平戸・度島のキリシタン遺跡 -3ページ目

◆度島の洞窟での緊急会議、コエリュの日本占領計画とは・・

2020年6月にNHKで放映された戦国時代の宣教師による日本征服は脅威でしたが、その存在が外国の文献によって明らかになりました。世界制覇の争いをしていたスペインとポルトガル・・キリシタンの日本への布教は日本征服を狙う宣教師たちの隠された秘密がありました。

秀吉の伴天連追放で・・明らかになった事があります。

度島の洞窟で話し合ったコエリュの日本占領計画とは・・

•イエズス会日本占領計画(この洞窟でコエリヨが会議して話あったとされる記事) https://s.maho.jp/book/2e0a56e1d38e2d28/6960570777/ 1587年、イエズス会日本準管区長、ガスパル・コエリヨは、宣教師たちの緊急会議を開く。

場所は、平戸の沖合いにある度島の洞窟である。 「日本のキリスタン領主を集めて秀吉に反乱を起こす、イエズス会は軍資金武器を集める。スペイン軍を日本に導入し、軍事要塞を作ること」 をガスパル・コエリヨは提案した。 コエリヨは博多に滞在中の秀吉に日本に無い軍艦、フスタ船を見せて、秀吉がこれに驚いたと言われてます。さらに長崎の大村純忠による土地壌渡等など、秀吉は諸々の危機感を抱き翌日に伴天連追放令をだしています。 1587年7月24日(天正15年6月19日)

ナンドサンナンド洞窟(平戸・度島).jpg

後年、隠れキリシタンが住んだ島のひとつでオラショで知られる生月島とは目と鼻の距離にあり、やがてキリシタンが根こそぎ殲滅された悲劇の島である。宣教師たちの緊急会議が開かれたこの洞窟は北側の絶壁に現在も遺っており、波立つ暗然とした玄界灘に臨んで切り立つ岩山の斜面にある洞窟への道は崩れていて海上からでないと近づけない。席上、コエリヨは「日本のキリシタン領主を集めて秀吉への反乱を起こさせ、イエスズ会はそのための軍資金や武器を集めること、スペイン軍を日本に導入し、軍事要塞を作ること」などの強硬意見を出した。それは否決されたが、武力による日本布教が公然と動き始めたのはこの時からである。(ザビエルの謎、日本占領計画から)

•「日本占領計画」、この衝撃的な文書は、研究者である高瀬弘一郎博士がイエズス会本部の文書館から発見して明らかになったものであるが、その後(バチカンにとり)不都合があってか極秘扱いとなり、残念ながら現在は外部に一切公開されていないということである。 もちろん現行の歴史教科書にも決して紹介されることのない、西洋によるアジア侵略の貴重な史料ということになる。(日本でのイエズス会が採った軍事戦略)

•平戸市の松浦資料館にはこの伴天連追放の書状が展示されており何回も拝見しましたが、度島のこの洞窟が貴重な歴史の場所になるとは、さすがに誰も想像しなかった。今後、バチカンにあるイエスズ会の秘密の公文書が公開されていけば歴史の証人の島として後世に語り継がれるかも知れません。

・こちらは片山右近さんのプログから

日本準管区長コエリヨ宣教方針

https://ameblo.jp/ukon-takayama/entry-12349321945.html?frm=theme

◆◆「天使の島」と呼ばれた平戸・度島のキリシタン遺跡

織田信長や豊臣秀吉等の戦国武将の様子を記述し書いた有名な「日本史」で知られるルイス・フロイス。

最近でNHKの大河ドラマ「麒麟が来る」で明智光秀の記述について度々、紹介されています。

さらに外科医でもあり長崎県初の医師としてやって来た

アルメイダ等の宣教師がキリシタン時代に度島にやって来ました。フロイスは島民の熱心な祈り、温かい島民の優しさに触れて・・この世のパラダイスと表現し、この小さな島で日本語を覚え・・「日本史」を書いた宣教師として高く評価されてます。

ルイス・フロイスは大村藩だった横瀬浦から焼き討ちの難を逃れて1963年11月20日に度島にやって来ました。

度島は外敵から襲われる心配がなく、フロイスやアルメイダからは「天使の島」と呼ばれ、多くの信徒が移住し、12月25日の降誕祭の日には平戸や博多から信徒が集まりその数は1500人とも言われました。

奇しくもフロイスとアルメイダは度島での出会いは1564年の10月でここでの顔あわせは最初で最後となり、2人揃って度島から旅たちました。

度島は平戸や生月にも劣らないキリシタン遺跡があります。

平戸の観光案内板には紹介されていない度島のキリシタン遺跡を訪れた見てはいいがでしょう。

■徒歩での主なコース

本村港→下のテッペス→上のテッペス→立願時(1時間)

本村港→ツクシ様→井元権右衛門墓→千人塚(1・5時間)

 

◆度島の主なキリシタン遺跡

  1. 上のテッペス(秋葉神社の広場周辺にある教会跡さらに左側に宣教師7人が住んでた住居跡)この高台からは平戸島が良く見える。1563年11月横瀬浦から難を逃れて初めて度島にやって来ました。ここにあった教会で降誕祭の準備をしてましたが、火災が発生したため一時、住居を移し、その後は下のテッペス書斎跡で約11ヶ月、フロイスはここで過ごしました。12月の降誕祭(クリスマス・イブ)には平戸や博多から1500人も信徒が度島を訪れた。ミサでは天地創造、アダムの堕落、ノアとアブラハムの物語を題材とした劇が行われ ていた、との記録がある。4月には復活祭も行なわれ最良の着物を着て、教会に集まり、頭に花の冠をいただいて島内を練り歩いた。フロイスは島民の優しさに感激し充実した日々を送りました。フロイス自身が初めて日本で行った復活祭が度島でした。そして1564年10月アルメイダ修道士はこの度島でフロイスと共に度島に別れを告げる時が来ました。彼はフロイスに、トルレスの上洛を命じる正式な通達をもたらした。翌日、十字架が立てられ、キリシタンたちのためにミサが挙げられたのちに、フロイスの都行きが披露された。その時の事について彼は「日本史」において「彼が(フロイス)彼らと共に10か月そこにいたので、彼らはその話を深い悲しみと涙と嗚咽なしに聞くことが出来なかった」(五五章)と書いてある。翌日、彼は別れを告げるため海岸にまで来た島民たちに見送られてアルメイダと共に平戸に向かった。(五野井隆史ルイス・フロイス度島での生活より)・・秋葉神社の上には地蔵さんも置いてあります。左側の石段を登ればすぐです。切支丹資料館パネルでは「十字架跡」となっているので、教会の他に大十字架が立てられて立てていたのかも知れません(長崎異聞2015(2)平戸・度島
  2. 下のテッペス(港から歩いて秋葉神社に向かう道の曲がり角にテッペスの石段有り、その上が有名な日本史を書いたフロイスの教会住居書斎跡)20畳ほどの広さで周囲は石垣で覆われてます。上のテッペスの火災後、住居をここに移したと思われます。ルイス・フロイス師は熱病の発作に妨げられない時にはジョアン・フェルナンデス修道士と共に、日本で書かれる最初の文法書を著わす企画を始め、動詞の変化と構文法を整え、同時に辞書を部分的に編集し始めた。だが司祭はまだこの国に来て間もなく、日本語の知識はごく貧しかったので、当座の草稿と言う以外の何ものでもなかった。でもそれはその後、20年くらいたってから、箸わされた文法書や辞書のために役に立つを得た。(日本史第8章125ページ)・・・日本史で有名なルイス・フロイスの住居跡なのに、案内板がありません。勿体ないですね。度島の方にこの場所が素晴らしい遺跡である事を知って欲しいと思います。切支丹資料館パネルではルイス・デ・アルメイダが住んだ度島教会跡、と記されています。
  3. 十字架敷石跡(浦地区の西側では一番高い場所で現在のヘリポート周辺 )以前は大きな石がたくさん散財していたが現在は大きな石が1個だけ見える。改造前は2つの上に平たい石を載せてあったとか、復活祭とかで十字架敷石まで行列を作って島内を練り歩き最後にここにも来たと思われる。キリシタン史の謎を歩くからは森重郎氏は子供時分に母親から「その石には神様が宿ってるから踏んではいけない」と厳しく禁じられていた。現在は写真にあるような大きな石が端の方に1個だけ残ってます。確かに幼少時にここで遊んだ時には大きな石が転がっていて、かくれんぼ等で遊んだものです。出来ればこの石の周辺の草刈りをして欲しいですね。
  4. 千人塚(中部地区の高台にあり殉教したキリシタンが葬られている。キリシタン征伐の元締の井元権右衛門の墓が近くにある)立願寺の過去帳によれば、殉教者は200人と言われてる。
  5. ツクシ様(中部地区に在る中部公民館の横にあるアルメイダの治療所跡)ツクシ様とは古語のくすし(医者)の訛りで前のやくし様と後のやくし様が祀られている。前者がルイス・アルメイダを祀った物でふたかかえほどの大きな石が2段に重ねられている。アルメイダを信仰する多久島という姓の方が毎年、供養にここを訪れているようです。アルメイダは1561年トルレスの指名を帯びて平戸に向かった。6月7日に豊後府内を発ち、博多を経由して6月下旬に度島に至り、同島に15日間滞在してキリシタンたちの対応にあたった。(対外関係 貿易切支丹史大村市)
  6. ナンドサンナンド(島の裏側にあるハート型の洞窟で 豊臣秀吉の伴天連追放によりクエリョ以下全宣教師は平戸沖の度島(ナンドサンナンド=度島北側海岸)に集合し、協議の結果、中国に帰る者以外は、全員九州に潜伏する決意を固めています・・(平戸切支丹資料館より)田ノ浦(平戸島)の信徒が船で食料を運んだ言う伝承がある。 中は6畳ほど広さで壁に日本語でない文字と十字が刻まれていたと言う・・森重郎氏)(キリシタン史の謎を歩く 森禮子より)又、この洞窟では日本占領計画なるものが話し合われたようで、伴天連追放令でコエリョが長崎にいた宣教師を全員、平戸に集合させ長崎を軍事化させて拡大しようとキリシタン大名にも働きかけたが、実現しなかった。ここは船でしか渡れず秘密の場所だったようです。何故こんな場所で行われたのか謎が深まります。当時フロイスはコエリヨの秘書を共にしていたので、この場所に来たと思われますが、日本史には記述がないようです。450年前は海岸線の潮位は今よりも低かったと考えられます。一度は入って見たい洞窟ですが、なかなか実現出来ません。
  7. 井元権右衛問墓(中部地区にある小高い山にある)何でも遺言で大島や周囲が良く見えるような場所との説もある。度島のキリシタン征伐は1597年、いよいよ平戸のキリシタン取り締まりが、井元権右衛門によって開始されました。キリシタンにとって事態は最悪の結果となりました。それまでは度島全島がキリシタンと言うほど、熱心な信仰が続けられていましたが、この取り締まりによって、あるものは殉教し、あるものは逃亡もしくは転びといった具合いに度島のキリシタンは壊滅しました。井元権右衛問が亡くなったのは1600年の前半と推測されます。墓の周辺は石垣で囲まれ、手前には大きな石が2個置いてあります。度島では一番古いお墓でしょう。墓石には井元右衛門の名前は記載されてませんが延享丁卯天(1747年)月十有六日にに建立との記載があります。盆ごうれいには井元権右衛門の大刀が紫の袋に包まれて披露され、その後、松浦資料館に寄贈されたそうだが、行方不明との事。
  8. 立願時の供養塔サバ大師(境内には等身大ほどの碑が2基建っている。一基はキリシタンの棄教者たちが建てた殉教者の供養塔でもう一基は元禄9年に佐川主馬が建立したキリシタン供養塔のサバ大師。佐川主馬は平戸藩の家老。立願時にはキリシタン時代の殉教者200名ほどの過去帳があったが3代前の住職の婿が私には関係ないと言って燃やしたしまったと言われる。(キリシタン史の謎を歩く 森禮子より)
  9. 六済供養塔(中部地区にある)キリシタン供養塔で施主はキリシタン征伐をやって島に住みついた者の子孫で毎年供養が行われている
  10. キリシタン供養塔(中部地区の小川集落海岸沿いにある)
  11. 飯盛山(三免地区、丸島)頂上には十字を彫った石が置いてあったが現在は行方不明。
  12. ドンドン山(三免)不意の射手にキリシタンたちがどんどん逃げたのでドンドン山と呼ばれた。
  13. ウドの洞窟(中部)信徒たちが隠れた洞窟(周辺には2mを超す岩の集団がたくさんある)
  14. テッペス近くのゴンパチ川(浦)戦前までは一尋ほどのまな板のような石がありキリシタン時代にはそこでおさずけ(洗礼)した言う伝承がある。(森重郎氏)この場所は上のテッペス、現在の秋葉神社の横を流れる小さな川で漁業組合の横まで続いている。
  15. 寺屋敷教会跡(中部地区)平戸、度島の観光案内板では井元権右衛門の墓近くにある。平戸市の観光案内板とかにこの場所が出てくるが、文献には詳しく出てないので謎である。現在、周辺は西側山間に墓が数基あり、その上に20mほど上がった所に井元権右衛門の墓があり、東に千人塚があり、周辺が教会寺屋敷としての跡が垣間見える。松田毅一氏の「秀吉と南蛮人」によれば寺屋敷跡は立願寺跡の空地で教会跡となってます。現今「寺屋敷」と称せられる立願時跡の空地が当時のキリシタン教会の跡であることは、まずたしかなことで、小高いその地点に立てば、向かいに平戸島が手に取るように見え、丘の下が船着き場となっている。(秀吉と南蛮人から)唯一、フロイスの日本史では火災後、司祭と修道士はペトロと言う教名の一人の非常に善良な老いたキリシタンの家に引っ越した。と書いてあります。フロイスの日本史では藁葺きを手に入れる為に別の島に行き、ある農民から貧素な藁葺き小屋を買ってそれを教会として役立てる事にした。その上、同じく藁葺き小屋である第2の小屋も購入され、そこで司祭と修道士は食事をしたり、就寝したり、来客を迎えた。この第2の小屋が下のテッペスと言われるフロイスの住居跡と思います。つまり、上のテッペスを信徒が多く集まる教会に下のテッペスを住居跡と住み分けたのではと推測されます。現在下のテッペスの場所は周囲が石垣で覆われ、当時の様子を垣間見る事が出来ます。ここには藤本家が長く住まれており、正月の4日には雨戸を閉ざして他者には見せない秘密の行事を行っていた。当家はすでに絶えているが、遺品にマリア観音とおもわれる水晶の観音像があり隠れキリシタンではないかと思われる。(森重郎氏)
  16. さらに1988年(昭和63年)3月キリシタン遺跡詳細分布発査報告書なるのものが平戸市文化協会から出てます。その中に度島教会跡(?)・・49の目次がある。?マークを付けるぐらいだから、観光案内板にもそれなりの表示となっているようです。

◆平戸・度島、最後の秘境 ナンドサンナンド洞窟

◆度島、最後の秘境 ナンドサンナンド洞窟

この場所が登場するのは平戸切支丹資料で「クエリヨ以下度島の北海岸に集合し協議を行い」とある。

 

これは豊臣秀吉の伴天連追放令で日本副管区長だったコエリヨが全会員を平戸に集め、今後、どうするか話あった場所がここナンドサンナンド。

 

 

宣教師たちがひそかに集まって会議を行い、田ノ浦(平戸島)から信徒がう船で食料を運んだという伝承がある。中は6畳ほどの広さで壁に日本語でない文字と十字が刻まれていたとか。(キリシタン史の謎を歩くより森重郎氏)

 

 

中山にある鬼の岩と勘違いするようだが、そうでもないらしい。ここは船でしか行けれない場所だからで、松田毅一氏の「秀吉、南蛮人」からは8月5日付けでフロイスが平戸で年報を執事しているところを見れば、「この平戸にはドミンゴス・モンティロのポルトガル船が碇泊していたから、はじめは船内で協議していたかもしれぬが、各地からコエリョの指令に接して多数の会員が集結してきたので付近の度島に移ったと思われる。さらにフロイスの10月2日付けの2つの年報が日付けを同じくするにもかかわらず、一は「平戸」他は「平戸に近い度島」とあるのはこの間の事情があるようで、この島は平戸の北側、3.5平方キロメートルの小島でキリシタンの籠手田氏の所領であった。

•日本副管区長、コエリュは,ここに(度島)バテレンたちを集め、日本のイエスズ会の運命を,賭した重大会議を開催した。協議会では、種々の意見が開陳されたなかに、これでは日本の教会は、破滅あるのみである。長崎の軍備を、充実して立て籠もり、海外に軍事的援助を、求めようという案も出た。これに対し、それこそ、日本キリシタン破滅以外の、なにものでもない。はポルトガルの、屈伏は必定であり、関白は(秀吉)ポルトガルを、恐れておらぬと、言う意見が圧倒的で、長崎の要塞化を、固執したのは副管長のコエリュと、その補佐フロイスだけであった。にもかかわらずコエリュは、ベルショール・デ・モウラを、救援要請の為に、マカオに向かわせることにした。(秀吉南蛮人より)

 

•イエズス会日本占領計画(この洞窟でコエリヨが会議して話あったとされる記事) https://s.maho.jp/book/2e0a56e1d38e2d28/6960570777/

ナンドサンナンド洞窟(平戸・度島).jpg
 

•コエリヨからの通報に接した長崎の宣教師たちは教会の品々を船に乗せて平戸に集まり、沖合に浮かぶ度島の洞窟のなかで緊急会議を開いた。後年、隠れキリシタンが住んだ島のひとつでオラショで知られる生月島とは目と鼻の距離にあり、やがてキリシタンが根こそぎ殲滅された悲劇の島である。宣教師たちの緊急会議が開かれたこの洞窟は北側の絶壁に現在も遺っており、波立つ暗然とした玄界灘に臨んで切り立つ岩山の斜面にある洞窟への道は崩れていて海上からでないと近づけない。席上、コエリヨは「日本のキリシタン領主を集めて秀吉への反乱を起こさせ、イエスズ会はそのための軍資金や武器を集めること、スペイン軍を日本に導入し、軍事要塞を作ること」などの強硬意見を出した。それは否決されたが、武力による日本布教が公然と動き始めたのはこの時からである。(古川薫氏のザビエルの謎、日本占領計画から112ページより)

•日本占領計画、この衝撃的な文書は、研究者である高瀬弘一郎博士がイエズス会本部の文書館から発見して明らかになったものであるが、その後(バチカンにとり)不都合があってか極秘扱いとなり、残念ながら現在は外部に一切公開されていないということである。 もちろん現行の歴史教科書にも決して紹介されることのない、西洋によるアジア侵略の貴重な史料ということになる。(日本でのイエズス会が採った軍事戦略)

•平戸市の松浦資料館にはこの伴天連追放の書状が展示されており何回も拝見しましたが、度島のこの洞窟が貴重な歴史の場所になるとは、さすがに誰も想像しなかった。今後、バチカンにあるイエスズ会の秘密の公文書が公開されていけば歴史の証人の島として後世に語り継がれるかも知れません。

◆ルイス・デ・アルメイダ(南蛮医師)

◆ルイス・デ・アルメイダ(南蛮医師)

長崎県に初めて西洋医術を教えた医師

日本人医師の協力を受けて病院を運営していたアルメイダは1558年には医学教育も開始。医師の養成を行った。やがてアルメイダは九州全域をまわって医療活動を行うようになり、1563年には平戸の北部、度島でも治療に当たっていた。同年には横瀬浦から非難し後に日本史を書いたフロイスも度島で10か月ほど滞在した。宇久純定の治療を依頼されるほどその名声は高まっていた[5]。(ウィキュベアより)

長崎開港に先立ち本県に初めて西洋医術を伝えたのは、宣教師・医療伝導師のルイス・アルメイダであり、外科的技術は特に優れていたという。来日したアルメイダは豊後(現大分県)の府内(現大分市)で日本初のヨーロッパ式医学教育を行なった後、本県平戸へ入り度島、生月島、大村、有馬、島原、口之津、福田浦など巡回し布教と医療に従事。永禄9年(1566年)冬の五島灘を渡り、五島藩主五島純定や島民の病気を治療、それまで祈祷などにばかり頼っていた島民から感謝される。永禄10年(1567年)長崎浦を訪れ長崎甚左衛門純景の館の近くに布教所(現春徳寺)を設け、布教と医療を行った。

こうして天正11年(1583年)長崎の本博多町(現万歳町)にミゼリコルデイアの組(慈悲屋)がつくられ、癩病院・老人病院・孤児院など経営された(長崎県医師会より)

◆アルメイダは表の顔は外科医として医療に貢献する一方で裏の顔として奴隷売買の仲介をしていたと伝らえれています。 秀吉が伴天連追放のひとつにこの奴隷売買がありました。松浦資料館にある書状とは別に追加で詳細が出てます(教科書には出て来ませんが)

秀吉が天正十五年(1587)六月十九日にイエズス会日本準管区長のガスパル=コエリョに詰問した際には、 「予は当地にやってくるポルトガル人と、シャム人と、カンボジア人が大量の人間をここで買い取り、故国の日本人、その親族、息子や友人を捨てさせて、奴隷として彼らの国に連れていくことを知っている。」 と語ったと、フロイスの書簡(1587年10月2日付、平戸・度島発、イエズス会総長宛)に記されています。

◆アルメイダが度島に来たのは1561年、

アルメイダはこの年、トルレスの指名を帯びて平戸に向かった。6月7日に豊後府内を発ち、博多を経由して6月下旬に度島に至り同島に15日間滞在し、キリシタンたちへの対応に当たった。さらに生月を訪問したのち、平戸島西岸の獅子、飯良、春日に行き再度、生月島を訪れてから平戸に入り同地に20日間滞在し、8月22日に平戸を発って博多に至り、8月末に病体を抱えて府内にもどった。(大村市 対外関係中世編より)

◆ルイス・アルメイダ(度島での治療逸話)

東野利夫著「南蛮医アルメイダ」には森重郎氏からの聞き取りで医に関する伝承が紹介されている。

「むかし、南蛮の薬師(くすし-医者)がここに来たげな。あっけらかんとした人で、足ば投げ出し長ギセルのようなものを吸うて、ひょうきんんなことば言うたりして、病人ば看てやっとげな。村のもんたちあ気楽に看てもらいよったとげな」

アルメイダにお世話になった多久島と言う姓の人が佐賀から年に1回は診療所跡にあるツクシ様に供養に訪れてます。

宣教師 ルイス・フロイスの日本史

◆ルイス・フロイス

日本史を書いたルイス・フロイスは1563年7月6日、待望の日本に着き、西九州の横瀬浦に(長崎県西海市)第一歩を印した。その後、大村に内乱が起こり、貿易と布教の拠点であった横瀬浦は兵火によって焼失してしまい破壊された。フロイスは難を逃れる為に1563年11月に度島に避難し、ここで10ヶ月、病魔と闘いながらフェルナンデスから難解な日本語および日本の風習を学んだ。フロイスが度島で住んでたのは浦集落。立願寺と秋葉神社の間にある「テッペス」の石段の上周辺は、平戸資料館パネルではルイス・デ・アルメイダが住んだ度島教会跡と記されている。アルメイダはこの島の宣教活動と共に投薬による医療活動を行なったことで知られている。

1564年8月には平戸にポルトガル船が寄港したのを境に、平戸の肥州からの布教が許可されその後、幾内へと布教し織田信長や豊臣秀吉とも謁見しています。 フロイスは度島滞在中に「度島書簡」としてたくさんの手紙をイエスズ会に送り、当時の平戸やキリシタン事情を詳細に書いてます。 (1587年10月2日付、平戸・度島発、イエズス会総長宛)に記されています。

◆フロイスの日本史

ルイス・フロイスが日本での出来事をまとめた編年体歴史書。戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史』を記したことで有名。松田毅一氏と川崎桃太氏の和訳の日本史は12巻まである。

学術的にも貴重な文献で日本のキリシタンを知る上で欠かせない書物である。フロイス日訳しキリシタンにも詳しい松田氏毅一氏も昭和41年と昭和53年に2度、度島を訪れ見聞をしているが閉鎖的な風土に困窮したと言われてます。昭和40年1月に発表された柳谷武夫氏による「日本史キリシタンの心」ルイスフロイスの日本での和訳が初めてと思われる。その後松田毅一氏や最近では2018年に清涼院流水氏が『ルイス・フロイス戦国記 ジャパゥン』などで発表し話題となってます。

「織田信長は潔癖症で、お酒が飲めなかった」、「豊臣秀吉は多指症であった(片方の手の指が六本あった)」といった事実などが一例として挙げられます。こうした「事実(史実)」を知っている日本人は、今現在は決して多くはないかもしれません。(清涼院流水氏より)

◆フロイスの日本史第五十章には度島の事について10ページほど記載されてます。最初に「ばあでれ(神父)ルイス・フロイスがいるまん(修道士)ファン・フェルナンデスと共に度島に移った次第」記述がある。これは柳谷武一氏の和訳です。一方、松田毅一氏の第五十章には「ルイス・フロイス師がジョアン・フェルナンデス修道士とともに度島に移った次第。清涼院流水氏のルイス・フロイス戦国記「ジャパゥン」には第5章キリシタンの島(クリスタウン イーリヤ)と紹介されてます。 2020年1月に出版の五野井隆史著「フロイス」では「度島での生活」と目次で紹介されてます。ポルトガル大使館のHPにも人物にフロイスの名前の中に度島が出てます。 フロイスと度島・・これほど有名になった島はありませんね。

当時は平戸ではポルトガル商人と日本人との間で発生した暴動事件があった。宮の前事件と言われ、平戸では布教どころでは無く、宣教師への風当たりが強かった。横瀬浦の暴動で焼き討ちにあい平戸から籠手田安経の手配の小型船が迎えに来て度島にそのまま行った。平戸瀬戸から北西に向かうと、茜色の夕陽を反射する海上に左右一直線に広がる島が見え、フロイスが度島に近づくと島民も船で漕いだり、あるいは海岸まで行ってばあでれ様(神父様)迎えた。この暖かい島民の心にフロイスは大いに感激し喜んだと言われます。フロイスも何か月も熱病で苦しめれたが度島での療養が功を奏した。

◆1500人が度島での降誕祭を祝う

◆1500人が度島での降誕祭を祝う(キリストの誕生を祝う祭典)日本ではクリスマスとして名前が知られてます。

降誕祭にはドナ・イザベル(キリシタン領主・籠手田安経夫人)は聖夜(クリスマス前の12月24日)にミサに与からせるため子供たちを平戸から度島に送ってきた。お告げの祈りの時間になると、教会はもうそれ以上人を収容できなくなったが、それほど大勢が島の外から来ていたのである。一同は軽い食事をとった後、整然と、男子が片側に女子が他の側にというように教会内でそれぞれの席についた。物語形式でその夜の玄義に合った聖書の中の幾つかの箇所を歌い始め、そして第一のミサの時に至った。ミサのそれぞれの間に個々の説教がなされた。ところでこの地の人々は知識欲が盛んで、自分の救霊に助けとなり得るならば、どのような事にも心を傾ける性分なので、我々からアグヌス・デイを乞い求めていともおびただしい人達が殺到して来た。それを彼らは「愛の聖遺物」と呼んでいるのだが、1500人を超える人々に行き渡るようにするためには、手元の物を幾多の小片にせねばならなかった。一同はそれを手に入れるために、能力に応じて銅、錫、真鍮、骨、木などで聖遺物入れをつくり、片面にはJESUSの(イエス・キリストの「イエス」の英語読みである)名を、他の面には三本の釘といばらの冠付きの十字架を配った(フロイスの日本史より)

◆ルイス・フロイスが先導した度島の復活祭 

ルイス・フロイスが先導した度島の復活祭 

イエス・キリストの復活を祝うキリスト教最古,最大の祝日。春分のあとの満月に続く日曜日がこの祝日となり,3月 21日から4月 25日の間を年によって移動する。復活祭に先立つ 40日を四旬節,その最後の1週間を聖週間という。この間教会では,キリストの受難を記念する典礼が行われ,復活祭前夜からキリストの復活を祝う喜びに包まれ,カトリック教会では復活祭前夜の典礼が行われる。

 

ルイス・フロイスが初めて日本で行った復活祭は1564年平戸・度島の浦地区で行われました。当時の復活祭はルイス・フロイスの日本史に詳しく書かれている。4月2日の復活祭ではキリシタンたちはいちばん上等な着物に身を包み、誰もが笑顔で、見違えるほど輝いていた。フェルナンデスと共に私も頭に花の冠を載せ私たちを先頭にキリシタンたちは行列をつくって、島内を練り歩いた。(フロイスの日本史より)

 

教会があった場所から坂道を登り、浦地区の高台にあった(現在はヘリポートに)十字架敷石跡まで足を運んだに違いない。教会からは約20分ぐらいで到着する。フロイスはどんな思いでここまで歩いたんだろうか。幸せな気分で信徒共に歩いた事は間違いないでしょう。 かってキリシタンの聖地となるはずだった横瀬浦には異教徒がいたが、この度島は島民全員がキリシタンであり、島外からの訪問者もキリシタンのみと言う、まさに我らの天国であった。(ジャパゥンより)

 

度島は基礎となるフロイス日本史の歴史の島として名を残す事になりました。アルメイダは度島を「天使の島」呼び、キリシタンの信愛の深さが良く書かれている。今でも当時、南蛮医師アルメイダにお世話になった佐賀県に移られた多久嶋と言う名前のご子孫が年に1回はアルメイダの供養に度島に訪れている。フロイスは住居のテッペスの石段の上で遠くに平戸が眺める風景に何を思ったのだろうか・・450年前にタイムスリップして見るのもいいかも知れない。

◆イエスズ会と演劇

イエズス会の 演劇活動も、こうした意図から生まれたものである。ヨーロッパではシチリア島のメッシーナ のマメルティノ学院で 1551 年に始まったといわれているが、またたく間に全ヨーロッパにも 広がり、ラテン語だけでなく、ドイツ語やフランス語などそれぞれの地域の言葉を取り入れた 劇を作ったのが、イエズス会演劇の特徴である。すでに日本でも 1560 年に聖書の記述をテー マにした劇が府内(大分)で上演されている。1562 年には平戸で降誕祭劇が、1563 年にも度 島(たくしま)で天地創造、アダムの堕落、ノアとアブラハムの物語を題材とした劇が行われ ていた、との記録がある。こうした演劇活動 の精神が広く理解されることを狙いとした。(上智大学100周年演劇)

◆信仰が深く賢かった度島の子供たち

◆信仰が深く賢かった度島の子供たち

かの度島では、子供たちは毎日朝方ミサに与かりに来て、正午にもう一度やって来て、教会は修道士を思わせるような謙虚な態度で教理を暗誦した。少年たちはミサ答えを心得ており、「パーテル・ノステル」「アヴェ・マリア」「クレド」「サルベェ・レジーナ」デウスの十誠と教会の掟、諸聖人の連禱、聖母マリアの連禱、詩篇、聖霊と聖体の秘蹟の讃美歌、ミサの玄義の要約、ご受難の出来事を暗記していた。そして教理の学習が終わると、年長の少年たちはなお、しばらくして教会に残って、そこにあった祝別された珠(コンタ)で祈った。ジョアン・フェルナンデス修道士は何度かこれらの年長の少年や少女たちに、主日と祝日の食後、彼らが朝方聞いた説教の要点について質ねたが、彼らは身に着けている生来の賢さでまるで自分で研究して知っているかのように質問されたことに対して立派に答弁した。司祭と修道士がかの島(度島)にいた時に、とりわけ心を打たれたのはその地の若者たちが、祈禱やデウスの事を聴聞する際にいかに深い信心とそれらに対する心の傾きを示すかを見た時であった。というのはほとんど毎日つぎのような情景が見られたからである。そのキリシタンたちは牛を使って畑を耕し、朝から晩まで長い一日中そうした労働でくたくたになり、極度の貧しさから死にそうにひもじい思いをして家路につくわけであるが、彼らは牛追い器具と鞍を肩にしてアヴェ・マリアの時間に教会の廻りにやって来ると、十三,十四,十五歳までの少年なのに、彼らは牛を傍につなぎ、教会に入って来る。身体を元気づける何かを摂ることに先んじてである。そして跪き(ひざまづき)、両手を合わせロザリオの祈りを三分の一かそれ以上唱えるのに必要な時間ぐらいデウスに祈りを捧げ、そしてそれから家に帰って行くのであった。(フロイスの日本史第九章(第一部五一章)157ページより)

◆「日本初の聖書」は度島にあったとも言われる

◆日本初の聖書は度島にあったとも言われる

日本における聖書の歴史は、1549年フランシスコ・ザビエル(1506-1552)が初めて鹿児島に上陸した時に持って来た日本語に訳された「マタイ福音書」に始まると言われている。しかし、現在記録は残っていない。

フロイスの『日本史』によると、ザビエルがマラッカで出会った日本人ヤジロウの協力によって和訳の計画をしていたことは確かである。

ザビエルに同行した修道士イルマン・フェルナンデス(1525-1568)は、このヤジロウの協力を得て信仰問答をローマ字に訳している。この中には、モーセの「十戒」や「主の祈り」が入っていたはずだから、聖書の一部は既にこの時代に日本語にされていたようである。

フェルナンデスは四福音書の全訳を試みたようだが、それに関する詳しいことは不明である。しかし、彼とともに同地に布教していたフロイスの記録によれば、1563年肥前(長崎県)度島(たくしま)の教会の火災で、この稿本が無惨にも焼失したと言われている。(日本聖書協会より)

この火災は待隆節(クリスマス前の4週間)の大雪の日に一人の日本人がミサ用の蠟燭(ろうそく)を作るため、蠟を溶かしていた。風が強く吹いていて火は炎々と燃え上がり、台所はたちまち焼け、焼けたばかりか近くの貧しい信徒の家も十数軒ほど類焼してしまった。マラリヤで臥せていたフロイスとフェルナンデス修道士は祭壇用の飾りとミサ用の葡萄酒の小壺を持ち出すのがやっとであった。(フロイスの日本史より)この火災で1軒だけ焼けなかった家がひのみずと言う名称で度島浦地区は呼ばれている家もある。浦集落にあった教会が火災で消滅したので6日後風があまり直撃しない、丘の麓の内陸寄りの場所に藁葺き家、2棟を建ててもらい、ひとつを教会、ひとつを居館として使用。この場所が下のテッペスと言われたフロイス書斎跡。フロイスは熱病の発作に妨げられない時に、フェルナンデスと協力して日本で書かれた最初の分法書を著文す企画を始め、その動詞の変化と文章論とを整理し、同時に辞書の一部分も始めた。しかしフロイスはまだこの国に来て新しく日本語の知識も少なかったのでそれはその後の20年たって著わされた分法書と辞書との為に役立ち得た草案にすぎなかった。(フロイスの日本史より)

度島のキリシタン年表

度島のキリシタン年表

 

■1549年天分18年8月にフランシスコ・ザビエル来日鹿

児島に来日

 

■1550年天分19年ザビエル平戸を訪れ松浦隆信に会う

 

■1552年天分21年8月アルメイダ、貿易商として初来日

 

■1555年弘治1年7月アルメイダ、再来日平戸から豊後へ

 

■1557年弘治3年平戸についで、度島でも布教が始まる

 

■1558年弘治4年ガスパル・ヴィレラ神父の活躍で平戸のキリシタンが1500人を数えるまたヴィレラ神父はガーコ神父の支援で度島を訪れ信者を獲得

 

■1561年永禄4年アルメイダ、豊後から博多にそして6月下旬に度島に初来日 度島に15日間滞在した。

 

■1561年永禄4年アルメイダ、度島、生月、獅子、飯良、春日を巡回し度島では約500人の住民全員が信者に

 

■1563年永禄6年7月6日にフロイス、横瀬浦に入港

 

■1563年永禄6年7月20日、フロイス、船でやって来た大村藩主、大村純忠と会う

 

■1563年永禄6年8月15日、横瀬浦で暴動襲撃、火災発生、フロイスも捕まり4日間勾留される。

 

■1563年永禄6年11月20日、フロイス、横瀬浦から度島に移住する。ここで日本語や風習をフェルナンデスから学びフロイス日本史の基礎が出来る

 

■1563年永禄6年12月1日、浦地区で教会より火事が発生数十軒が焼ける

 

■1563年永禄6年12月7日、丘の麓の内陸寄りの場所に藁葺きの家2棟を建ててもらい教会と居館に使う。

 

■1563年永禄6年12月25日、降誕祭(クリスマス)にドナ・イザベル(籠千田夫人)は彼女の子供たちをミサに参列させるために平戸から度島に寄越した

 

■1564年永禄7年4月2日、度島で初めて復活祭が行われる。頭に花の冠を載せ、フロイスを先頭にキリシタンたちが行列を作って島内を練り歩く。

 

■1564年永禄7年8月24日、平戸の肥州の許可によりフロイス、平戸に上陸、布教を始める。ザビエルが去って以来6年ぶりの出来事

 

■1564年永禄7年10月24日フロイスが度島のキリシタンたちに教会に集まってもらい都へ赴くことを自分の言葉で告げた。(度島でお別れ)

 

■1568年永禄11年フェルナンデス修道士が平戸で死去 聖ヨハネ誕生(6月24日)の5日後に死去 フロイスの日本史より

 

■1569年永禄12年4月16日、フロイス、二条城で織田信長に会う

 

■1582年天正10年6月2日、織田信長、本能寺の変で自害 48歳

 

■1583年天正11年アルメイダ、1583年10月に天草の河内浦(熊本県天草市)で没した

 

■1586年天正14年フロイス、イエズ会の日本副管長のガスバル・コエリヨ一行と共に大阪城を訪問し秀吉に謁見する

 

■1587年天正15年7月、秀吉、伴天連追放令を発す 

 

■1588年天正16年伴天連追放令により、クエリヨ以下全宣教師は平戸沖の度島(ナンドサンナンド=度島北側海岸)に集合し協議を行う

 

■1597年慶長2年松浦法印、キリシタン禁制。井元権右門によるキリシタン征伐が度島で始まる。立願時には殉教者200名の過去帳があった。

 

■1597年慶長2年フロイス二十六聖人の殉教記録』を文筆活動の最後に残し、7月8日5月24日)大村領長崎のコレジオにて没した。65歳

 

■1598年慶長3年豊臣秀吉没

 

■1599年慶長4年平戸のキリシタン、松浦氏に追われ長崎へ逃れる。籠手田一門、生月島より追放される

 

■1600年慶長5年関ケ原の戦い

 

■1612年慶長17年徳川家康、キリシタン禁止を表明

 

■1616年元和2年度島・立願寺が設立される。

 

■1747年延享元年井元権右衛門の墓石が建立される

 

■2018年平成30年「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」で平戸市の春日集落と中ノ江島が世界遺産に登録される

 

※参考文献

キリシタン史の謎を歩く 森禮子

ルイス・フロイス戦国期 ジャパウン 清涼院流水

ルイス・フロイス 五野井隆史