思いつきで三重県の果て、熊野市紀和町に行っていました。名古屋から片道4時間。紀勢自動車道や熊野尾鷲道路ができて昔よりはマシとはいえ、旧・南牟婁郡紀和町の地域までは熊野の海岸沿いから奈良や和歌山の県境近くの山中まで移動するために、なかなか大変でした。

 

最初は道の駅「熊野・板屋九郎兵衛の里」を目指します。よく知らなかったのですが、板屋九郎兵衛って奥さんの浮気を疑って、無実にも関わらず殺してしまって、罪滅ぼしに即身仏になったという、ただのヤバいおっさん。。。いや、他にも名前を冠するような有名人いるんじゃない?いないの?

 

 

道の駅の正面には松の砲身を竹で覆った「北山砲」のレプリカが置かれています。幕末に尊皇派の長州藩士が奈良で起こした「天誅組のっ変」が十津川や吉野に到達したため、紀州藩主が紀和町の地域の農民たちに防衛を命じたために、手に入るもので作った大砲です。そう、紀和町のあたりは地名に「紀」の字が付くように、江戸時代には紀州藩領でした。この大砲も天誅組が十津川や吉野で壊滅したので結局使われなかったそうです。

 

北山砲の解説看板があったので、コピペします。

「 この山間を流れる瀞流北山川も有史以来、多くの歴史をみつめてきました。今日ここに立ち寄られた皆様は天誅組の乱をご存じでしょうか。幕末の頃、長州藩士たちが隣の十津川郷士達を巻き込んで大和郡山で幕府に対して反乱を起こしましたが、戦いに敗れて十津川村を南へ南へと落ち延びていきました。土地の古老の話によりますと、この近くの小川口もこの反乱には無縁でなく戦い敗れた天誅組は宮井より川を遡って来るか或いは奥瀞より一気に太平洋へでようとするのかを、この河原でこの地の人達が待ち受けていました。言い伝えではこの時、天誅組は松の木でくり抜いた大砲を装備していたとの事です。この小川口でもそれに対抗すべくこの地に多く生えていた松をくり抜き竹を巻き大砲が作られていたようです。しかし、天誅組は十津川より山を越えて下北山村に落ち延びて行き、この大砲は発砲されることなくこの地の河原で朽ち果てたそうです。」

 

 

ブランチで「新姫そば(冷)」をいただきました。熊野だけで作られている柑橘の「新姫」が大量投入された爽やかなおそば。おつゆの冷たさも相まって、夏にぴったりな味わいでした。そばもコシのあるしっかりしたものでした。

 

 

しっかりクールダウンできたので、次はすぐ隣にある「熊野市紀和鉱山資料館」に行きます。

 

 

初夏に目を悪くして、その後もいろいろ体調不良が重なったので更新が滞ってました。。。

 

先日、近いような遠いような、中途半端な距離だとなかなか行かずにおわっていた御嵩町にいってきました。友人となんちゃって歴史部会みたいな感じのお出かけです。

 

最初は御嵩町の資料館「中山道みたけ館」(可児郡御嵩町御嵩1389-1)へ。ここで町内発見の大体のキリシタン遺物は見学できます。

 

次は目印として小原公民館(可児郡御嵩町小原5851-5)を目指します。小原城跡に登る時の拠点になる施設です。

 

 

そこから北の方、小原薬師堂の方を見ます。かつて民家が建っている付近に「雷神碑」があり、その基壇から石に彫られた「子育て観音像」が発見されています。

 

 

小原公民館から西へ100mほど移動すると「白山神社」があります。小原城跡に行く時は、ここが登り口になります。

 

ここでもキリシタン遺物が発見されていますので、登ってみます。

 

踏み面の幅が狭く急な石段が続きます。見えている分をもう1セット登るとやっと社殿にでます。確実に腰にきます笑。

 

(社殿まで上がると、ゆるやかに下る道があることに気づきました。どうももう一つ楽な道があるそうで、こちらの石段はハードモードだそうです。)

 

側桁の石のいくつかには陰刻がありました。(同行のお友達に写真をもらいました)

ここは「丁巳十月吉日若山■中」(■はよく見えません)と書かれていたので、勧進の記録でしょうかね。

 

白山神社の社殿。御嵩町の広報にここで見つかった遺物の記事があったので転載します。

「十字架碑  昭和56年(1981)に上之郷地区小原の白山神社で、正月の祭礼準備に来ていた人と御嵩町文化財調査委員(当時)とが神社を調査した際に、神札が幾重にも貼り付けられて、外見上は白い和紙で完全に覆われている細長い石を発見しました。調査委員が神札を洗い落とすと、ラテン式十字架が刻んである長さ約32cm、最大幅約8.5cmの細長い三角形の黒石が出てきました。この石は頂点が丸くなっており、この部分を頭とした人型にも見えます。」(御嵩町広報誌『ほっとみたけ』2026年4月号「御嵩町の文化財」)

 

社殿の置かれた辺りも小原城のなんらかの施設跡の可能性があるようです。

 

写真の左手にゆるい下り坂があったのですが(ちゃんと降りられる楽な方の道でした)どこに向かっていくかわからないので、行きと同じ石段を降りました。踏み外すと確実に落ちるのでかなり怖かった。。。

 

 

もう一度、小原公民館に戻り、「七御前」へ、その後は旧中山道へ徒歩で行こうと思いましたが、この日は熱中症のアラートが出ていたことと、初参戦の友人がいたので、車で行くことにしました。

 

 

由来不明の古墓「七御前」が道路拡幅のために移設される時に、地中から3点のキリシタン遺物が発見されました。それがきっかけとなり、御嵩町内のキリシタン遺跡や遺物の調査が行われ、多くの発見がありました。

 

現地の看板にこのようにあります。

「七御前とキリシタン信仰 御嵩町謡坂

 七御前祉、謡坂村にある、あるいは古き五輪塔、あるいは古樹あり、しかれども其所の由、知れず」と宝暦六年(一七五六)に尾張藩士松平君山が編纂した『濃陽志略』に記されたように、仏教の墓石である五輪塔が多数あり古い樹木が生い茂った場所で、この地の由来はわかっていませんでした。

 ところが、昭和五六年(一九八一)三月、道路工事による五輪塔の移転が行われた際に、その下の地中から数点の十字架を彫った自然石が発見され、ここが仏教の墓地を利用したキリシタン遺跡であったことがわかったのです。

 不幸なことに日本では一時期キリシタンを信仰することが固く禁止され、密かに信仰していることが発覚すると命を奪われることもありました。

 この遺跡からは命をも顧みることなく信仰に打ち込んだ郷土に生きた先人の生き様が伝わってきます。

御嵩町・御嵩町観光協会」

 

文字通り草葉の陰になってしまっている「史跡 七御前」の石碑。

 

ここで発見された3点の十字架の刻まれた石は中山道みたけ館で見ることができます。

 

有名な「マリア像」。これについて由来を書いた石板がありました。

 

「平和の像建立趣旨

 昭和五十六年三月 謡坂地内で道路工事中にたまたまキリシタン信仰の遺物が発掘されました その後の調査で 小原 西洞 釜坂地内で 数多くの貴重な遺物が相次いで発見され この地に多くのキリシタン信者が居たことが判明し歴史上大きな資料ともなりました 幕府の過酷な弾圧の中で発覚もせず ある期間信仰が続けられたのは 奇跡であると想います こうした例は全国でも非常に珍しく 広く話題を呼び 遠くから多くの人が来訪され 又 東海自然歩道(中山道)に沿う地でもあり 関心を寄せる人も数多くなりました この度 御嵩町観光協会の発案とその趣旨に賛同された多くの方からの浄財により 当時の辛苦に耐えた先祖の慰霊の意味と現世及び今後の人々の幸福と平和を願って ここに聖マリア像を建立いたしました

昭和六十二年八月二十三日 御嵩町観光協会」(原文句読点なし)

 

ずっとカトリック教会が建てた像だと思っていましたが、観光協会のものでした。

 

目の前にあるコミュニティバスのバス停名も「マリア像前」。

 

今回は少しゆるめにして、旧中山道でもう一ヶ所くらい行って終わりにしましょう。

 

 

岐阜県の名水50選にもなっている「一呑の清水」。

湧水としてはけっこうな量が湧いているように思います。この謡坂の辺りは急坂でたいへんな地域なので、中山道を行く人々には嬉しい場所だったと思います。

 

江戸時代に公武合体で徳川家茂に嫁いだ皇女和宮親子さんもこちらのお水を飲んだとか。

 

もちろん現在はそのまま飲むのはやめた方がいいとは思いますが・・・。

 

昼過ぎまで会議があって、その後で少しだけの休日でしたが充実した一日でした。

(ご馳走になった晩御飯の写真を撮り忘れてました。。。「ブログ載せるよね?」と言われていたのに載せられなくてごめんね:業務連絡)

 

 

今回出かけた御嵩の小原や謡坂の辺りのマッピング。赤丸が今回出かけたところ。黄丸のキリシタン遺跡は美濃加茂市民ミュージアム(2025)「美濃のキリシタン」挿図を元に図示しています。

 

 

 

 

用事で西尾市に行ったので、少しだけ西尾城跡のある西尾市歴史公園を散歩してきました。


 

はじめに西尾市資料館へ。入館無料ですが、グッズや図録の販売があるため職員さんが張り付いておられました。覆いのないテーブルのところに座っておられたので休まらないだろうなあ、、、


城跡にあって違和感ない建物です。西尾城、欠城、寺部城の御城印もここで売っていました。

 

企画展の「幡豆小笠原氏の興亡」を見学しました。

解説パンフレットや、展示されていた文書の読み下し文のプリントも無料で配布されていました。

 

三河〜遠江の戦国合戦や古城の資料、絵図もしっかり展示されていて、好きな人は好きな良い展示だと思います。

 

 

あとは西尾城をぶらぶらします。二の丸前の鍮石門(ちゅうじゃくもん)。

(西尾城の建築物は全部再建されたものです)

 

鍮石門の横に続く土塁っぽいもの。

 

鍮石門の内側には城主・松平乗全と正室・クミ姫の顔はめパネル。

車輪がついているので門の前に動かして撮影できるかも?

 

芝生の二の丸広場と右手奥の石垣の部分が天守台。

西尾城は二の丸に天守がありました。天守台の上に木造三層の天守を復元するとか。

 

旧・近衛邸。庭園をながめながら抹茶をいただくことができます。(有料)

 

堀と本丸丑寅櫓。

 

本丸丑寅櫓の土台部分にある、土塁が断ち切られて野面積みの石垣が残っている場所には本丸表門がありました。門の反対側(南側)に続く土塁や石垣は滅失しています。

 

 

石段をのぼると本丸丑寅櫓が見えてきます。

 

時間限定ですが、本丸丑寅櫓に入ることができます。

(9:30〜16:00の間のみ。月曜日や年末年始など休園日あり。)

 

土足禁止なので階段の手前で靴は脱いで脱ぎます。

 

一階から二階へ。現存天守などにありがちな急な階段ということはないので、上がりやすいです。

 

三階です。

 

本丸丑寅櫓からは二の丸広場や二の丸丑寅櫓が一望できます。

屏風折れの土塀部分は見事に木がかぶっていました。

 

他にも本丸部分にはいろいろな石碑があるし、隣の西尾小学校敷地には姫丸辰巳櫓跡も残っています。

西尾市は岩瀬文庫などゆっくり回るなら面白い場所がたくさんあります。

 

 

そして幡豆小笠原氏の展示を見たら、その根城だった幡豆寺部城も行っときましょう。

西尾市文化交流センター北館(西尾市寺部町城越56)を目印にして行き、その少し南に右折する細い路地があって、その先にあります。(曲がり角に小さい「寺部城跡」って書いた案内が立っています。)

 

ただ、この時期は梅雨の雨で植物はのび放題、ハチも飛び放題だと思うので、ぜったい登れないだろうと予想して現地に向います。

 

登口正面に車を数台停められる駐車スペースがあります。そこに車を置いた時から、すでにハチの襲来。音をたてて飛んでいました。こわごわ登口に近づいてみても草木が繁茂していて、数段しか上がれませんでした。

 

ここは幡豆小笠原氏の水軍の拠点だったので、南面は三河湾が広がる幡豆の海に面しています。上まで登るととても良い眺めが待っています。機会があったら冬にでも来てみましょう。

 

西尾市さん、小笠原氏の展示やるのなら、城跡の環境整備もしておけば観光的にはいいかも。

 

 

もう13時頃になっていたので、そろそろ昼食にしたい。。。帰りは衣浦トンネル経由で帰るつもりなので、途中にある一色さかな広場に寄ってみたら、隣にうなぎ処いっしきさんがあるではないですか。2組待ちで入れそうで、ここに決めました。

 

平成の大合併のころに幡豆郡の一色町や吉良町などが西尾市と合併しているので、久しぶりに行ってみたら幡豆にいるのか西尾にいるのかわからなくなってきました。(どこも西尾市なんですが)

 

中部地区でうなぎといえば浜名湖ですが、一色町もうなぎで有名です。(知人がこの辺でうなぎ関係の仕事してるので、知ってた程度です。しったかぶりです。)

そんな一色のうなぎを食べたことがなかったので、話のたねに食べて帰ることにしましたが、絶品でした。皮がパリっとしていて身はやわらかく、タレがほの甘くて辛くない。一口目の美味しさに衝撃を受けて「え!?すご・・」って声に出しそうでした。

 

肝焼が有名らしいのですが数量限定で、来店時はランチタイムも過ぎていたので肝焼も肝吸も売り切れでした。それでもやさしい味わいのアサリ汁にいやされました。

 

このお店、三河一色鰻御三家らしいです。

 

最後にデザートで出てきたリンゴゼリーの爽やかさで、暑い日差しの中を歩いてきた身体をクールダウンできました。

 

 

 

愛知県の扶桑町にある長泉塚古墳に、通りすがりで立ち寄った時の写真です。

県史跡で、二段築成の径29mほどの円墳です。墳丘は一部に後世の補修もあるようです。

 

 

石製の説明板。

 

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基段部分の平坦面の幅が広いので、二段築成がわかりやすい古墳です。

いまは墳丘状の木の枝は払われているらしいです。

 

 

扶桑町のキリシタン関連遺跡地図とか扶桑町市によると長泉院というキリシタンの教会のあった場所で、また濃尾崩れの時のキリシタンや伝道者の処刑も行われたらしいです。扶桑町周辺はそういう場所が多いですね。

 

前日入りで宮崎の史跡をめぐり、当日はお仕事をして、翌日もまだ宮崎にいました。(まだその次の日にお仕事があったので。)

 

なんとこの日は台風接近中ということで、同行の大学院生が帰れなくなる可能性が出てきました。急遽、朝から飛行機の便を変更させて宮崎空港に送り届けました。これで一安心。

 

これはその後で宮崎の皆さんにいろいろ連れていっていただいた後日談です。

 

 

八紘一宇の塔。想像していたのを遥かに凌ぐ巨大な建築物でした。

ちなみに日本書紀に書かれているのは「八紘為宇」なので、八紘一宇は近代神話ですね。

 

 

宮崎観光ホテルの「大淀河畔みやちく」で宮崎牛をごちそうになりました。炎、すごい。

身に余るご馳走でした。

 

 

さらに宮崎県立西都原考古博物館にも。私がそういうのを好きだろうと、わざわざ連れていってくださいました。初・西都原古墳群。展示も面白かった。

 

お土産にショップで季刊考古学の西アジア考古学特集号を買ってきました。(お土産?)

 

 

宮崎のラーメンも食べさせてくださいました。「らーめん悠瑠里」、こちらも先日新店舗がオープンしたみたいです。また行きたいなあ。

 

こんなラーメンでした。

 

 

その合間にお世話になった皆さんの感謝状授与式に立ち会うことになってカメラマン(というかスマホカメラで撮影係)をしていました。楽しい一日でした。

 

翌日も午前、午後、夜とお仕事3つを終え、夜はパッキングしてスーツケースを発送。その翌日に宮崎空港から帰宅しました。

 

5日間も宮崎で過ごして、夢、幻のような充実した毎日でした。初めて行った街なのに第二の故郷みたいに感じています。

 

 

あと、大事なことを学びました。

宮崎には手土産としてういろうを持っていってはいけない、ということです。

手土産、何がいいだろう、宮崎にはなさそうなものを、、、と思って名古屋名物ういろうを持っていったのですが、実はういろうは宮崎でも名物でした。宮崎空港についた時、なんか「ういろう」の文字を見たと思ったら・・・。

 

次に宮崎に来る時には、ういろう以外を持っていきますから。

 

そして次に訪ねたのが鹿児島の旅の時でした。

 

(宮崎の旅兼出張、おしまい)