人目に触れない所で祈ってた信徒も

多かったのではないだろうか。

 

江戸の時代の家光所用の日本地図には

度島は多久島と呼ばれた地図が存在します。

 

 

平戸・度島で日本語を覚え日本史を書いたルイス・フロイスの書斎跡・・

宣教師で神父であったポルトガル人、ルイス・フロイスが度島の浦集落に住み難解な日本語や辞書や文法など学んだ書斎跡が下のテッペスと言われる場所・・

写真はテッペスの石段。

崩れないように補強してあるが、石段はフロイスやアルメイダも何回も登り降りした事でしょう。

この石段の事を知ってましたが、まさかフロイスが住んでいたとはびっくり!です。

さらにフロイスが住んでた書斎跡は周囲が石垣に囲まれ当時の様子が垣間見える。テッペスの住居跡に住んで居た藤本家では毎年、正月の4日に雨戸を閉ざして他者には見せない秘密の行事を行っていた。当家はすでに途絶えといるが、遺品にマリア観音とか思われる水晶の観音像があり隠れキリシタンだったのではないか(キリシタン史の謎を歩くより)

平戸市観光協会もここをフロイスの住居跡して整備し観光地として保存して欲しいですね・・それだけの価値は十分にあります。

 

◆ルイス・フロイス

日本史を書いたルイス・フロイスは1563年7月6日、待望の日本に着き、西九州の横瀬浦に(長崎県西海市)第一歩を印した。その後、大村に内乱が起こり、貿易と布教の拠点であった横瀬浦は兵火によって焼失してしまい破壊された。フロイスは難を逃れる為に1563年11月に度島に避難し、ここで10ヶ月、病魔と闘いながらフェルナンデスから難解な日本語および日本の風習を学んだ。フロイスが度島で住んでたのは浦集落。立願寺と秋葉神社の間にある「テッペス」の石段の上周辺は、平戸資料館パネルではルイス・デ・アルメイダが住んだ度島教会跡と記されている。アルメイダはこの島の宣教活動と共に投薬による医療活動を行なったことで知られている。

1564年8月には平戸にポルトガル船が寄港したのを境に、平戸の肥州からの布教が許可されその後、幾内へと布教し織田信長や豊臣秀吉とも謁見しています。

◆フロイスの日本史

ルイス・フロイスが日本での出来事をまとめた編年体歴史書。戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史』を記したことで有名。松田毅一氏と川崎桃太氏の和訳の日本史は12巻まである。

学術的にも貴重な文献で日本のキリシタンを知る上で欠かせない書物である。フロイス日訳しキリシタンにも詳しい松田氏毅一氏も昭和41年と昭和53年に2度、度島を訪れ見聞をしているが閉鎖的な風土に困窮したと言われてます。昭和40年1月に発表された柳谷武夫氏による「日本史キリシタンの心」ルイスフロイスの日本での和訳が初めてと思われる。その後松田毅一氏や最近では2018年に清涼院流水氏が『ルイス・フロイス戦国記 ジャパゥン』などで発表し話題となってます。

「織田信長は潔癖症で、お酒が飲めなかった」、「豊臣秀吉は多指症であった(片方の手の指が六本あった)」といった事実などが一例として挙げられます。こうした「事実(史実)」を知っている日本人は、今現在は決して多くはないかもしれません。(清涼院流水氏より)

昭和30年代の平戸・度島の風景・・

2019年も令和元年となり新しい時代を迎えました。

平戸・度島では湾岸も整備され・・

港は立派になりましたね・・

昭和30年代の度島はどうだったか?

 

ここに1枚の古い写真があります。

この場所は高台の見晴らしのいい場所で

良く訪れたものでここから西に行けば浦地区

東に中部地区、後ろ側に観音様へに道と

峠の分かれ道の場所で・・

 

ここでは牛が放牧されてました。

遠くに見えるハイキの鼻には立派な松の木が

見えます。ここは憩いの場所でもありました。

松くい虫の影響で松が枯れて

現在はありませんが・・当時をしのぶ

懐かしい写真ですね!

 

グーグルマップと比べても

その変わり様が良く分かりますね・・

 

 

平戸・度島にルイス・フロイスが来たのは幸運だった?

ルイス・フロイスが日本に来たのは1563年7月・・

布教の拠点となる横瀬浦(現在の西海市)に来ました。

しかし8月に反キリシタンや貿易商の反乱で

焼き討ちに遭い、ここを離れるしかなく・・

次は何処へ行こうかと船の中で待機してました。

平戸は肥州の取り締まりが厳しく布教どころでは無かった。

さらにポルトガル船の貿易商とのトラブルで殺傷事件が

いわゆる宮の前事件があり、平戸はキリシタンにとって

安全な場所ではありませんでした。

ですから・・

代わりに籠手田氏の知行であった安全な平戸に近い度島が選ばれたようで

本来ならフロイスも平戸で布教し住居を構えたに違いない。

1563年11月に平戸から迎えにきた船に乗って

度島に着きました。

もうすでにフェルナンデス修道士が度島に来ていて

フロイスの来島を何か月前から楽しみにしていたようです。

 

横瀬浦が焼き討ちが無ければ

平戸の宮の前事件が無ければ

度島へ来る事はなかったかも知れません。

それだけ・・度島のキリシタン島民にとっては

幸運だったと言えるでしょう。

 

フロイスは度島は「天国の島」と思われるほど

住み心地が良く、島民は優しくここでの生活はパラダイスでした。

小さい島ゆえに物資が著しく不足し貧しい環境であっても

度島の島民はフロイス神父を称え、祈りの日々は

幸福の時を過ごしたのでしょう。

 

・・復活祭の頃には

度島での療養で病気が治り、フロイスにとっても

度島は有難い島でもあったでしょう。

 

フロイスの日本史を語る意味でも

度島は貴重な歴史の島であります。

そして1年後には平戸から幾内に布教し、

織田信長や豊臣秀吉に謁見し

当時の日本を知る上で貴重な日本史をに書き残してくれました。

 

フロイスは度島の教会があった現在の秋葉神社から

遠くに平戸や九州を眺め・・

何を感じただろうか・・

貴方もこの場所に立って

フロイスと同じ気分を味わってはいかがでしょう。

 

 

 

平戸・度島の夕日がきれいです!

度島から見る夕日・
綺麗やな・・
日本の最西端から見る夕日も
風情があります! 対岸の生月島をバックに 絶景のスポット!
度島のお盆の時に夕日が見たくて
当時、スマホの無い時代に
バカチョンカメラと言われる
物で撮った写真をスキャンして
見ました!
全国の皆さん、この夕日を見にカップルで
度島に来てみませんか?

天使の島と呼ばれた平戸・度島のキリシタン遺跡を紹介します。

2018年6月30日に「長崎と天草の潜伏キリシタン遺産関連の世界遺産が登録されました。

平戸市では春日集落と中江島が世界遺産に登録されました。

平戸市度島は上記の場所からも近い所にあります。

度島のキリシタンの歴史で・・注目されるのは・・

偉大な宣教師2人が住んでいた事です。

修道士で外科医のルイス・デ・アルメイダと

神父でフロイスの日本史を書いたルイス・フロイスです。

 

 

◆ルイス・デ・アルメイダ(南蛮医師)

日本人医師の協力を受けて病院を運営していたアルメイダは1558年には医学教育も開始。医師の養成を行った。やがてアルメイダは九州全域をまわって医療活動を行うようになり、1563年には平戸の北部、度島でも治療に当たっていた。同年には横瀬浦から非難し後に日本史を書いたフロイスも度島で10か月ほど滞在した。宇久純定の治療を依頼されるほどその名声は高まっていた[5]。(ウィキュベアより)

長崎開港に先立ち本県に初めて西洋医術を伝えたのは、宣教師・医療伝導師のルイス・アルメイダであり、外科的技術は特に優れていたという。来日したアルメイダは豊後(現大分県)の府内(現大分市)で日本初のヨーロッパ式医学教育を行なった後、本県平戸へ入り度島、生月島、大村、有馬、島原、口之津、福田浦など巡回し布教と医療に従事。永禄9年(1566)冬の五島灘を渡り、五島藩主五島純定や島民の病気を治療、それまで祈梼などにばかり頼っていた島民から感謝される。同10年(1567)長崎浦を訪れ長崎甚左衛門純景の館の近くに布教所(現春徳寺)を設け、布教と医療を行った。

こうして天正11年(1583)長崎の本博多町(現万歳町)にミゼリコルデイアの組(慈悲屋)がつくられ、癩病院・老人病院・孤児院など経営された(長崎県医師会より)

◆ルイス・アルメイダ(度島での治療逸話)

東野利夫著「南蛮医アルメイダ」には森重郎氏からの聞き取りで医に関する伝承が紹介されている。

「むかし、南蛮の薬師(くすし-医者)がここに来たげな。あっけらかんとした人で、足ば投げ出し長ギセルのようなものを吸うて、ひょうきんんなことば言うたりして、病人ば看てやっとげな。村のもんたちあ気楽に看てもらいよったとげな」

アルメイダにお世話になった多久島と言う姓の人が佐賀から年に1回は診療所跡にあるツクシ様に供養に訪れてます。

 


◆ルイス・フロイス

日本史を書いたルイス・フロイスは1563年7月6日、待望の日本に着き、西九州の横瀬浦に(長崎県西海市)第一歩を印した。その後、大村に内乱が起こり、貿易と布教の拠点であった横瀬浦は兵火によって焼失してしまい破壊された。フロイスは難を逃れる為に1563年11月に度島に避難し、ここで10ヶ月、病魔と闘いながらフェルナンデスから難解な日本語および日本の風習を学んだ。フロイスが度島で住んでたのは浦集落。立願寺と秋葉神社の間にある「テッペス」の石段の上周辺は、平戸資料館パネルではルイス・デ・アルメイダが住んだ度島教会跡と記されている。アルメイダはこの島の宣教活動と共に投薬による医療活動を行なったことで知られている。

1564年8月には平戸にポルトガル船が寄港したのを境に、平戸の肥州からの布教が許可されその後、幾内へと布教し織田信長や豊臣秀吉とも謁見しています。

 

◆フロイスの日本史

ルイス・フロイスが日本での出来事をまとめた編年体歴史書。戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史』を記したことで有名。松田毅一氏と川崎桃太氏の和訳の日本史は12巻まである。

学術的にも貴重な文献で日本のキリシタンを知る上で欠かせない書物である。フロイス日訳しキリシタンにも詳しい松田氏毅一氏も昭和41年と昭和53年に2度、度島を訪れ見聞をしているが閉鎖的な風土に困窮したと言われてます。昭和40年1月に発表された柳谷武夫氏による「日本史キリシタンの心」ルイスフロイスの日本での和訳が初めてと思われる。その後松田毅一氏や最近では2018年に清涼院流水氏が『ルイス・フロイス戦国記 ジャパゥン』などで発表し話題となってます。

「織田信長は潔癖症で、お酒が飲めなかった」、「豊臣秀吉は多指症であった(片方の手の指が六本あった)」といった事実などが一例として挙げられます。こうした「事実(史実)」を知っている日本人は、今現在は決して多くはないかもしれません。(清涼院流水氏より)

 

◆フロイスの日本史第五十章には度島の事について10ページほど記載されてます。最初に「ばあでれ(神父)ルイス・フロイスがいるまん(修道士)ファン・フェルナンデスと共に度島に移った次第」記述がある。

当時は平戸ではポルトガル商人と日本人との間で発生した暴動事件があった。宮の前事件と言われ、平戸では布教どころでは無く、宣教師への風当たりが強かった。横瀬浦の暴動で焼き討ちにあい平戸から籠手田安経の手配の小型船が迎えに来て度島にそのまま行った。平戸瀬戸から北西に向かうと、茜色の夕陽を反射する海上に左右一直線に広がる島が見え、フロイスが度島に近づくと島民も船で漕いだり、あるいは海岸まで行ってばあでれ様(神父様)迎えた。この暖かい島民の心にフロイスは大いに感激し喜んだと言われます。フロイスも何か月も熱病で苦しめれた病気が度島での復活祭の日を境に奇跡的に治り、度島での療養が功を奏した。4月2日の復活祭ではキリシタンなちはいちばん上等な着物に身を包み、誰もが笑顔で、見違えるほど輝いていた。フェルナンデスと共に私も頭に花の冠を載せは私たちを先頭にキリシタンたちは行列をつくって、島内を練り歩いた。かってキリシタンの聖地となるはずだった横瀬浦には異教徒がいたが、この度島は島民全員がキリシタンであり、島外からの訪問者もキリシタンのみと言う、まさに我らの天国であった。(ジャパゥンより)度島は基礎となるフロイス日本史の歴史の島として名を残す事になりました。アルメイダは度島を「天使の島」呼び、キリシタンの信愛の深さが良く書かれている。今でも当時、南蛮医師アルメイダにお世話になった佐賀県に移られた多久嶋と言う名前のご子孫が年に1回はアルメイダの供養に度島に訪れている。フロイスは住居のテッペスの石段の上で遠くに平戸が眺める風景に何を思ったのだろうか・・450年前にタイムスリップして見るのもいいかも知れない。

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