平戸・度島で日本語を覚え日本史を書いたルイス・フロイスの書斎跡・・ | 平戸・度島のキリシタン遺跡

平戸・度島で日本語を覚え日本史を書いたルイス・フロイスの書斎跡・・

宣教師で神父であったポルトガル人、ルイス・フロイスが度島の浦集落に住み難解な日本語や辞書や文法など学んだ書斎跡が下のテッペスと言われる場所・・

写真はテッペスの石段。

崩れないように補強してあるが、石段はフロイスやアルメイダも何回も登り降りした事でしょう。

この石段の事を知ってましたが、まさかフロイスが住んでいたとはびっくり!です。

さらにフロイスが住んでた書斎跡は周囲が石垣に囲まれ当時の様子が垣間見える。テッペスの住居跡に住んで居た藤本家では毎年、正月の4日に雨戸を閉ざして他者には見せない秘密の行事を行っていた。当家はすでに途絶えといるが、遺品にマリア観音とか思われる水晶の観音像があり隠れキリシタンだったのではないか(キリシタン史の謎を歩くより)

平戸市観光協会もここをフロイスの住居跡して整備し観光地として保存して欲しいですね・・それだけの価値は十分にあります。

 

◆ルイス・フロイス

日本史を書いたルイス・フロイスは1563年7月6日、待望の日本に着き、西九州の横瀬浦に(長崎県西海市)第一歩を印した。その後、大村に内乱が起こり、貿易と布教の拠点であった横瀬浦は兵火によって焼失してしまい破壊された。フロイスは難を逃れる為に1563年11月に度島に避難し、ここで10ヶ月、病魔と闘いながらフェルナンデスから難解な日本語および日本の風習を学んだ。フロイスが度島で住んでたのは浦集落。立願寺と秋葉神社の間にある「テッペス」の石段の上周辺は、平戸資料館パネルではルイス・デ・アルメイダが住んだ度島教会跡と記されている。アルメイダはこの島の宣教活動と共に投薬による医療活動を行なったことで知られている。

1564年8月には平戸にポルトガル船が寄港したのを境に、平戸の肥州からの布教が許可されその後、幾内へと布教し織田信長や豊臣秀吉とも謁見しています。

◆フロイスの日本史

ルイス・フロイスが日本での出来事をまとめた編年体歴史書。戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史』を記したことで有名。松田毅一氏と川崎桃太氏の和訳の日本史は12巻まである。

学術的にも貴重な文献で日本のキリシタンを知る上で欠かせない書物である。フロイス日訳しキリシタンにも詳しい松田氏毅一氏も昭和41年と昭和53年に2度、度島を訪れ見聞をしているが閉鎖的な風土に困窮したと言われてます。昭和40年1月に発表された柳谷武夫氏による「日本史キリシタンの心」ルイスフロイスの日本での和訳が初めてと思われる。その後松田毅一氏や最近では2018年に清涼院流水氏が『ルイス・フロイス戦国記 ジャパゥン』などで発表し話題となってます。

「織田信長は潔癖症で、お酒が飲めなかった」、「豊臣秀吉は多指症であった(片方の手の指が六本あった)」といった事実などが一例として挙げられます。こうした「事実(史実)」を知っている日本人は、今現在は決して多くはないかもしれません。(清涼院流水氏より)