(承前)大阪歴史博物館の展望フロアから南東方面に目を移すと、阪神高速の向こうに難波宮の大極殿跡が見えます。市街地の中の広大な緑地、そしてその隣接地には再び現代の建物が並んでいます。あの建物の向こうに、目的地があるので歩いていきます。

 

 

日差しを遮る物が何もない難波宮跡を横断。体から水分と意識が消失していきます。あー、大極殿の基壇だー(棒読み)

 

 

どうにかカトリック玉造教会(大阪高松カテドラル聖マリア大聖堂)に到着。聖堂の中も見学させていただきました。

(聖堂内の撮影はしてもよかったようですが、習慣的に撮影せずに出てきました。)

 

正面にある高山右近の石像(阿部政義・作)

 

同じく細川ガラシアの石像(阿部政義・作)

 

聖堂の裏手にジュースの自販機があったので、水分補給してなんとか回復しました。

他にも記念碑や句碑などがあったのですが、それは動画しか撮影してなかったので後ほどリンクを貼ります。

 

 

カトリック教会や越中公園のある地域はかつて「越中町」という住所でした。17世紀前半まで存在が確認できる地名だとか。その辺りにガラシャの夫である細川忠興の邸宅があり、忠興をはじめ細川家当主の多くが越中守を名乗ったことに由来します。またガラシャの終焉の地もここでした。

 

細川忠興邸の台所の井戸といわれる「越中井」。越中公園の北西角の信号を渡ったところにあります。石柱には「越中井 細川忠興夫人秀林院殉節之遺址」と書かれています。秀林院とはガラシャの法名です。ガラシャが忠義のために死んだ場所であることを記しています。

 

関ヶ原の戦いに備え、石田三成は東軍の家康についた武将の妻子を人質にしようと画策します。手始めに1600年7月17日(当時)、ガラシャを人質にするため細川邸を取り囲みます。しかしガラシャは祈りを捧げた後に家臣の小笠原少斎に介錯されました。家臣によって細川邸には火がつけられ全焼し、跡地は後々まで「焼屋敷」と呼ばれていました。

 

全てが終わった後、大坂教会のオルガンティーノはあるキリシタン女性にガラシャの遺骨を収集させて、埋葬します。

 

「越中井」の石柱の背面には、

散利奴遍喜 時知利亭古礎世乃中能 花毛花奈連 人茂人奈禮

菅原正敬書

、と書かれて(彫られて)います。

 

ガラシャ辞世の句「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」を徳冨蘇峰(菅原正敬は蘇峰の筆名)が書いたものです。「散りぬべき・・・」の句のひらがなの部分は全て変体仮名のくずし字で書かれ、重複する文字(利、奈)はくずし方を変えて違う書き方をしています。

 

 

ガラシャの最期については、ガラシャに仕えた侍女の「霜」と「おく」の二人が、細川忠興に報告しています。この二人がガラシャの最期までそばにいたため、詳しく伝えることができたのです。また同じ理由でガラシャの死んだ場所を知っているため、オルガンティーノに頼まれてガラシャの遺骨を集めたのもこの二人でした。

 

忠興とガラシャの孫である細川光尚(熊本藩2代藩主)は熊本藩家老の長岡是季(米田監物)に命じて、是季の叔母である霜にガラシャの最期を報告させます。これが『霜女覚書』(1648年)です。ガラシャの死から48年経過しているので、正確性が担保されているか、という問題はありますが、実は内容の史実性はあまり問われていなかったのではないか、と私は考えています。

徹底的なキリシタン捕縛と処刑、拷問が行われていた三代将軍・家光の時代のことです。1638年に島原・天草一揆が平定された後、長崎奉行が幕府目付の直属となり、島原藩には譜代大名の高力氏が入封します。このように幕府の九州支配がとキリスト教禁教政策が強化されていきました。さらに大目付で後に宗門改役となる井上筑後守政重は各藩のキリシタン政策に介入していきました。

 

そのような中で、徳川家に仕えて島原・天草一揆で活躍した先代の細川忠利が1641年に逝去、1645年には徳川家に仕え続けた細川忠興が逝去します。光尚としてはこの機会にキリシタン・細川ガラシャとしての物語ではなく、関ヶ原で徳川に敵対した石田三成に人質とされそうになっても、徳川家に忠義を尽くす秀林院細川玉の物語を残そうとしたのではないでしょうか。そのようにして細川家の歴史をキリシタンと無縁なものへと粉飾したとしても、当時はやむをえなかったでしょう。キリシタンの疑いをかけられ藩が取り潰されないように先祖のキリシタン大名のキリシタン墓が仏式に作り直され、彼らの人生からキリシタン色が除かれて書き改められたのは、めずらしいことではありませんでした。

 

『霜女覚書』の内容については、国際日本文化研究センターが歴史アニメ「散りぬべき時」をYoutubeで公開しているので、関心のある方はそちらをご覧ください。かっこいい方の(笑)花守ゆみりさんがガラシャの声をあてています。

 

 

「細川越中守忠興屋敷跡」の標柱を後ろから。

 

細川忠興邸はどこにあったかについては、かつての「越中町」、現在の標柱の立っている「越中町筋」の東側と考えるのが定説になっていました。(黒田慶一 1996「鉄砲荷札木簡と玉造の大名屋敷 - 大阪女学院は小出吉政邸跡か - 」『大阪の歴史 48号』の研究による。)ところが2021年に宣教師の記述と現地の地形の照合によって、越中町筋の西側で大阪城外堀に最も近い位置、という説が出てきました。(大澤研一 2021「細川ガラシャ関係史料にみる豊臣期大坂城下町」『大阪歴史博物館研究紀要 第19号』による。)

 

いずれにしても1583年(天正11年)に大坂城と城下町の普請を始めた段階で、細川忠興も屋敷の建築を始めており、翌年には大坂を拠点に上洛しているので、その時には完成していたようです。またガラシャも忠興とともに大坂入りしていたようです。

 

その邸宅跡は、この越中筋の東西どちらにあったのでしょうか?いつかはっきりするといいですね。

 

今回行った場所で撮影した動画はYoutubeに上げてあります。(4分45秒)

 

 

最後に阪神高速13号を越えた反対側にあるピースおおさかで開催されていた特別展「キュラソー・ビザ」を見てきました。杉原千畝の「命のビザ」の前日譚のような出来事、ユダヤ難民に必要な最終目的地として、入国ビザ不要のオランダ領キュラソーを提案した人物、オランダ領事ヤン・ズワルテンダイクについての展示でした。

ここで大阪の知り合いと遭遇したので、道連れに森ノ宮駅近くのうなぎ屋さんに移動。英気を養ったのでした。結構暑い中をがんばったので許されますよね。土用の丑リベンジ。

 

そして、森ノ宮〜鶴橋〜名古屋へと移動して旅は終了。帰りもひのとりのプレミアム車両でした。

 

 

越中井と細川忠興邸(二つの説)、カトリック玉造教会に加えて、八軒家船着場と大坂教会のマッピング。

 

大澤氏はガラシャが大坂教会に出かけたルートを目立たないように大坂城から離れて、屋敷南にある内久宝寺町通を西に進み、谷町通を北進したという案を示していました。

 

ガラシャの旅のまとめ、終了です。

 

 

 

 

骨折した後のリハビリを兼ねて、長距離移動+長距離歩行をやってみた時の記録です。

2024年の夏に名鉄じゃない方の赤い車両、気になっていた近鉄ひのとりに乗って大阪まで移動しました。特別車両料金900円だけでプレミアム車両に座れる・・・。とても快適でした。

 

上本町駅から地下鉄の谷町線に乗り換えて、天満橋駅まで移動します。

 

 

まず、天満橋がかかる大川へ。左岸(写真左の岸)にある水上バスのための船着場は、現代の「八軒家浜船着場」。京都伏見へ向かう三十石船の起点になった場所です。

 

ルイス・フロイスはヴァリニャーノに宛てた1586年の書簡で、「我らの大坂の修道院から河が見えるが、司祭たちは、毎日千隻、時には千隻を超える、石を積んだ船を見ており、午後微風を帆に受けて河をさかのぼれば、船以外何も見えないほどである。」(有水博・訳「1586年十月十七日付、下関発信、ルイス・フロイスのインド管区長アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ宛書簡」『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第3期第7巻』)と、この場所を多くの船が通っていたことを記しています。秀吉時代の大坂城建設のために瀬戸内海を通ってやってきた石材を積んでやってきたものです。フロイスは建設中の大坂城のあらゆる構造物、庭をはじめとする全てのものが、信長の安土城を数倍上回る、と人々の口に上っていたことも記録しています。

 

 

大坂の修道院(と教会)から見えていた、ということは、近くに教会跡があるということで、そちらに行ってみます。

 

大川から京阪モールを越えて南に一筋入ると、府道168号線が通っています。写真前方に見える昆布屋さん「永田屋本店」さんの店先に「八軒家船着場の跡」史跡標柱が立っています。(この時は朝の開店の支度をされていて、写真を撮るのを後回しにして、、、結局撮り忘れました。)護岸整備される前の川の流路はもう少し南まで広がっていたのですね。

 

立っている場所で府道と旧・高倉筋が交差します。

 

 

旧・高倉筋を南に見ています。先には八軒家船着場の石段。左右の擁壁や建物で細長くなっていますが、かつては広く、船の荷を運ぶ大勢の人が昇り降りしていたことでしょう。

 

この石段で高くなっていくところが、上町台地の北端になります。

 

 

そして、その上にあるのが「北大江公園」。ここにかつて大坂教会がありました。

 

 ことの起こりは秀吉が、飯盛山の麓にある河内岡山(四條畷市)にいた家臣・結城ジョアンを左遷したことでした。このままでは河内岡山にあった教会が失われてしまう、と高山右近が自費で大坂に移転させようと願います。それを受けて司祭オルガンティーノ、およびロレンソ修道士は秀吉に教会移転地としての土地を与えていただき、教会移転の許可を得ようと面会に出向きます。それを迎えた秀吉は終始好意的に歓待し「伴天連らが遠国からはるばると教えを説くために渡来した辛酸労苦は非常なものだ。伴天連の望みを叶え、極上の敷地を進ぜよう。その地は他の大勢の者に断ったところだ。申し出た教会についても、何ぴとの妨げも受けず、随意に建築することを許可しよう。」と返答しました。秀吉は大坂城周辺には防御機能を持つ建物を一切建築させませんでした。そういう意味では大名屋敷などと異なり、教会は無害だったのでしょう。

 

 この後、秀吉は直々にこの場所まで出向いて、測量させた上でロレンソ修道士に所有権を与えます。面積は120m×100mくらいでしょうか。(実際の公園は奥行きがそれより小さいようです。大正時代の地形図でも、現在の地図でも一区画南の島町一丁目のブロックまで路地の軸が同じなので、与えられた土地はそこまで広がっていたのかもしれません。)宣教師たちが多くの樹木を植えることができるように広い土地を与えたと言ったそうです。そして、その場所については「我らの司祭たちに授けられた地所は、大坂では最良の場所の一つであり、秀吉が述べたとおり、多くの諸侯が求めたが、彼が誰にも与えなかったところであった。その地所の一方は川に沿い、非常な高台となっていて、背後の三方は切り立ち、堅固で、あたかも城塞のような地形をなしていた。どの場所からも大坂の美しい優雅な眺望がきき、もとより多くの良き鳥の囀りが聞こえる場所でもある。」(フロイス『日本史』第二部四十七章 川崎桃太・松田毅一訳)と書かれているように、大坂城近くの台地上にあり戦略上重要だっただけでなく、八軒家という河川交通の要衝にあたる場所ですから、秀吉も誰にでも渡すことはしなかったのは当然でしょう。それを教会と司祭館(先に触れた修道院)を建てるためにイエズス会士に与えます。大坂の教会は(京を中心とした地域の)教区長オルガンティーノを責任者とした中心的な教会として機能していきます。

 

そして1587年、大坂の細川忠興邸にいた妻の玉(明智光秀の娘。忠興は謀反人の娘ということで外出を許していなかったようです。)が、夫が秀吉の命で九州征伐に出た機会をみて屋敷を抜け出して大坂の教会を訪れます。彼女は夫を介して高山右近の話すキリスト教の教えを聞いて感心を持ち、復活祭に教会に足を運んだのでした。この時は洗礼を受けることを許されませんでしたが、玉はその後、侍女たちを教会に送って洗礼を受けさせて、彼女たちを介して信仰書『コンテムツス・ムンヂ』(トマス・ア・ケンピスの著といわれる『キリストにならいて』)』を入手します。(キリシタン版の出版前なので、手書き写本でしょう。)

 

同じ年の伴天連追放令の後、秀吉はこの教会と司祭館の明け渡しを要求し破壊します。宣教師たちには日本副管区長コエリュから平戸に戻るように指示がでますが、実際には潜伏したようです。大坂の民家に潜んでいたオルガンティーノが平戸に行く前に洗礼を受けたいと玉は願います。しかし実際はオルガンティーノも玉自身も自由に行動ができない状況でしたので、オルガンティーノは玉の侍女である清原マリア(いと)に洗礼の方法を教え、代理洗礼によって玉に洗礼を授けます。それ以降、玉はしばしば洗礼名のガラシヤを署名に使うようになり、現在も細川ガラシャと称されています。

 

後に秀吉がオルガンティーノの都の滞在と、かつて破壊された教会と司祭館の再建を許可することで、大坂の教会は復活します。(場所については不詳)

 

大坂教会のあった北大江公園から石段を見下ろします。突き当たった道路が大川の三十石船が行き来していた箇所だとすると、フロイスが修道院から川や船が見えると言っているのは現実の話だとわかります。

 

もう一度天満橋駅に戻って、地下鉄で一駅だけ、谷町四丁目駅から大阪歴史博物館に行きます。(距離は大したことないのですが。。。まだ午前中なのにちょっと暑さにやられはじめて、車内の冷房で涼みました。)

 

 

大阪歴博、おもしろかったです。立体展示も多く、テーマもわかりやすい。大きな博物館に行けたのが2年ぶりだったので、ゆっくり見て回りました。

 

展示の中に「八軒家着船場」のコーナーを発見(あ!ダジャレではないです。)。

 

隣に説明パネルも。「はちけんや」なんですね。

「八軒家は中世以来、京都ー大坂を結ぶ淀川交通の起点で、旅人や運送に携わる人々で賑わった。八軒家を発った三十石船は、淀川をさかのぼり枚方を経て伏見に至った。上りに一日、下りに半日を要した。野崎参・金毘羅参の船なども発着した。」と説明文。

 

伏見に行った時に、月桂冠大倉記念館の近くに十石船(クルーズ)の乗り場があり、その少し先に三十石船(これもクルーズ)が伏見みなと広場まで乗れる乗り場がありましたが、昔だと八軒家まで(本物が)運行してたということですね。

 

 

昔の大阪の地籍図が壁一面に展示してある場所があり、子どもの頃住んでいた場所を探して写真を撮りました。阪急電車も新幹線もない時代!帰宅してから国土地理院のサイトで元の地積図を探し出して、ゆっくりながめしました。

 

 

歴博にある展望スペースからは隣接している大坂城も、周辺の街も一望できます。

 

 

八軒家船着場関係と大坂教会跡のマッピング。

 

細川ガラシャ終焉の地の辺りは次回に続きます。

Mori Onに友人が出演するというので聴いてきました。ゴスペルいいですね!歌いたくなります。

 

 

エンディングの様子、すこしだけYoutubeにあげてます。(1分41秒)

 

 

 

 

 

2023年の夏、職場の法人の研修旅行のプランニングをしまして、京都の月桂冠大倉記念館を見学するプランを立てました。そこにある伏見教会跡のことは、過去記事に書いているのでそちらにゆずります。その後は滋賀県の温泉に向かうはずでしたが、熱中症っぽい方が出たので(アイスクリームで治癒)、コース変更して「一条戻橋」に行った時の記録です。

 

月桂冠大倉記念館には隣接して江戸時代のイエズス会伏見教会跡があり、展示にも少し触れられているということで出かけました。宣教師たちがそこから尾張・美濃までやってきていること(青森まで行っている)、高山右近ゆかりの教会でもあることも皆さん少し興味を持っていただけるのではないかとコースに入れました。

 

月桂冠の中庭。おいしいお水をいただきました。

 

 

伏見教会の通路。教会が破壊された後はこの奥にある伏見松林院陵への通路に使われていました。

 

フェンスの向こうの小学校の敷地が伏見教会の建物があった場所になります。

 

弁天橋のところにある十石船クルーズ

 

 

ランチは「流れ鮨三代目おとわ」伏見店。店長さんが回転寿司関係で受賞されているそうですが、期待通りのおいしさでした。

 

この伏見店、今年の1月に閉店されたそうです。再訪できなくてざんねんです。

 

それでは一条戻橋に行ってみましょう。

 

都の北限である一条通、ここが現世と異界(死者や魑魅魍魎の世界)との境界とされていて、そこにかかる一条戻橋は、その二つの世界を繋ぐ橋といわれていました。そのためにこの場所はたびたび処刑の場となっていました。

 

1596年12月30日、施薬院全宗は秀吉にキリシタン処刑を進言します。秀吉は京と大阪で捕らえられたキリシタンの両耳と鼻を削いで引き回すよう命じたが、石田三成は翌年1月3日にキリシタン24名を牢から出し、ここ一条戻橋で左耳の一部のみを切った後、牛車に乗せて市中を引き回しました。その後彼らは長崎西坂で処刑され、日本二十六聖人(旅の道中で二人が加わる)として記念されます。その殉教の旅の始まりが、この一条戻橋です。

 

 

異界との境界であるこの場所は鬼や陰陽師の伝説もあり、また橋の近くには応仁の乱・洛中合戦勃発地の標柱も立っていました。

 

 

 

 

一条戻橋のマッピング。北にある晴明神社には以前の橋の石材で作ったレプリカがありますが、一条戻橋での安倍晴明の伝説のためでしょう。

 

いっしょに松江城へ旅したメンバーの一人が就職で地方(東京)へ引っ越すことになったので、軽いお別れ会をやりました。

 

昼ごはんは四日市の「まぐろレストラン」。

 

四日市港はまぐろの遠洋漁業の水揚げで有名だった場所です。いまは別の場所で獲れたものを加工しているみたい。

 

大遠定食(まぐろ刺身とまぐろメンチカツ)をいただきました。四日市店の限定メニューです。

 

 

蒲生氏郷が1588年に築城した松坂城を見に来ました。2年後には小田原征伐の功績で会津若松に移封されているので、ここにいたのはわずかな期間でした。1585年には大阪でオルガンティーノから洗礼を受けているので、松坂にいる時はもうキリシタン大名ですね。

 

梅の季節でした。

 

発掘してました。

 

右下にGoPro潜んでます。タイムラプス撮影してます。初めてGoPro持ち出して撮影しました。その時の動画をGoProのアプリがいい感じに編集してくれたのでYoutube(1分43秒)にあげておきます。

 

 

お城に行く前に一升びんさんに電話予約しておいた松坂牛弁当(切り落とし / 一番安いやつ)を受け取りにきました。寄り道していたら遅くなってしまったので、夕食は各自でそれぞれ食べて感想を報告することにしました。

 

醤油ダレを選択。ぜいたくな夕食でした。ごちそうさまでした。