用事で西尾市に行ったので、少しだけ西尾城跡のある西尾市歴史公園を散歩してきました。


 

はじめに西尾市資料館へ。入館無料ですが、グッズや図録の販売があるため職員さんが張り付いておられました。覆いのないテーブルのところに座っておられたので休まらないだろうなあ、、、


城跡にあって違和感ない建物です。西尾城、欠城、寺部城の御城印もここで売っていました。

 

企画展の「幡豆小笠原氏の興亡」を見学しました。

解説パンフレットや、展示されていた文書の読み下し文のプリントも無料で配布されていました。

 

三河〜遠江の戦国合戦や古城の資料、絵図もしっかり展示されていて、好きな人は好きな良い展示だと思います。

 

 

あとは西尾城をぶらぶらします。二の丸前の鍮石門(ちゅうじゃくもん)。

(西尾城の建築物は全部再建されたものです)

 

鍮石門の横に続く土塁っぽいもの。

 

鍮石門の内側には城主・松平乗全と正室・クミ姫の顔はめパネル。

車輪がついているので門の前に動かして撮影できるかも?

 

芝生の二の丸広場と右手奥の石垣の部分が天守台。

西尾城は二の丸に天守がありました。天守台の上に木造三層の天守を復元するとか。

 

旧・近衛邸。庭園をながめながら抹茶をいただくことができます。(有料)

 

堀と本丸丑寅櫓。

 

本丸丑寅櫓の土台部分にある、土塁が断ち切られて野面積みの石垣が残っている場所には本丸表門がありました。門の反対側(南側)に続く土塁や石垣は滅失しています。

 

 

石段をのぼると本丸丑寅櫓が見えてきます。

 

時間限定ですが、本丸丑寅櫓に入ることができます。

(9:30〜16:00の間のみ。月曜日や年末年始など休園日あり。)

 

土足禁止なので階段の手前で靴は脱いで脱ぎます。

 

一階から二階へ。現存天守などにありがちな急な階段ということはないので、上がりやすいです。

 

三階です。

 

本丸丑寅櫓からは二の丸広場や二の丸丑寅櫓が一望できます。

屏風折れの土塀部分は見事に木がかぶっていました。

 

他にも本丸部分にはいろいろな石碑があるし、隣の西尾小学校敷地には姫丸辰巳櫓跡も残っています。

西尾市は岩瀬文庫などゆっくり回るなら面白い場所がたくさんあります。

 

 

そして幡豆小笠原氏の展示を見たら、その根城だった幡豆寺部城も行っときましょう。

西尾市文化交流センター北館(西尾市寺部町城越56)を目印にして行き、その少し南に右折する細い路地があって、その先にあります。(曲がり角に小さい「寺部城跡」って書いた案内が立っています。)

 

ただ、この時期は梅雨の雨で植物はのび放題、ハチも飛び放題だと思うので、ぜったい登れないだろうと予想して現地に向います。

 

登口正面に車を数台停められる駐車スペースがあります。そこに車を置いた時から、すでにハチの襲来。音をたてて飛んでいました。こわごわ登口に近づいてみても草木が繁茂していて、数段しか上がれませんでした。

 

ここは幡豆小笠原氏の水軍の拠点だったので、南面は三河湾が広がる幡豆の海に面しています。上まで登るととても良い眺めが待っています。機会があったら冬にでも来てみましょう。

 

西尾市さん、小笠原氏の展示やるのなら、城跡の環境整備もしておけば観光的にはいいかも。

 

 

もう13時頃になっていたので、そろそろ昼食にしたい。。。帰りは衣浦トンネル経由で帰るつもりなので、途中にある一色さかな広場に寄ってみたら、隣にうなぎ処いっしきさんがあるではないですか。2組待ちで入れそうで、ここに決めました。

 

平成の大合併のころに幡豆郡の一色町や吉良町などが西尾市と合併しているので、久しぶりに行ってみたら幡豆にいるのか西尾にいるのかわからなくなってきました。(どこも西尾市なんですが)

 

中部地区でうなぎといえば浜名湖ですが、一色町もうなぎで有名です。(知人がこの辺でうなぎ関係の仕事してるので、知ってた程度です。しったかぶりです。)

そんな一色のうなぎを食べたことがなかったので、話のたねに食べて帰ることにしましたが、絶品でした。皮がパリっとしていて身はやわらかく、タレがほの甘くて辛くない。一口目の美味しさに衝撃を受けて「え!?すご・・」って声に出しそうでした。

 

肝焼が有名らしいのですが数量限定で、来店時はランチタイムも過ぎていたので肝焼も肝吸も売り切れでした。それでもやさしい味わいのアサリ汁にいやされました。

 

このお店、三河一色鰻御三家らしいです。

 

最後にデザートで出てきたリンゴゼリーの爽やかさで、暑い日差しの中を歩いてきた身体をクールダウンできました。

 

 

 

愛知県の扶桑町にある長泉塚古墳に、通りすがりで立ち寄った時の写真です。

県史跡で、二段築成の径29mほどの円墳です。墳丘は一部に後世の補修もあるようです。

 

 

石製の説明板。

 

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基段部分の平坦面の幅が広いので、二段築成がわかりやすい古墳です。

いまは墳丘状の木の枝は払われているらしいです。

 

 

扶桑町のキリシタン関連遺跡地図とか扶桑町市によると長泉院というキリシタンの教会のあった場所で、また濃尾崩れの時のキリシタンや伝道者の処刑も行われたらしいです。扶桑町周辺はそういう場所が多いですね。

 

前日入りで宮崎の史跡をめぐり、当日はお仕事をして、翌日もまだ宮崎にいました。(まだその次の日にお仕事があったので。)

 

なんとこの日は台風接近中ということで、同行の大学院生が帰れなくなる可能性が出てきました。急遽、朝から飛行機の便を変更させて宮崎空港に送り届けました。これで一安心。

 

これはその後で宮崎の皆さんにいろいろ連れていっていただいた後日談です。

 

 

八紘一宇の塔。想像していたのを遥かに凌ぐ巨大な建築物でした。

ちなみに日本書紀に書かれているのは「八紘為宇」なので、八紘一宇は近代神話ですね。

 

 

宮崎観光ホテルの「大淀河畔みやちく」で宮崎牛をごちそうになりました。炎、すごい。

身に余るご馳走でした。

 

 

さらに宮崎県立西都原考古博物館にも。私がそういうのを好きだろうと、わざわざ連れていってくださいました。初・西都原古墳群。展示も面白かった。

 

お土産にショップで季刊考古学の西アジア考古学特集号を買ってきました。(お土産?)

 

 

宮崎のラーメンも食べさせてくださいました。「らーめん悠瑠里」、こちらも先日新店舗がオープンしたみたいです。また行きたいなあ。

 

こんなラーメンでした。

 

 

その合間にお世話になった皆さんの感謝状授与式に立ち会うことになってカメラマン(というかスマホカメラで撮影係)をしていました。楽しい一日でした。

 

翌日も午前、午後、夜とお仕事3つを終え、夜はパッキングしてスーツケースを発送。その翌日に宮崎空港から帰宅しました。

 

5日間も宮崎で過ごして、夢、幻のような充実した毎日でした。初めて行った街なのに第二の故郷みたいに感じています。

 

 

あと、大事なことを学びました。

宮崎には手土産としてういろうを持っていってはいけない、ということです。

手土産、何がいいだろう、宮崎にはなさそうなものを、、、と思って名古屋名物ういろうを持っていったのですが、実はういろうは宮崎でも名物でした。宮崎空港についた時、なんか「ういろう」の文字を見たと思ったら・・・。

 

次に宮崎に来る時には、ういろう以外を持っていきますから。

 

そして次に訪ねたのが鹿児島の旅の時でした。

 

(宮崎の旅兼出張、おしまい)

 

高鍋ICから西都ICまで移動して、最後に日向伊東氏の居城、都於郡城(とのこおりじょう)に立ち寄ります。

天正遣欧少年使節の伊東祐益(マンショ)の生誕地です。

 

 

わけあって、もうあまり見学する時間がありませんので、本丸だけ攻めてきます。

「第一空堀跡」。どうなっているのか見に行きたい・・。

 

「本丸跡」と「奥ノ城跡」の別れ道。上り一択。

 

本丸到着。入口の土塁のところに「都於郡城本丸跡」と「伝説 高屋山上陵」と書かれた碑がありました。

「高屋山上陵」は延喜式に書かれている彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと:山幸彦)の墓がこの地だとの伝説があったそうな。(宮内庁は鹿児島の霧島に比定しています。)

 

本丸の景色。

 

都於郡城は1577年の島津氏の侵攻によって落城します。マンショの父で城主だった伊東祐青が亡くなったため、佐土原の伊東義祐がマンショを伴い豊後に逃れます。

 

説明看板には「伊東氏は都於郡城を拠点に日向一円を掌握しましたが、その中心部にあたる本丸の一部分について発掘調査を行いました。その結果、多数の柱穴が検出され、伊東氏が在城した240余年間、建造物が何回となく建築補修された事等が考えられます。また、16世紀前半頃に輸入されたと思われる中国製の磁器片が多数出土していますが、この時期は、10代城主伊東三位入道義祐の時代にあたり、義祐が飫肥方面に勢力を伸ばし、南方貿易に尽力した結果、このような中国磁器類が流入したものと推察されます。」とありました。

 

タイル製の城の縄張復元図がありました。都於郡城は浮舟城という別名を持つくらい見事に浮いたように見える曲輪が連なります。今回はそれを見れないのが残念ですが、いつかリベンジしたいです。

 

遣欧少年使節 伊東満所(マンショ)像

 

本丸の隅に三つの碑が並んでいました。

 

伊東満所顕彰碑。

 

伊東満所誕生之地の碑。マンショは1570年に生まれますが、1577年に都於郡城が島津氏に奪われるとマンショは伊東義祐に伴われて大友宗麟の元に身を寄せ、1580年からは長崎・有馬のセミナリオに入学。天正遣欧少年使節派遣に通ずる道は伊東氏本貫の悲劇であり、決して喜ばしいものではなかったのですが、それがマンショの運命を変えていったということは言えるでしょう。

 

伊東満所慰霊碑。マンショは1608年に司祭に叙階された後、小倉や中津など九州を中心に活動した後に長崎・有馬のコレジオで教えますが、1612年に病死します。ここで死んだとか殺されたとかいうことではないので慰霊というのはどうだろう、と思いますが・・・。

 

本丸の周囲の土塁。マンショ像の土台部分が完全に隠れるくらいは高さがあります。

 

都於郡城や伊東マンショについて知りたい時には、現在は「都於郡歴史館」がすこし北に開館しているので、そちらも併せて出かけられたらよいと思います。

 

時間はもうすぐ19時。この後は宮崎市内で用事があったのですが、高速道路が事故渋滞だったため一般道などで移動しているうちに、時間に間に合わなくなり、先方の諸事情もありキャンセルに。

 

 

やむなく宿に車を置いて、同行した歴史好きの院生と夕食のお店を探しにいきます。少し遅い時間なのでなかなかお店が見つからず、宮崎駅前の筑豊ラーメン山小屋さんの宮崎駅前店(この店舗は2022年2月末で閉店してます。チェーン店なのでまたどこかで出会えるでしょう。)で済ませました。

 

翌日は朝から終日お仕事なので、宿で支度をして休みます。

 

都於郡城のマッピング。

 

(宮崎編、次回で終わります)

 

 

宮崎空港から延岡へ北上した後は、南へ。

延岡南ICから高速道路に乗って、耳川を越えて、高鍋ICまで。大友宗麟が土持(むしか)から敗走することになった高城の戦いの舞台となったところに行ってみます。

 

 

宮崎県川南町に天正6年に島津義久が大友宗麟の軍を破った際に、その戦死者のために高城の山田新介有信に命じて建てさせた供養塔がありますので先に立ち寄ります。「宗麟原」は「そうりんばる」と読みます。九州沖縄韓国あるあるですね。

 

高城之戦(耳川の合戦)の七回忌にあたる天正13年に建てられた六地蔵塔(供養塔)。

 

竿石の銘文は

 

干時天正十三年大施主

謹奉訓誦大乗妙典一千部為戦亡各霊

二月彼岸日 源有信山田新介

 

迷故三界域 悟故十万空

 

本来無東西 何処有南北

 

諸行無常是生滅法生滅々己寂滅為楽

 

そんなこともこちらに書いてありました。

 

現地にあった説明パネル。

 

 

近くの木城町にある高城跡も行ってみます。

一見城のような、何か違うような、不思議な謎建造物ですが、ただの時計台兼展望台みたいな建物です。

 

大友軍五万、島津軍四万で高城を舞台に戦われた高城の戦い。山田有信の守るこの城が持ち堪えて落城せず、大友側の佐伯宗天らは包囲戦に持ち込むつもりだったようですが、田北鎮周が攻撃を強行し、佐伯も巻き込まれました。主戦場となった小丸川(高城川)で彼らは島津側の伏兵にかかり、その結果、田北、佐伯をはじめ有力な加判衆や家臣、武将、多くの兵を失うことになり、豊後の兵力は壊滅します。加判宗筆頭として全軍を指揮していた田原親賢について、ルイス・フロイスは「敵と一戦を交えることもなく逃亡した」「人々はただちに、あらゆる敗北と災難、ならびにこのあまりにも災害に満ちた不運を親賢の責任に帰した。」(『日本史』第二部十章)と辛口評価をしますが、親賢が養子のシモン親虎が洗礼を受けた時に廃嫡したり、司祭を殺し臼杵教会を焼こうとしたとも書いているので仲が悪かったのでしょう。

 

フロイスは豊後勢敗北の要因に指揮系統の乱れを指摘します。「兵士の勇気と軍隊のあらゆる規律は、これを率いる指揮官の巧みな統率と果敢な精神いかんによるものであるが、豊後勢はそれらすべてにおいて欠けていた。というのは、各指揮官は、他の指揮官の言を受け入れることも互いに援助することもなく、自分だけで戦うことを欲した。そのため彼らは支離滅裂で、一人の上長に全員が従うべき服従心なるものが欠如していた。彼らは他の仲間連中が滅ぼされることを欲し、彼らの名が失敗によって消され、戦功者と見なされないことを願っていた。」(『日本史』同)

宗麟のキリスト教王国建設に同意できない者たちの存在はそれとして、加判衆同志が有益な軍議をできないような状況すらあっては、島津の策にかかるのも当然だったと思われます。

 

そして敗走する大友軍の兵たちが命を落としたのが耳川の戦いでした。

 

ところで大友宗麟の軍配(軍師)・角隈石宗は日向出兵に反対した時も、この高城攻撃で田北鎮周を制止した時にも聞き入れられなかったということで、それは大名や加判宗としてどうなんだろうと思いましたが、当時の軍配っていうのは天候や陰陽道に基づいて判断しているらしく、高城の戦いでも雲の色で出陣を止めようとしたらしいので、まあ、そういうことです。

フロイスも石宗のことを「そこで悪魔は修道士の説教に対し、故意に、かつよりいっそう有効な道理をもって楯つくもう一人の敵を担ぎ出した。それは石宗と称する老占い師で、かつて国主と嫡子が神や仏の儀式や迷信に耽っていた頃、日本の宗派に 通暁した毒舌家として、また天候や時間を見るのを役目とする軍勢の軍配でもあり、さらにあらゆることを占うところから、両名(国主と嫡子)や豊後のすべての武将たちから尊崇されていた人物であった。彼は自ら有する信用のほかに、こうした欺瞞を働くことがきわめて得意であったから、その器用さによって獲得した金子や収入は少なくはなかった。 彼は、もし嫡子やその家臣たちがキリシタンになった時には、自分が信用ばかりか儲けたものまで失うと知り、できる限りキリストの福音の教えに楯つき、それを侮辱することに務め、己れの知識と権威に信頼して、それらのことを述べる際にも、修道士との対話においても無遠慮かつ尊大に振舞っていっさいの礼儀を無視した。」(『日本史』第二部六章)イエズス会の司祭は科学的な知識があるうえに占い系は拒絶しますし、石宗とはちょくちょく論争していたようなのでやっぱり仲が悪かったようです。

 

内側はこんな感じ。

 

説明看板にあった縄張図を拡大しました。

連続する7本の空堀や、本丸から曲輪の周囲が下にまっすぐ落ちていき、かつ高低差のあるため、これは簡単には落とせない、というのがよくわかります。実際に現地を歩いてみてもそう感じました。(写真撮っていなかった。。。)大友の国崩し(フランキ砲)も通用しなかったらしいですし、ヤバい城です。

 

本丸から西。

 

本丸から南。役所の建物がある方向ですが、高低差がイメージできます。

 

本丸から東。戦場になった方向です。

 

現地の解説看板。

 

 

この辺りの関連箇所をマッピング。大友氏本陣跡(松山本陣)も行きたかったのですが、どうにも時間がないのであきらめて次の場所に移動します。