天使の島と呼ばれた平戸・度島のキリシタン遺跡を紹介します。 | 平戸・度島のキリシタン遺跡

天使の島と呼ばれた平戸・度島のキリシタン遺跡を紹介します。

2018年6月30日に「長崎と天草の潜伏キリシタン遺産関連の世界遺産が登録されました。

平戸市では春日集落と中江島が世界遺産に登録されました。

平戸市度島は上記の場所からも近い所にあります。

度島のキリシタンの歴史で・・注目されるのは・・

偉大な宣教師2人が住んでいた事です。

修道士で外科医のルイス・デ・アルメイダと

神父でフロイスの日本史を書いたルイス・フロイスです。

 

 

◆ルイス・デ・アルメイダ(南蛮医師)

日本人医師の協力を受けて病院を運営していたアルメイダは1558年には医学教育も開始。医師の養成を行った。やがてアルメイダは九州全域をまわって医療活動を行うようになり、1563年には平戸の北部、度島でも治療に当たっていた。同年には横瀬浦から非難し後に日本史を書いたフロイスも度島で10か月ほど滞在した。宇久純定の治療を依頼されるほどその名声は高まっていた[5]。(ウィキュベアより)

長崎開港に先立ち本県に初めて西洋医術を伝えたのは、宣教師・医療伝導師のルイス・アルメイダであり、外科的技術は特に優れていたという。来日したアルメイダは豊後(現大分県)の府内(現大分市)で日本初のヨーロッパ式医学教育を行なった後、本県平戸へ入り度島、生月島、大村、有馬、島原、口之津、福田浦など巡回し布教と医療に従事。永禄9年(1566)冬の五島灘を渡り、五島藩主五島純定や島民の病気を治療、それまで祈梼などにばかり頼っていた島民から感謝される。同10年(1567)長崎浦を訪れ長崎甚左衛門純景の館の近くに布教所(現春徳寺)を設け、布教と医療を行った。

こうして天正11年(1583)長崎の本博多町(現万歳町)にミゼリコルデイアの組(慈悲屋)がつくられ、癩病院・老人病院・孤児院など経営された(長崎県医師会より)

◆ルイス・アルメイダ(度島での治療逸話)

東野利夫著「南蛮医アルメイダ」には森重郎氏からの聞き取りで医に関する伝承が紹介されている。

「むかし、南蛮の薬師(くすし-医者)がここに来たげな。あっけらかんとした人で、足ば投げ出し長ギセルのようなものを吸うて、ひょうきんんなことば言うたりして、病人ば看てやっとげな。村のもんたちあ気楽に看てもらいよったとげな」

アルメイダにお世話になった多久島と言う姓の人が佐賀から年に1回は診療所跡にあるツクシ様に供養に訪れてます。

 


◆ルイス・フロイス

日本史を書いたルイス・フロイスは1563年7月6日、待望の日本に着き、西九州の横瀬浦に(長崎県西海市)第一歩を印した。その後、大村に内乱が起こり、貿易と布教の拠点であった横瀬浦は兵火によって焼失してしまい破壊された。フロイスは難を逃れる為に1563年11月に度島に避難し、ここで10ヶ月、病魔と闘いながらフェルナンデスから難解な日本語および日本の風習を学んだ。フロイスが度島で住んでたのは浦集落。立願寺と秋葉神社の間にある「テッペス」の石段の上周辺は、平戸資料館パネルではルイス・デ・アルメイダが住んだ度島教会跡と記されている。アルメイダはこの島の宣教活動と共に投薬による医療活動を行なったことで知られている。

1564年8月には平戸にポルトガル船が寄港したのを境に、平戸の肥州からの布教が許可されその後、幾内へと布教し織田信長や豊臣秀吉とも謁見しています。

 

◆フロイスの日本史

ルイス・フロイスが日本での出来事をまとめた編年体歴史書。戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史』を記したことで有名。松田毅一氏と川崎桃太氏の和訳の日本史は12巻まである。

学術的にも貴重な文献で日本のキリシタンを知る上で欠かせない書物である。フロイス日訳しキリシタンにも詳しい松田氏毅一氏も昭和41年と昭和53年に2度、度島を訪れ見聞をしているが閉鎖的な風土に困窮したと言われてます。昭和40年1月に発表された柳谷武夫氏による「日本史キリシタンの心」ルイスフロイスの日本での和訳が初めてと思われる。その後松田毅一氏や最近では2018年に清涼院流水氏が『ルイス・フロイス戦国記 ジャパゥン』などで発表し話題となってます。

「織田信長は潔癖症で、お酒が飲めなかった」、「豊臣秀吉は多指症であった(片方の手の指が六本あった)」といった事実などが一例として挙げられます。こうした「事実(史実)」を知っている日本人は、今現在は決して多くはないかもしれません。(清涼院流水氏より)

 

◆フロイスの日本史第五十章には度島の事について10ページほど記載されてます。最初に「ばあでれ(神父)ルイス・フロイスがいるまん(修道士)ファン・フェルナンデスと共に度島に移った次第」記述がある。

当時は平戸ではポルトガル商人と日本人との間で発生した暴動事件があった。宮の前事件と言われ、平戸では布教どころでは無く、宣教師への風当たりが強かった。横瀬浦の暴動で焼き討ちにあい平戸から籠手田安経の手配の小型船が迎えに来て度島にそのまま行った。平戸瀬戸から北西に向かうと、茜色の夕陽を反射する海上に左右一直線に広がる島が見え、フロイスが度島に近づくと島民も船で漕いだり、あるいは海岸まで行ってばあでれ様(神父様)迎えた。この暖かい島民の心にフロイスは大いに感激し喜んだと言われます。フロイスも何か月も熱病で苦しめれた病気が度島での復活祭の日を境に奇跡的に治り、度島での療養が功を奏した。4月2日の復活祭ではキリシタンなちはいちばん上等な着物に身を包み、誰もが笑顔で、見違えるほど輝いていた。フェルナンデスと共に私も頭に花の冠を載せは私たちを先頭にキリシタンたちは行列をつくって、島内を練り歩いた。かってキリシタンの聖地となるはずだった横瀬浦には異教徒がいたが、この度島は島民全員がキリシタンであり、島外からの訪問者もキリシタンのみと言う、まさに我らの天国であった。(ジャパゥンより)度島は基礎となるフロイス日本史の歴史の島として名を残す事になりました。アルメイダは度島を「天使の島」呼び、キリシタンの信愛の深さが良く書かれている。今でも当時、南蛮医師アルメイダにお世話になった佐賀県に移られた多久嶋と言う名前のご子孫が年に1回はアルメイダの供養に度島に訪れている。フロイスは住居のテッペスの石段の上で遠くに平戸が眺める風景に何を思ったのだろうか・・450年前にタイムスリップして見るのもいいかも知れない。