平戸・度島のキリシタン遺跡 -2ページ目

◆1970年の度島地図(国土地理院)

◆1枚目は1970年の度島地図(国土地理院より)

現在に比べると、白い部分(畑や土地)が

多いようです。

2枚目はグーグルマップより

こちらは現在に地図

3枚目は1800年代の肥前平戸よりの度島地図

(度島、写真①)

 

度島の北東にある荒崎です。遠足に行った中山が見えます。・・中央の白い部分が中山、遠足の定番でした。学校から歩いて湯牟田付近から北上し、1時間ぐらい歩いて到着。草スキーや背後に見える大島など、とても楽しい時間を過ごました。(度島写真②)

1970年(昭和45年)

1948年(昭和23年)

三免地区です。左側に103mの丸島が見えます。(度島写真③)

1970年(昭和50年)

1948年(昭和23年)

度島の中央部分で中部地区、湯牟田・・新しい度島小中学校はまだ出来てません。(度島写真④)

浦、中部地区です。(度島写真⑤)

湾岸整備される前の浦地区、ハイキの鼻には松の木が見えます。(度島写真⑥)

1970年

1948年

【漫画】『日本史』の著作・ルイス・フロイスの生涯簡単解説(度島も出てます)

ユーチュブに

 

【漫画】『日本史』の著作・ルイス・フロイスの生涯簡単解

 

と言う動画が出てます。

 

最初の方で度島の事も紹介されてます。

 

2分35秒ぐらいあたりに・・

 

漫画解説なら、分かりやすいので

 

ルイス・フロイスがどんな人物なのか?

 

皆さんもご覧下さい!

 

https://youtu.be/Xckb7d3PTGQ

 

 

◆「度島の盆ごうれい」

 

◆「度島の盆ごうれい」は無形民俗文化財(県指定)。長崎県平戸市度島町に江戸時代から伝わる民俗芸能で、伝承によると寛文10年(1670)に島民の平和と豊年、豊漁を祈願して起こったと伝えられています。旧暦の7月16日、総勢200名以上の参加者が大名行列の形態をとり、幟組・棒組・須古踊組・奴踊組・子踊組に分かれ、島内の神社仏閣を中心に奉納が行われます。盆ごうれいの象徴である幟は、御霊が宿る最も神聖なもので、見せ場である「吹き渡し」「逆起し」の演技の成否がその年を占うとされ、幟さしの若者の力と技と心意気が求められるものです。これほど昔ながらの姿で保存伝承されているのは、数多くの伝統芸能をかかえる長崎県内でも他に例がありません。

 

◆浦集落に伝えられるこんな歌がある。雲のテッペショウに星のおやじが降りて来た・・目玉おに出て・・ぬけでて・・しこでこにらんだ・・だるま仏がさ・・はいや・・ぬいとせ・・ああ目出度い・・こんだとさ。(森重郎氏)

学生時代に森重郎氏に聞いて覚えてる事がある。度島の事は外国の文献に書いてあると・・この幟はキリシタン供養で意味があると・・遠い昔の話ですが、今でも記憶にありますね。

◆度島の盆ごうれいの論文を発表されてる長崎大の山下龍先生にメールを出して記事の許可をいただきましたので紹介します。

幟.jpg
 

◆度島の盆ごうれいの祝祭の特定の特徴であり、特にお盆祭りに関連した幟の掲揚は、日本の他の場所では一般的ではないようです。これらすべてのパフォーマンスの中で最も印象的なのは、幟の掲揚です。昨年まで、すべての病棟には長さ11メートルの竹の棒と、上部に別の3.66メートルの細長い竹の棒が付いた2つの幟がありました。これらの旗の掲揚は島の若い男性によって行われ、男らしさのかなりの証拠として見られています。浦区の立願寺の前にある狭い階段でこれを行うと、特に力の偉業と見なされます。幟は長さ11メートルの竹の棒に取り付けられ、白黒の水平線に分割されます。幟の白い部分は空の神々を、黒い部分は土地の神々を表しています。幟自体の形は、博多の商人たちが貿易に使用した「天満船」の幟の形に似ています。 3.66メートルの竹の棒には、いわゆる「マンド」が取り付けられています。マンドは、度島の本殿の名前が書かれた小さな箱であり、島の神道神の存在を表していると見られています。幟は神聖な物体と見なされているため、地面に触れないように細心の注意が払われています。したがって、若い男性が幟を掲げることは非常に重要です。最近まで、すべての病棟には2つの幟がありましたが、2014年の夏には、それらを運ぶ若者が不足していたため、この数は1つに減少しました。女性は幟に触れることはできません。(「平戸でのイエズス会と度島の消えたキリシタン」山下龍氏記事より引用)英文の為グーグル翻訳にて記述

#度島

#盆ごうれい

◆度島のキリシタンがおさずけ(洗礼)を受けた言う浦地区のコンパチ川

◆度島のキリシタンが洗礼を受けた言う浦地区のコンパチ川

 

キリシタン史の謎を歩くからの記事では次のような事が書いてある。

浦集落にある上のテッペス(教会跡)近くのゴンパチ川に、戦前まで一尋(ひろ)程の俎(まないた)のような石があり、キリシタン時代にはそこでおさずけ(洗礼)をしていたと言う伝承があった。その石を邪魔だと取り捨てた人物は、気が変になって海に飛び込んで死んだ。キリシタンの祟りと言われている。

一尋とは約1.8mほどの大きさで、私も子供の時にはこの川で遊んだり、ウナギを釣ったりしていた。丁度,吉木家の横から漁業組合まで2mの川幅で、俎のような平たい石があったような記憶がある。水量が多くなる6月ぐらいにはミミズを餌に上流の秋葉神社の横ぐらいのところでウナギを釣りに行った思い出がある。

 

現在グーグルマップで見ると、漁業組合付近は30mぐらい

コンクリーとで覆われて川の様子は見えないようである。

 

フロイスが採った言われる聖水もこの川からでなないかと思われる。

◆ルイス・フロイスが見た明智光秀

◆ルイス・フロイスが見た明智光秀

NHKの大河ドラマ「麒麟が来る」が放送されています。その登場人物の主役が明智光秀です。

 

ルイス・フロイスも明智光秀の事は日本史で「本能寺の変」について信長が焼き討ちに遭ったことを紹介してます。」

 

 

今回、近くの書店で株式会社三栄さんが発売した「ルイス・フロイスが見た明智光秀」の本を買って読みました。この手の雑誌は大きく絵や写真もふんだんにいれてあり読みやすいのが特徴です。

さて・・この本の中でルイス・フロイスが度島で過ごした事が書かれています。

「度島は天使の島だ。」何とも嬉しいと言うか、とても気分がいいですね。この文言は・・キリシタン弾圧で苦しめれたフロイスにとっては度島は安らぎの移住地でもあったようです。

 

記事についてはフロイスの日本史に書かれているものとほとんど変わりません。

 

以下は本文からの抜粋です。

来日した矢先、災難に見舞われたフロイスは先輩の修道士ファン・フェルナンデスらと共に度島(平戸の北方4㎞)へ渡った。そこで日本語や日本の風習について学ぶこととなった。フェルナンデスもザビエルと共に来日した宣教師のひとりで、14年間もの在日経験から日本文化に精通していた。また、この度島はトーレスや、その弟子であるルイス・デ・アルメイダの布教活動によって350人もの信徒がおり、フロイスたちは歓迎された。フロイスは長旅の疲れから、最初の4か月ほどマラリヤに遭って苦しんだ。しかし、寒さに震えるフロイスに島民の子供たちが自分の衣服を脱いで掛けるなど、人々の温かさに癒され元気を取り戻した。こうして10ヶ月あまり過ごした頃、フロイスは京都に行くアルメイダに同行するため、島を離れることになった。京都で5年前から布教に励んでいるガスパル・ヴィレラの活動を助けるためであった。「度島は天使の島だ。島を去る時はつらかった。子供たちが我先に波打ち際まで追って来て、私の服の裾に接吻しながら泣いた。度島には人々がみな愛においてひとつにまとまっていた。原始教会時代の新鮮な信仰がちゃんと存在しているのである。」フロイスはかっての学び舎であるゴアのイエスズ会修道院荷に宛てた手紙の中で、そう述べている。

◆度島 立願時にある佐川主馬が建立したキリシタン供養塔サバ大師

平戸・度島にある唯一のお寺が立願時である。

ここは昔はイエスズ会の領地だったとかで、1616年元和2年に設立された。境内には等身大ほどの碑が2つ立ってます。立願時は浄土宗で本尊は阿弥陀如来になる。

 

以下は森禮子氏のキリシタン史の謎を歩くより抜粋・・境内の端に、等身大ほどの碑が2基建っている。一基はキリシタンの棄教者たちが建てた殉教者の供養塔で、もう一基は元禄九年に佐川主馬が建立したキリシタン供養塔のサバ大師。佐川主馬なる人物が誰か、なにゆえ元禄九年かは不明(キリシタン史の謎を歩くより)

 

元禄9年は1696年、佐川主馬は平戸藩の松浦鎮信に仕えた国老で、平戸城の下にある亀岡神社の鳥居について佐川主馬の説明書が松浦資料館にあると書かれてる。亀岡神社に関係するプログがありまいsた。

http://inouejun1.blogspot.com/2012/07/

佐川主馬のお墓は平戸の西教寺に葬れているようで、

佐川主馬助(しゅめのすけ、平戸藩国老)の墓があります。
寛永元年(1624)死去とあるので、このサバ大師との関係は不明です。

 

右側がサバ大師塔、左手に魚(鯖)を持ってるように見える。全国的に鯖大師としての弘法大師伝説もある。度島でもこんな大きな等身大の碑はここだけしかありませんね。

度島の対岸の平戸島にある田ノ浦には弘法大師が来たと伝えられている。

鯖大師(読み)さばだいし

世界大百科事典内の鯖大師から・・

【サバ(鯖)】より

…これは漁獲物の一部を舟子,網子たちが無償でもち帰るカンダラという風習と関連するとも思われる。 一方,古い街道筋の要所である坂や峠に僧がサバを手にもつ像を祭って〈鯖大師〉と呼び,弘法大師が旅僧の姿でサバ1匹を請うたのに,商人または馬子が荷物のサバを与えなかったために罰せられたという伝説を伝えている場合がある。徳島県海部郡海南町鯖瀬の八坂八浜の伝承は代表的であるが,これは坂や峠の神に食物の初穂を供える風習と,これを仏教で生飯(さば)と称したことが転訛(てんか)してこの伝説となったらしい。…

下の写真では左手に鯖を持ってるように

見えますね。

左側は・・キリシタンの棄教者が建てた供養塔で萬霊塔と記されてる。平戸の各地では三界萬霊塔と呼ばれ、多くの塔が存在する。右の杖は木で出来ていて、交換出来るようになってます。

下の台座には天保14年葵卯(1843年)と記されてる

 

 

◆フロイスが度島で食べた食事とはどんな物だったか?

◆フロイスが度島で食べた食事とは・・どんな物だったか?

興味ありますね。

松田毅一氏が訳したフロイスの日本史の第八章(第一部50章)の122ページに度島での食事の事が記載されてます。

 

度島の教会の火事で引っ越しをした司祭と修道士はペトロと言う教名の、一人の非常に善良な老いたキリシタンの家に引っ越した。そして彼らを慰めようと、自分のところにあった食物を料理して彼らの所に持って来た。それはいっぱい泡をふいた生の貝と海草と大蒜(ニンニク)と少量の炊いた麦であった。(フロイスの日本史より)

泡をふいた生の貝と言えば普通はアワビの事を言うのだが、どうか?

 ルイス・フロイス戦国記「ジャパウン」ではペードゥルは、我らにために、巻貝(buzio ブーズイゥ)や海藻(alga アウガ)にんにく(alho アーリヨ)調理した大麦(cevada セヴアーダ)などをふるまってくれたと書いてある。巻貝ならサザエでしょうね。いずれにせよ、フロイスが度島に来たのは11月、冬の海でアワビやサザエを捕る事は難しく、夏に捕れてた物を生簀か籠に入れて海の側で保存していたかも知れない。サザエなら煮えれば泡を吹くし、ポルトガル語の訳し方、読み方で名称も変わるようです。

 

◆度島に初めて来た宣教師はヴィレラ神父と ロレンソ修道士

◆度島に初めて来た宣教師はヴィレラ神父と ロレンソ修道士

まず、度島での布教は年表から見ると

■1557年弘治3年平戸についで、度島でも布教が始まる

 

■1558年弘治4年ガスパル・ヴィレラ神父の活躍で平戸のキリシタンが1500人を数えるまたヴィレラ神父はガーコ神父の支援で度島を訪れ信者を獲得

とあり、度島でのキリシタン布教はこの頃から始まったと思われます。

 

高山右近研究室プログさんよりの抜粋です。

 

さらに高山右近研究室プログさんの記事から

ロレンソ修道士は現在の平戸市春日町白石の出身とあり、目が不自由であったため、琵琶法師として生計をたて、その後、ザビエルと会い、洗礼を受けてます。

 

以下は高山研究室さんの記事から

 

● 「 度島 」 の名前については、キリシタン達と関係のある島として

知っていました。

 

 平戸は、領主 ・ 松浦隆信が治めていましたが、

 父 ・ 興信が亡くなった時に、まだ13歳だった隆信を 後継者として

立て、支えてきたのが、籠手田 ( こてだ ) 一族で、

 その知行地は、生月島 ・ 度島と、平戸島の西海岸の地域でした。

 

 籠手田一族は、安昌 ( ゼロニモ ) ・ 安経 ( アントニオ ) ・ 安一 の

三代にわたり、これらの地域の キリシタンの中心となって、宣教師を保護し ・ 教会を支持し ・ 信徒たちを励ましてきた領主でした。

 

● それまで 平戸で宣教の働きをしていた ガーゴ神父が、博多に転任しましたので、それに代わって、ヴィレラ神父と ロレンソ修道士が

平戸に遣わされました。

 

 ヴィレラ神父が平戸に到着した時、

 若き領主 ・ 籠手田アントニオ安経は、自分の領地を案内して、領民の改宗を進めるために、ヴィレラ神父 ・ ロレンソ修道士と共に、村々を

巡回宣教していきました。

 

 度島も、籠手田アントニオ安経の領地でしたから、

 度島にも、ヴィレラ神父と ロレンソ修道士によって、キリスト教が伝えられていきました。

◆度島にやって来た宣教師はどんな人が来たの?

 

◆度島に来た主な宣教師

森禮子氏のキリシタン史の謎を歩くでは森重郎氏が秋葉神社にあった教会跡のついて・・左側が宣教師7人が住んでいた場所と指摘されてます。さらにテッペスの石段にはフロイスが住み、たくさんの宣教師が滞在したと思われます。

  1. ルイス・フロイス(神父・ポルトガル人)
  2. ルイス・デ・アルメイダ(修道士・南蛮医師外科医・ポルトガル人)
  3. ガスバル・ヴィレラ(神父・ポルトガル人、都地方の責任者)
  4. ジョウアゥン・フェルナンデス(修道士・スペイン人)
  5. ガスバール・コエリヨ(神父・クエリヨとも言う他に松田毅一氏の本にはコエリュと紹介)イエズス会日本支部の準管区長
  6. コメス・デ・トルレス(神父)スペイン人、ジャパウン布教長
  7. ジョウアゥン・カブラル(神父・インド人)
  8. ベルショール・デ・フィゲイレド(神父・インド人)
  9. バルタザール・ダ・コスタ(神父・ポルトガル人)

(『ルイス・フロイス戦国記 ジャパゥン』より)

 

   10.ロレソン【 平戸での ロレンソ 】

ロレソンは日本人で目が不自由の為に琵琶法師と生計を立てていた。

ザビエルから洗礼を受けてロレソンとなり、ロレソン修道士として活躍された。

◆ルイス・フロイス23年ぶりの度島居住

◆ルイス・フロイス23年ぶりの度島居住

(1564年10月にフロイスは度島を離れて以来、実に23年ぶりの度島居住であった。これは伴天連追放令で宣教師が平戸に集合し、今後どうするか話しあいの為、フロイスも度島で過ごした)

 

平戸には8月中に、幾内にいたオルガンティーンら3人と豊後地方にいた5人を除く会員105人と神学生70人が集まった。フロイスは8月5日付けで豊後地方を取り扱った「1587年度日本年報」を完成させ10月2日付けで豊後とシモ地方に関する第1年報を書き終えた。彼は同日付け及び10月8日付けで第3年報を度島から発信している。平戸の教会と住院が手狭であったので、多くの宣教師とコレジオの学生や修錬院生らは、ドン・ジェロニモ籠手田安一の所領生月島の山田教会に、都の神学生たちは、壱部の教会に居た。(2部108章)平戸の教会に居たと思われるフロイスは10月2日に度島に渡っていた。(二部108章)度島居住は23年ぶりである。同島には12月半頃までいたようである。準区間長(コエリヨ)も一緒で逢った(同102章)(五野井隆吏氏 度島での生活より)

 

 

•日本副管区長コエリュはここに(度島)バレテンたちを集め、日本のイエスズ会の運命を賭した重大会議を開催した。協議会では種々の意見が開陳されたなかに、これでは日本の教会は破滅あるのみである。長崎の軍備を充実して立て籠もり、海外に軍事的援助を求めようという案も出た。これに対し、それこそ日本キリシタン破滅以外のなにものでもない。はポルトガルの屈伏は必定であり、関白は(秀吉)ポルトガルを恐れておらぬと言う意見が圧倒的で、長崎の要塞化を固執したのは副管長のコエリュとその補佐フロイスだけであった。にもかかわらずコエリュはベルショール・デ・モウラを救援要請の為にマカオに向かわせることにした。(秀吉南蛮人より