平戸・度島のキリシタン遺跡
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◆平戸切支丹資料館にある度島の遺跡地図

平戸切支丹資料館には平戸市内のキリシタン遺跡が紹介されてます

度島にも15ヵ所ほどの遺跡があります。

このプログの平戸・度島のキリシタン遺跡はこの地図を参考に、さらにキリシタン史の謎を歩くからでは森重郎氏の話を参考にまとめてあります。

こうやって見ると、度島には多くの遺跡がありますね。

数の多さから、森重郎氏が書かれていた地図がそのまま、遺跡の場所を示しているようです。

 

 ①ナンドサンナンド洞窟

 ②ウドの洞窟(3m以上の石周辺)

 ③丸島(飯盛山)

 ④千人塚(殉教者が葬られている)

 ⑤井元権右門の墓(山の雑木林の中にある)

 ⑥つくし様アルメイダ治療所跡(中部公民館)

 ⑦キリシタン寺屋敷教会跡 

 ⑧六斉念仏祈願碑

 ⑨立願寺

 ⑩サバ大師と萬霊塔(立願寺)

 ⑪供養塔(小川地区)

 ⑫洗礼を受けたコンパチ川(秋葉神社の横の小川)

 ⑬上のテッペス教会跡(秋葉神社)

 ⑭下のテッペス教会跡(フロイスの住居跡) 

 ⑮十字架敷石跡(ヘリポート場)

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

◆今日は子供の日、450年前の度島の子供たちはどう過ごしたのかな?

5月5日は子供の日、街中に鯉のぼりが勢いよく掲げれてますね。さて450年前の平戸の度島の子供たちはどのように過ごしたのか?丁度、4月の復活祭が終わって、度島もさわやかな緑の季節を迎えた事でしょう。当時は本も無く、インターネットの無い時代に、どうやって、過ごしたのか?フロイスの日本史の中で度島の子供たちについて記してあります。

朝方、ミサに来てさらに正午にも夕方はアベマリアの時間になると教会に集まり、ロザリオに祈りを捧げ、そして家路につくのである。13,14,15歳の子供たちである。当時の教会は秋葉神社のところにあり、キリストの教えを学び、毎日の生活を充実させていたことでしょう。

「賢かつた度島の子供たち」

動画にしました。ご覧ください。

平戸・度島のキリシタン遺跡 ⑮信仰が深く賢かった度島の子供たち - YouTube

◇ロレンソ了斎と度島

平戸・度島のキリシタン遺跡 18番目はロレンソ了斎と度島です。
ロレンソ了斎は、
大永6年1526年、肥前国白石現在の長崎県平戸市白石に生まれる。目が不自由であったため、琵琶法師として、生計を立てていたが、天分20年、1551年に山口の街角でフランシスコ・ザビエルの話を聞きキリスト教に魅力を感じ、ザビエルの手によって洗礼を授かり、ロレンソという洗礼名を受けた。

ロレンソはザビエルが日本を離れた後も、イエズス会の宣教師たちを助け、キリスト教の布教活動に従事した。永禄2年1559年、コスメ・デ・トーレスの命を受けガスパル・ヴィレラと共に京に入り、苦労の末に将軍・足利義輝に謁見し、キリスト教布教許可の制札を受けた。又、フロイスが二条城で織田信長に謁見した時に通訳としても同行してました。

 

ロレンソ、度島において浄土宗の仏僧と宗論する1558年頃
『この時、平戸には、浄土宗という阿弥陀の宗派のひとりの仏僧がいたが、彼はつい先頃そこに来たのであった。彼は説教の際、聴衆に向かい、デウスの教えやキリシタンのことについて幾多の悪口を語るのが常であった。ドン・アントニオ籠手田安経は、当時まだ若く,大いなる熱意をもって布教事業に率先して、家臣のうちで受洗しない者が一人でもいることに我慢ならないほどであったが、彼は、度島において、数日前にやっと洗礼を受けたばかりの新改宗者に教えを授けていたガスパル・ヴィレラ神父の許へ伝言を届けさせた。

その中で彼は司祭に、
例の仏僧が公然と講壇においてデウスの教えを中傷し、何びともあんな悪い宗派に入ってはならぬと言っている。ついては誰かを遣わして、その仏僧に答弁するよう取計っていただきたい、と報じた。この時、ドン・アントニオはキリシタンになってまだ満一年と経っていなかった。


ところで当時、ロレンソ修道士がそこにいたので、司祭はかの仏僧を訪ねさせるため、修道士を平戸に派遣した。ドン・アントニオと、その兄弟ドン・ジョアン、ならびに他の身分の高いキリシタンたちが、ロレンソ修道士を、折から仏僧が説教していた場所に連れて行った。説教が終わったとき、ロレンソ修道士は自分が説教で聞いたことについて,何がしかの疑問を持ち出した。仏僧はそれに対して全然答える術を知らず、キリシタンの教えについて何も謗った覚えはないと否認した。さて日本の僧侶の習慣では、誰かが宗論で打ち負かされると,勝者は敗者から、衣と称される、非常に尊ばれている上衣を剥ぎとることになっている


それは敗者にとっては大いなる屈辱であり不名誉な事であったので、ロレンソ修道士は僧侶に向かい、「日本の習慣によれば貴僧の衣を剥ぐところだが、皆が,貴僧が打ち負かされたと白状するのを知ってくれれば満足いたそう。なぜならば、デウスの教えを弘める人々は、何人も辱めようとはしないのだから」と。』
ルイス・フロイス著『日本史 6』大友宗麟編I 第 16 章第 1 部 18 章

◆司馬遼太郎氏の小説「韃靼疾風録」に出て来る度島とアピアと言う漂着女性は?

ネットで度島に関する記事を探してたら

 

司馬遼太郎氏の小説「韃靼疾風録」(だったんしっぷうろく)の中に度島言う言葉が出て来ます。

おそらく、小説の中で度島と言う文字が出るのは初めてでしょう。

司馬遼太郎と言えば『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』などがある。NHKの大河ドラマでも有名ですね。

 

さらに「司馬遼太郎 度島」で検索すると一番に

九州物語に

 

司馬遼太郎著。 平戸生まれの若者がキリシタン禁制下の度島で女真族の漂着女性に出会い大陸の韃靼に渡り、大活躍をする 歴史ロマン小説。

 

さらに観光情報にはナンドサンドまで紹介してありますね。

嬉しい事です。

 

九州物語 (mlit.go.jp)


この小説のモチーフに度島が選ばれたのは何故?かなと考えて見ました。平戸周辺には生月や大島があるので気になってました。司馬遼太郎の「街道行く」では平戸や松浦資料館を訪問、さらにポルトガル人の足跡を追って横瀬浦にも行かれてます。横瀬浦は宣教師フロイスが初めて日本にやって来た場所でその後、フロイスは度島へと移住します。

漂流、天使の島、籠手田夫人ドナ・イサベラ、平戸の北隣の島で度島は小説として書きやすかったのかも知れませんね。

 

中国、女真の地から日本の平戸・度島に漂流したアピアと言う度島御料人。(御料人(ごりょうにん)とは、中世以降用いられた、主に女性に対する敬称の一)平戸の藩士、桂庄助と知り合いやがて妻となり、その後、韃靼(モンゴルの部族一)に帰る為、桂庄助と一緒に行くのだが・・そこは小説。

ロマンがあって素晴らしいじゃないですか。

 

他にもこんな記事があります。

Blog Cafe『司馬遼太郎を語る会』 (cocolog-nifty.com)

 

◆度島(たくしま)と多久島(たくしま)の関係は??

◆度島(たくしま)と多久島(たくしま)の関係は??

 

最近は多久島さんと名乗られる姓の方が九州北部を中心に佐賀県や福岡県に在住の方が多いようです。

 

さて?多久島さんのルーツは?興味深いところですね。

名字由来netさんには・・

 

現佐賀県と長崎県である肥前国松浦宇野御厨多久島が起源(ルーツ)である。近年、佐賀県伊万里市に多数みられる。 「島」は一定の小区画を表す

 

それでは?何処なのか?

 

◆宇野御厨(うのみくりや)は・

肥前国松浦(まつら)郡に設定されていたが,どこの御厨であったか不明。長崎県松浦(まつうら)市に御厨の地名が残っており,この付近を中心にしたとみられる。鎌倉時代には宇野御厨荘・御厨荘とも称され,田数300町であったことが知られ,また1322年西園寺家に年貢の子牛を送った記録がある。当御厨の贄人(にえびと)らは複雑な海岸線を呈する多島海沿岸に広く割拠し,航海術をもって海外交易に従事したりしたが,やがて武装化して松浦党とよばれた。壇ノ浦の戦の平家方主力水軍は松浦党であった。(百科事典マイペディア)

 

この九州北部地域に多久島という名の島があるかどうか調べて見ましたが、現在はないようですが、平戸市の度島が江戸時代の家光地図には多久嶋と記載されてます。

 

多久嶋・たくしま・・と読み方は一緒なんで度島の異字形と思われます。

 

「キリシタン史の謎を歩く」では・・今では年に一度、アルメイダに治療をうけた人々のの子孫が集まって,お祀りが行われるという。・・この島から佐賀の方へ移って行った、多久嶋と言う姓のご一族の人達も必ず来ます。その時にはわたしの方にも挨拶にみえます。(森重郎氏)

 

net記事からは・・こんな記事がありました。

 

聞き取り者:多久島 守行 (昭和6年生まれ)
当初は、別の人にお話を聞く予定だったが、その方の都合が悪く、その方に
多久島さんを紹介していただき、別の班と一緒にお話を聞くことになった。

1、 多久島性の由来について
この地区には多久島性の方がとても多く、最初にそのことについて聞いた。

長崎県の度島(タクシマ)から、先祖がこの辺りに移ってきて、一帯に部落を作った。
唐津、佐賀辺りにもこの名字は多いが、それはこの辺り一帯の出身者である。

 

※結論として多久島さんの名字の起源(ルーツ)は

平戸市の度島が伝承や古地図などからも有力と考えられますね。
全国の多久島さん、自分のルーツを探すためにも、是非、平戸・度島に遊びに来て見て下さい。

 

◆フロイスの日本史を訳した松田毅一氏と度島

フロイスの日本史を訳した事で知られる松田毅一氏はルイス・フロイスの事を調査する為に平戸市の度島には2度ほど、足を運ばれてます。

田原市図書館に松田毅一氏の本があったので、読んでみました。

「南蛮遍路」の本の中に松田氏が度島を訪れた時の事のエピソードが記載してあります。

なかなか面白いです。

 

以下は「南蛮遍路」よりの抜粋き記事です。

 

フロイスは日本に着いて間もなく、平戸沖の度島で同僚のフェルナンデス修道士から日本語を学んだりした。その度島へ私は、生月島から漁船を出してもらって調査に訪ねたことがある。島人は「そのようなことなら立願寺の住職に訊ねるといい」と言うので訪れた。私は1時間近く、住職滝川慈海師の話に耳を傾け、よくも400年間、この玄界灘の孤島に、南蛮のバレテンの事跡が語り継がれたものだと感心していたが、ふと変に思って、「それは何か書物で読まれたことではないですか」と訊ねたところ、「そう、この本で・・・・」と言って私の刊行して間もない中公新書「南蛮史料の発見」を持って来られた。「私がこの本の著者です」と言うと住職はあっけにとられたが、私もまさかこの地で出版直後の拙者が読まれているとは想像もつきかねることであった。

 

松田氏に対応されてのが立願寺住職で度島中学校の社会科教諭の滝川先生でした。滝川先生は他にも国語の教えておられ、私も滝川先生から学んだ一生徒でした。

■平戸市内キリシタン遺跡詳細分布調査報告書(度島の寺屋敷キリシタン教会跡)

古本屋で1988年3月に平戸市教育委員会が発行した「平戸市内キリシタン遺跡詳細分布調査報告書」を手に入れました、お値段は1100円でした。今回は謎が多い、度島観光案内板にもある寺屋敷キリシタン教会跡についてです。

唯一、度島の観光案内板にキリシタンと書かれてるのがこの寺屋敷跡。報告書でまず、目に付くのが目次に度島教会跡(?)と記述してあります。今ひとつこの調査では疑問符があろように・・結果的にはキリシタンと呼べるような確かな出土品が無かったようです。

又、この場所については、中央の奥の付近の畑あたりのような所と勘違いされる方がいるかも知れません。昔の写真を見ますと綺麗に整地してあり、寺屋敷跡ではないようです。

調査関係者として度島の人が協力してくれたようです。

 

・調査協力者

滝川慈海(郷土史家)立願寺住職、度島中、、社会科教諭

森重郎(郷土史家)

里崎俊明(平戸市度島小・中学校校長)

 

・発掘作業員

森晴美

長嶋秀子

山添幸子

桝屋シズヨ

森あやみ

 

度島教会跡(平戸市度島町1756番地)

発掘調査日 昭和62年11月28日から12月2日

 

この報告書の結論については・・

「本遺跡は整地の状況などから、屋敷地の跡なのは確実だが、出土遺物より、教会堂であった可能性はほとんどない。しかし、遺跡南側には墓らしき石組が認めれ、キリシタン関連遺跡という可能性は残っている。」

と記載されてます。

 

つまり、発掘調査の結果はキリシタンに関するものはでてなくて、江戸時代の器の破片が多く出ていて人が住んでた寺屋敷であった事は間違いないが、キリシタンに直接、結び付く物は発見されなかったようです。

 

寺屋敷キリシタン教会跡にするのであれば、どのような人物が住んでいたのか?もっと資料調査が必要で検討の余地がありますね。

 

この報告書には宣教師アルメイダが次にように記してる。

 

(度島には)およそ500人の新宗教の信者と8人の異教徒があったが、この異教徒もわれらが͡此地に到着して後改宗した。住民は稀に見る立派な人間で、以前は僧侶であった者を小教区長としていた。非常に飾りたてた彼らの教会は以前偶像を安置してあった寺院である。此寺院に属する収入及び慈善団体の施設で小教区長のみならず、彼のところに教えを受けに来る数多の貧乏な人々が生活していることを我等は知った。(中略)十字架は石堀を廻らし、はなはだ美麗に保存せり。

 

平戸切支丹資料館に掲示している度島最初の教会跡はこれを追従ししている。つまり寺院だったところが、島民全員が改宗したので寺院を教会にして寺屋敷教会跡になったと思われる。フロイスが度島に来る前の話であります。したがって一時的にここを教会として利用したかも知れません。フロイスの日本史では火事の際に近くの12軒ぐらいが火災にあったと述べらてますが、この周辺は人家が少なく、しかも裏が山に囲まれており、北風を受けにくく、火事の延焼は少ないと思われます。

 

反対に森重郎氏が調査した上のテッペスと言われる教会跡(秋葉神社周辺)や宣教師7人が住んでいたされる秋葉神社の横の住居。さらに下のテッペスと呼ばれるルイス・フロイスが住んでた書斎跡など森重郎氏が度島の家畜治療に行く先々の家で古文書や伝来品を見せてもらい、歴史書などと照らし合わせて作成したもので、新たにこちらの方に教会を建てたと思われます。

 

観光案内板には上のテッペス、フロイスが住んでいた下のテッペスをこちらも追加して欲しいですね。

 

又、関連付随として滝川慈海 1984 「寺屋敷」「昭和57年・58年度文化財調査事業報告書」平戸市教育委員会所収もあります。

関連付随記事では森重郎氏のご教示による。も記載してあります。

 

 

 

t調査記録によれば

今回調査した寺屋敷は同島の分水嶺をなす中央の比較的平たんな頂上部よりやや下がった斜面の杉林の中に所在する。(第3図)その北西にはキリシタン征伐を行った井元権右衛門の墓、北東に殉教者を葬った千人塚が位置する。

◆タツノオトシゴと犬の形をした平戸・度島とは? 

「キリシタン史の謎を歩く」

を書かれた芥川賞作家の森禮子さん。

キリシタン遺跡を調べる為に東京から平戸の度島の事を調べていて、どんな島なのか?

 

この秋の次は秋の連休に、平戸と度島に行きましょう‥と言う博多のカモ氏のご提案に否やはなく、すぐさま下調べにとりかかった。しかし東京から遠い西の果ての、平戸島の沖合に浮かぶタツノオトシゴのような小島のこと、史料探しも容易ではない。(キリシタン史の謎を歩くより)

 

なるほど、確かに言われて見ればタツノオトシゴにも見えますね。

度島の1948年の国土地理院では荒崎の形がまるで犬のようの見えるから不思議です。・・目と口と背中の斑模様が何となく犬に見える。昔は畑や農地が多く白い部分が多かったが近年は草を食べてくれる牛が少なく、休耕田となって緑の部分が多くなりました。犬の背中の白い部分が学校の遠足の定番だった中山と言う場所。坂があり草スキーも楽しんだ対岸には大島が見え上から海を見卸す断崖は圧巻でした!

#度島

#犬

◆十字架敷石跡 度島浦地区の高台

十字架敷石跡(浦地区の西側では一番高い場所で現在のヘリポート周辺 )以前は大きな石がたくさん散財していたが現在は大きな石が1個だけ見える。改造前は2つの上に平たい石を載せてあったとか、復活祭とかで十字架敷石まで行列を作って島内を練り歩き最後にここにも来たと思われる。

 

森禮子氏の「キリシタン史の謎を歩くから」は・・

 

上のテッペスからぼうず道を通って上がった高台には、大きな敷石の十字架があり、森重郎氏は子供時分に母親から「その石には神様が宿ってるから踏んではいけない」と厳しく禁じられていた。近年、ヘリポートの造成のため敷石は取り除かれてしまったが、しかし周辺には表が平らな大石が幾つも転がり、キリシタン史蹟の無残な名残を偲ぶことができる。

 

現在は写真にあるような大きな石が端の方に1個だけ残ってます。確かに幼少時にここで遊んだ時には大きな石が転がっていて、かくれんぼ等で遊んだものです。出来ればこの石の周辺の草刈りをして欲しいですね

 

◆ヤフオクで見つけた度島教会跡に関する報告書

◆ヤフオクで見つけた度島教会跡に関する報告書

 

偶然ですが、ヤフオクで平戸市のキリシタン遺跡発掘詳細分布調査報告書なるのもを見つけた。

そこには度島の教会跡(?)・・・49ページ

 

謎を呼ぶ、度島教会跡ですが、松田毅一氏によれば、ここは立願寺の空地があった場所でほぼ間違いないと、延べられてますね。松田氏は昭和41年と53年に度島を訪問し、(キリシタン史の謎を歩くより)当時の住職の接待を受けたとある。

 

記述では質素なたたずまいなの寺。浄土宗の立願寺とかで、松田毅一氏が歓談されたのはこの寺らしい。が、島いちばんのもの知りで、中学教師を兼ねていたとかの住職が、教会跡のテッペスやアルメイダの治療所跡のつくし様をなぜご存知なかったのか。どうも腑におちない。

 

この報告書で目次に?マークがつくだけに、調査団も迷ってるようですし、教会跡と言ってもフロイスが住んでたと言う場所ではないようです。森重郎氏のコメントからもこの場所の存在はありません。

 

観光案内板には寺屋敷教会跡、書いてあるようですから、何か建物があったのでしょう。

 

以前にも書きましたが教会は信徒が歩いて行きやすい場所がベストでここはほぼ山の頂点に当たるところで、港からここに来るまでは坂道が長く、20分ぐらいはかかるでしょう。

 

ヤフオクの値段が18000円となっていたので、購入は諦めましたが、ネットで検索したら平戸市の図書館と島の館にあるようです。お近くの方はご覧になって見て下さい。

#度島

#平戸

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