平戸と大島の間にある「度島」へ。小さな島にも関わらず、キリシタン領主・籠手田氏の所領として領民の一斉改宗が起こり、その後のキリシタン史でも重要な出来事の舞台となりました。数年前にトルコツアーに参加した際にご一緒した日本基督教団の牧師さんのご親族が度島におられるそうで、ぜひ一度行ってみるといい、と勧められたのが「度島」に関心を持ったきっかけでした。




 平戸港からフェリーで30~45分ほどの距離ですが、具体的なキリシタン史跡の場所を知る情報が極めて少ないため(これまで平戸切支丹資料館のパネル展示-以下、資料館パネル-で参考にならない模式化された地図を見たくらい)島に渡って踏査できるような状況ではありませんでした。今回は森禮子氏の『キリシタン史の謎を歩く』(教文館)で取り上げられている史跡を中心にできる限りマッピングするという最低限の作業に出かけます。




 小さなフェリーは平戸から度島の飯盛港、そして本村港へと向かいます。12時15分に到着し、13時30分に出発するという綱渡りの滞在です。

 平戸のフェリー乗り場に度島の史跡マップの看板が立っていました。主要な道路も描かれた正確なもので、参考になりそうだったのでiPadで撮影していたら、地元の人らしいご婦人方から「どこにいかれるの?」と声をかけられました。キリシタンの史跡をまわっていることをお話すると、お一人が「行っても何もないよ」とおっしゃる。もうお一人がそれを遮るように「森さんがそういうことを調べていて詳しかった。いろいろと教えていた」と。郷土史家の森重郎氏のことだ、とピンときてお話を聞いていると、すでに亡くなられた由。非常に残念な思いを抱きつつ度島に到着しました。




 はじめに「立願寺」へ。処刑されたキリシタンたちの供養塔が2基とマリア観音像があるそうだが、今回は時間的制約で通過。ここにはキリシタン時代の殉教者約200人の過去帳があったが燃やされてしまったそうで。




 もう少し西に歩みを進め「秋葉神社」へ。石段を上って高台になった部分に社殿が立っていますが、ここが『上のテッペス』と呼ばれる教会跡だそうです。テッペスの語源はポルトガル語のTemple(寺院)が訛化したものと推察されています。資料館パネルでは「十字架跡」となっているので、教会の他に大十字架が立てられていたのかもしれません。また神社左側の宅地が宣教師7人の住院だった場所とのこと。(資料館パネルでは「寺屋敷・度島最初の教会跡」とされている部分?)
 『キリシタン史の・・・』では住院部分の民家を撮影していたら、住人の老女に叱責された逸話が記されています。面倒は避けたかったので、社殿を石段下から見上げた写真だけ撮って社殿のある高台に上りました。のぼりきってから下を見下ろすと、一人のご婦人が飛び出してきて周囲をきょろきょろした後でまた戻って行かれる姿が・・・。間一髪でお叱りを受けるのをかわしたのかもしれません。。。




 立願寺と秋葉神社の間にある「テッペス」の石段。資料館パネルではルイス・デ・アルメイダが住んだ度島教会跡、と記されています。アルメイダはこの島の宣教活動と共に投薬による医療活動を行なったことで知られています。
 また、このテッペスはルイス・フロイスが滞在して、あの有名な『日本史』を執筆したことでも知られています。




 中部公民館の片隅にある「つくし様」。「つくし」は「くすし=薬師」が音位転換したもので医者の意味。ここがルイス・デ・アルメイダの病院跡地とされています。かつては胸の辺りに十字がある人形が彫られた石の祠があったそうですが、誰かが持ち去ったとのこと。この場所に今でもアルメイダに治療を受けた人々の子孫が年に一度集まってお祀りをしているそうです。

 アルメイダは自ら宣教と医療に関わった度島に対して特別な思いをもっていたようで、この島を「天使の島」と言い表しました。また島民もアルメイダの慈愛を語り継いでいました。医師である東野利夫氏は森重郎氏からの聞き取りとして、あっけらかんとした性格の南蛮医師について古老の伝承があることを記録しています。




 さら元禄15年建立の六済供養塔(薬師如来御堂の裏手。キリシタン迫害の当事者が立てた供養塔)を経て、島の中央の高台へ。夏の日射しの中を坂道を登るのは徐々にキツくなりますが、フェリー出発時間に遅れるわけにいかず、気力をふりしぼります。

 畑地の横に、木の生い茂った場所。その中に小さな祠が立っていました。殉教したキリシタンを葬ったという「千人塚」です。塚というからにはこの土地全体が墓地である可能性もあるわけで・・・。踏み込むことをせず、遠くから眺めるだけにしました。




 もう一カ所、フェリー乗り場の看板には千人塚とその東の井元権右衛門(度島のキリシタン取り締まりのために派遣された役人)墓の間の地点に「寺屋敷(キリシタン教会跡)」と書かれていました。マップのドットのある地点は、おそらくこの畑のあたり。もしかしたらキリシタン関係に興味を持つ人が無断で侵入するためか、網や糸などで厳重にガードされていました。

 もと来た道を帰っていくと、この畑地の下にある民家からご夫婦とおぼしき人が出て来て、こちらをジッと見ています。近づいていくとその表情が険しいことに気がつきました。すれ違いざまにこちらは挨拶をしたのですが、無言でにらみつけられ家に入っていかれました。島の人はキリシタンの祟り(祟りませんが)を恐れているそうなので、不要の来訪者が殉教地を荒らすことに神経を尖らせているのかもしれません。まあ、こういう歓迎されていない雰囲気を味わったのは某市の遺跡分布調査以来かな。




 「寺屋敷」と思われる付近は島の中央の背に当たるため、北方には大島がきれいに見えました。




 こちらは南に下ったところ。平戸が間近に見えています。一時間歩きづめでバテぎみになりながら再び本村港へ。途中出会う若い年代の人たちは挨拶すると笑顔で挨拶を返してくれて、ちょっと気持ちが癒されました。度島には他にも史跡が多く、1587年の伴天連追放令に際して宣教師たちが集まり対策を協議した洞窟、迫害下で信者が潜伏した洞窟などもあります。それらもいつか見たいと思いながらも、再び来る機会はあるのでしょうか?度島を後にします。




 今回まわった度島の史跡をマッピング。その他はフェリー乗り場の史跡マップで場所を特定できそうですよ。いまや『キリシタン史の謎を歩く』は度島歩きの貴重な資料になりそうです。