江戸時代の平戸・度島は多久島と呼ばれていた?? | 平戸・度島のキリシタン遺跡

江戸時代の平戸・度島は多久島と呼ばれていた??

40年間のキリシタンの時代が終わった度島・・・

井元権右衛問のキリシタン征伐で立願時にあった過去帳では度島は200人ほどの

殉教者を出したと言われる。

 

江戸時代になると・・キリシタンは平戸や生月

の一部を除いて隠れキリシタンとして

密かに信仰の対象としていました。

 

度島は生月に比べても小さい島ですから

すぐに・・隠れキリシタンの存在が分かるのでしょう。

 

井元権右衛門の取り締まりがある限り

どこへ逃げて信仰を続けるのは

難しく・・明治の時代に解禁されるまで続きました。

 

伴天連追放後の度島のキリシタンは

ウドの洞窟とかナンドサンナンドの洞窟と

人目に触れない所で祈ってた信徒も

多かったのではないだろうか。

 

江戸の時代の家光所用の日本地図には

度島は多久島と呼ばれた地図が存在します。