浦賀駅から10分ほど歩くと、浦賀港が見えてきます。道路は二股に分かれ、左手(東側)に進むと、山側に叶神社があります。
社伝によりますと、「文覚上人が、平治の乱で破れ捕らえられ、伊豆に流刑となり韮山蛭小島に居た源頼朝のもとを訪れ、頼朝に源氏再興を鼓舞し、源氏再興を叶い、石清水八幡宮より勧請創立した」ことが、叶神社の謂れとなっています。創建は文治2年(1186年)とされています。また、元禄5年(1692年)、江戸幕府の行政政策により、浦賀は東西の浦賀村に別けられました。その行政区域の分離により、浦賀港の東西にそれぞれ叶神社が建てられています。
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東浦賀の叶神社の前に、「浦賀の渡し」の発着する艀があります。大人150円で乗船することにしたました。この渡しは観光船というより、朝夕に学生さんの通学やサラリーマンの通勤に日常で利用されているのだそうです。
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渡しは風情を感じている間もなく、3分ほどで対岸に到着します。
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西側に到着しました。こちらには堤防がありました。夕方になると小鯵やイワシを釣りに人が集まります。
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ここから、住宅街の方に10分ほど歩くと「浦賀奉行所跡」があります。今は大きな団地になっていました。ペリー来航時には、かつて下田にあった奉行所がこの浦賀に移されていましたので、この場所が日本の外交交渉の窓口となっていたところです。
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「浦賀奉行所跡」を標すものは、この痛められた表示板だけでした。何とも悲しい気持ちになりました。
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この場所から、20分ほど歩くと久里浜海岸沿いにペリー公園があります。ペリー公園内には、記念碑とペリー記念館があります。
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この碑は、日本の開国を求めて来航したアメリカ海軍提督マシュー・カルブレイス・ペリーが嘉永6年6月9日(新暦1853年7月14日)に久里浜海岸に上陸したことを記念して建てられたものです。
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ペリー上陸記念碑の除幕式は明治34年(1901年)7月14日、ペリー上陸と同じ日に行われています。参列者は、桂首相のほか閣僚、個人として榎本武揚やペリーの孫のロジャーズ少将ら千人ほどいたそうです。この記念碑は伊藤博文の筆によるものです。
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ペリー記念館には、ペリー来航に関する歴史的資料や模型などが展示されていました。入場料は無料です。(月曜日休館)
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展示品の中に、ペリーらが浦賀に上陸した時の様子を表した錦絵がありました。
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久里浜沖に碇泊している黒船がジオラマになっています。
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ペリー公園から久里浜沖を見ると、千葉県の金谷から来たフェリーが久里浜港に近づいているところでした。当時、こんな感じで見えていたのでしょうか、想いにふけます。
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ペリー公園の場所はここです。
おしまい
横須賀「三笠公園」から、さらに三浦半島の岬方向に車を走らせ、大津港まで来ました。この当たりは、浦賀水道(東京湾)の中でも、千葉県側の富津岬が迫り出している分、湾が最も狭くなっています。ですから、潮の流れがとても早く、身が締まり、脂がのった黄金アジという高級ブランドが釣れることで知られています。私も何回か釣行しましたが、まだ顔を見せてくれません。
この大津の街は、坂本龍馬の妻、龍(おりょうさん)が終の棲家としたところです。
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慶応3年(1867年)11月15日、近江屋(京都中京区)で坂本龍馬は中岡慎太郎とともに暗殺されます。龍馬暗殺の知らせが届くと、お龍は気丈に振る舞い、法事を済ませたあと、髪を切り落とし、仏前に供え号泣したと伝えられています。慶応4年、土佐(高知)の龍馬の実家に迎えられますが、家族と馴染めず1年ほどで帰京してしまいます。その後、妹の光枝を頼り、横須賀に向かいました。その途中の神奈川宿で商人の西村松兵衛と知り合い、二人は明治8年7月2日に夫婦となりました。このとき、お龍は「ツル」として入籍しています。二人が住んだのは、三浦郡豊島村深田(横須賀市米が浜通)でした。
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夫の西村松兵衛はもともと呉服商を営んでいましたが、経営が思うようにいかず、二人の生活は苦しかったと言われています。明治39年1月15日、病いがもとで、お龍はついに息を引き取ります。享年66歳でした。松兵衛は、32年連れ添ったお龍のために墓碑を建てるために募金に奔走し、海軍幹部の協力もあり、大津町の信楽寺(しんぎょうじ)に墓碑を建てたのです。その生涯は、幕末維新を生き抜いた、波乱万丈そのものでした。今年は、おりょうさんの没後110年の年にあたっていて、大津でも様々な取り組みを企画しているようです。
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宮谷山至心院信楽寺の本堂です。
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司馬遼太郎は「街道をゆく 三浦半島記」のなかで、「久里浜の衝撃」という小見出しを付けて、横須賀で亡くなったお龍の半生を記しています。司馬遼太郎は、墓碑に触れて「山門が、すでに高い。その山門へのぼる石段の下に-つまり狭い道路に沿って寺の石塀があり、その石塀を背に-いわば路傍にはみだして-墓が一基ある。路傍の墓である。」と書いています。
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墓碑には、「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」とあります。贈正四位とは、明治政府が龍馬に対して、明治24年に正四位を追贈したことを指しています。
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昼食は、大津駅のひとつ手前の駅、堀ノ内駅からほど近い「魚がし食堂はま蔵」でランチにしました。真安浦港鮮魚直売所に隣接している食堂です。
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午後2時半でランチ終了だったので、5分前でぎりぎりで飛び込みました。入口近くの自販機でチケットを買うシステムでした。初めてなので迷い、とりあえず定番の「刺身定食」に。思っていたより刺身はちょっとさみしい感じでした。ご飯も固めだったし。しょうがないかな、千円だし。という印象です。
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信楽寺はこちらです
横須賀ネタはさらに続きます。
司馬遼太郎の「街道をゆく 三浦半島記」から、「三笠」についてご紹介したいと思います。「地図を見ると、屈曲が横須賀港においてもっとも魅力的で、山が海にせまらず、野もある。平安後期、その自然地理が三浦党を成立させたように、幕末、製鉄・造船の設備ができ、明治後軍港になり、いわば近代の大水軍の根拠地になった」
かつて、日米修好通商条約の批准のために安政六年(1859年)に渡米した目付小栗忠順は、帰国後、横須賀本港に製鉄所(造船所)をつくりました。現在もそのまま米軍基地として使用されています。その南に、新港とよばれている岸壁に記念艦「三笠」が保存公開されていて、そのまわりは三笠公園と名付けられています。ちなみにこの「三笠」の艦名は、奈良県の三笠山(若草山)にちなんで命名されたそうです。
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18世紀から20世紀にわたり、帝政ロシア、後のソ連は周辺の国々に対し侵略を進めていました。「日本が対露戦争が必至として準備をはじめるのは、明治30年(1897年)前後といっていい」日本は、旅順艦隊とウラジオストック艦隊の港口をふさいだとしても、ロシアの本国艦隊に対応できるだけの艦隊をつくらなければなりませんでした。
その開戦のための旗艦「三笠」が、英国のヴィッカーズ社に注文されました。明治33年(1900年)に完成した「三笠」は、排水量1万5140トンの世界最新鋭の戦艦でした。三笠公園に固定接岸された戦艦「三笠」の前には、連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将の銅像が建てられています。
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日本海海戦では、常に連合艦隊の先頭に立ち、敵のバルチック艦隊からの集中砲火を浴びながら戦い抜き、歴史的な勝利に貢献しました。この海戦で三笠は113名の死傷者を出しました。その後、「三笠」は幾多の苦難の道を歩むことになります。このことについては、後程、触れさせていただきます。
現在では、世界三大記念艦「みかさ」として復元され、公開されています。
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大人ひとり600円の観覧料を払い、艦内を見学します。
上甲板前方から主砲(30センチ前部主砲)を撮りました。このアングルの写真はパンフレットにも使用されています。とても迫力があります。
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艦橋の司令塔から主砲を見下ろしました。前方に見える建物は米軍基地です。軍港内は波も穏やかでした。お願いするとガイドの方から説明も聞けるようになっています。
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沖の方に目を向けると、無人島の猿島が見えます。今は、三笠公園から渡船があり、約30分で渡ることができることから、BBQやレジャーを楽しむ人で賑わっています。島内からは、縄文時代の土器や弥生時代の土器・人骨が出土し、また、日蓮にまつわる伝説も残されています。幕末から第二次大戦前にかけて、東京湾の首都防衛拠点となり、幕末の弘化4年(1847年)には、江戸幕府により国内初の台場が築造されています。今も煉瓦で覆われた要塞跡が残されていて、国の史跡に指定されています。
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中甲板に降りると、展示室があります。
日露戦争の当時の様子を伝えるパネルや遺品、パノラマ模型などが展示されています。
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これは、戦艦「三笠」の模型です。
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司令長官の東郷平八郎を中心に日露戦争で活躍したした方々の写真。
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先頭部分には士官室があります。
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幕僚事務室です。木製の箱のようなものは、寝室です。落ちないように工夫されているのでしょうか。
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艦長用のバスルーム。
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上甲板に戻りまして、ここは、15センチ副砲の操砲展示です。右の布は兵員のハンモックです。兵員は常にこの場所で寝・食・訓練をしていました。室内は密室なので、少しいただけでも息苦しさを感じました。息の抜けない戦闘状況と厳しい環境のなかで兵員達の精神状態はどうだったのか想像に難くありません。
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明治時代に入ると精米技術が向上し、米価が安くなったことから庶民の間にも白米を食べる習慣が広まりました。これに伴い全国で脚気患者が増加しました。特に軍隊での罹患率が高く、問題となっていました。脚気は、ビタミンB1不足によって起こるのですが、当時は原因が判明していませんでした。そこで、イギリス海軍の兵食を参考に肉食を取り入れたところ罹患率が低下しました。この過程でメニューの改善が図られ、カレーシチューに小麦粉でとろみをつけ米飯にかけたのが「カレーライス」でした。明治41年に海軍が発行した「海軍割烹術参考書」に掲載されている「カレイライス」のレシピには、牛肉と人参、玉葱、馬鈴薯が使われていました。横須賀鎮守府でも「海軍カレー」が採用され、その味を覚えた兵士によりカレーライスが全国に普及したという説もあるそうです。
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横須賀にある三笠公園の場所はここです。

戦艦「三笠」の苦難の道について、司馬遼太郎さんは「街道をゆく 三浦半島記」の中でこのように記しています。「『三笠』はよく働いた。つねに全軍の先頭に立ち、また戦術上、敵前回頭をして運動をゆるやかにしたため、敵の砲弾を多く吸い寄せ、戦死者も他艦にくらべて多かった。その後の『三笠』は、不幸だった。日露戦争のあと、佐世保に碇泊中、火薬庫が爆発して沈没した。」この事故では339名の死者を出しました。この事故の解明にあたっては、査問委員会が開かれましたが、原因は不明のままです。所説あるようですが、弾薬庫前で、当時水兵間で流行していた「信号用アルコールに火をつけたのち、吹き消してにおいを飛ばして飲む」いたずらの最中に、誤って火のついた洗面器をひっくり返したのが原因ではないかとする説もあります。写真は沈没した際の『三笠』です。幸い浅瀬だったので修理され、その後現役に戻ります。そして、第一次世界大戦に参戦し、大正10年11月に舞鶴に帰投しています。その後、ワシントン軍縮条約により廃艦が決定され、横須賀に保存されましたが兵装の復元は行われませんでした。
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「街道をゆく 三浦半島記」は続きます。
「第二次大戦後は、もっと悲惨だった。初期に進駐してきた米軍によって、展示品のめぼしいものは持ち去られたという。一時期、カフェになっていたという説もある。」とされています。三笠の画像には、こうしたものもありました。
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「街道をゆく 三浦半島記」では、「その惨状を、昭和30年のジャパンタイムズの紙上でなげいた英国人がいた。ジョン・S・ルービンといい、当時75歳で、時計商だという。この投書が反響を呼び、アメリカ海軍のチェスター・ニミッツ提督が三笠の状況を憂いて本を著し、寄付するなどして復元保存運動が盛り上がりを見せていきました。ようやく、昭和34年に復元保存工事の予算が承認され、昭和36年に工事が終了し、同年5月27日に復元記念式が挙行されました。その後、アメリカ軍が撤去していた長官室のテーブル等の設えも完全な形で返還されたそうです。
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めでたし、めでたし。
久しぶりの晴天に誘われて、神奈川県立金沢文庫と称名寺に行きました。
鎌倉時代、鎌倉の海岸は遠浅で良港といえる場所がありませんでした。そこで注目されたのが、今の東京湾に面する金沢の六浦でした。
北条泰時は、この地と鎌倉を容易につなげるため朝比奈の切通しを開き、六浦はそれ以降鎌倉の外港として繁栄しました。泰時は、この金沢の重要性を考慮して、この地を弟の実泰の所領としました。
実泰の子、実時は火災の多い鎌倉の邸内で二度にわたり多くの典籍を類焼させていたことから、金沢の地に称名寺を建て、また収集した書籍をおさめる文庫を建てたのです。それが金沢文庫で、以後この地は、東国の文化の一中心となりました。
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金沢文庫では企画展「国宝でよみとく神仏のすがた」が開催されていました。
1930年に神奈川県立金沢文庫開館以来、継続してきた称名寺の文献資料を踏まえ、今年の8月17日に重文「称名寺聖教と金沢文庫文書」が国宝に指定されました。今回の企画展はそれを記念したものです。
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金沢文庫で保管する「称名寺聖教・金沢文庫文書」2万点余は、このたび国宝に指定されることとなりました。同資料は、わが国の中世史、仏教史、仏教美術史などを考えるうえで第一級の資料群と言えます。
本企画展では新国宝である「称名寺聖教・金沢文庫文書」を通じて、普段あまり見る機会の少ない個人蔵の神像や仏像、仏画などの仏教美術作品をご紹介いたします。仏教美術作品には製作されるに至った、宗教的背景や時代背景があります。これら背景を記した資料群である「称名寺聖教・金沢文庫文書」と、仏教美術作品を一堂に会することにより、「神仏のすがた」を読み解いてみたいと思います。(金沢文庫HPから)

金沢文庫と称名寺は一体のものです。出口を出て、短いトンネルを越えると深い緑の庭園と称名寺境内が現れます。
彼岸花にカメラを向けた瞬間、蝶が現れました。この蝶の名前は「クロアゲハ」。別名「鎌倉蝶」と呼ばれています。これは家紋でも使用されていて、代表的な人でいうと、「池田輝政」「芹沢鴨」「関鉄之介」がいます。家紋は鎌倉時代以降に見られるようになったことから、鎌倉蝶の響きから、鎌倉武士を想わせるところがあるのかもしれません。鎌倉の「称名寺」で鎌倉蝶を見ることができ、感激です。ちなみに鎌倉市の「蝶」に指定されています。
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「鎌倉蝶」の家紋はこちらです。
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さて、北条実時の孫・金沢貞顕(さがかね)が平泉の毛越寺をモデルに金堂や庭園などを造営しました。
称名寺庭園は、関東では珍しい浄土式庭園で境内の真ん中に橋が架かった大きな池があるのが特徴です。また浄土式庭園は、一般に平安時代に作庭されたものが多いのですが、この称名寺庭園は鎌倉時代作の珍しい浄土式庭園です。仁王門を抜け、池を越えると金堂と釈迦堂があります。称名寺の境内は国の史跡に指定されています。
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金沢文庫を出て、称名寺に入ったところに北条実時の胸像があります。
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金沢文庫の建物
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金沢文庫と称名寺は、海岸にほど近く風光明美なところです。
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シーボルトの没後150周年を記念して、江戸東京博物館と東京国立科学館で特別企画展が始まりました。日本の幕末に大きな影響を与えたシーボルトの実像とは・・・。
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シーボルトという人は、幕末の長崎で最新の医学を教えた人という表の顔がある一方で、実は日本の国情を探ることをオランダ政府から命じられていました。日本の蘭学者に医学を教える一方で、日本の植物、地質、昆虫、動物、民俗、工芸品、文化財などあらゆる資料をかき集め、蘭学者の伊東圭介や高野長英らの手を借りて、資料集や論文を作成し、集めた膨大な資料を祖国に持ち帰り、オランダで日本博物館構想の実現に身を投じたという方なのです。
つまり、シーボルトは、ニッポンに魅せられ、日本人よりニッポン好きなヨーロッパ人だったと言えるかもしれません。
今回の特別企画展は、シーボルトが命がけで集めた日本の貴重な資料、約300点を150年以上の年月を経て、里帰りさせた貴重なものなのです、わたくし的には。
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今回一番見たかったのは、シーボルト事件のきっかけとなった日本地図でした。この日本地図は、シーボルトに依頼され、江戸幕府天文方の高橋景保が譲り渡したものなのですが、その元になったのは伊能忠敬が測量した地図でした。
先月、ブログで伊能忠敬と高橋景保やシーボルト事件について記事にしていますのでご覧ください。

これは、東京築地の聖路加国際病院の近くにある「あかつき公園」の脇にあるシーボルトの胸像です。シーボルト自身は築地に住んだことはありませんが、娘のいねが築地に産院を開業していたこと、また、この一帯が明治初期から中期にかけて外国人居留地になっていたことから設置されたようです。
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江戸東京博物館では、山岡鉄舟生誕180年記念と題し、企画展「山岡鉄舟と江戸無血開城」が開催されていました。山岡鉄舟についてはよく知りませんでしたので大変勉強になりました。
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この写真は、昨年、東海道ぶらり旅で府中(静岡)に立ち寄った際に撮ったものです。
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江戸東京博物館で一番見応えがあるのは、何といっても日本橋界隈のジオラマではないかといつも感心しています。
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江戸東京博物館を出て、両国駅に向かうと、大相撲も大詰めを迎え、日馬富士と豪栄道の大一番ということで国技館の周りはものすごいことになっていました。
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特に、混んでいたのが、正面から入場するお気に入りの関取の入り待ちです。
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さて、両国、国技館前を後にして、総武線と山手線を乗り継いで、上野駅で降り、東京国立科学館で企画展「日本の自然を世界に開いたシーボルト」を見てきました。
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シーボルトは、植物への関心も強く、1万点以上の押し葉標本を収集し、川原慶賀による植物画などを精力的に集めました。収集した標本の大半はオランダのライデン、一部がドイツのミュンヘンなどで保管されています。また、研究家として日本植物の分類にも貢献しています。研究を通してシラネアオイやキブシなどの固有種の存在も明らかにしています。また、日本から持ち帰ったユリやアジサイ、ツバキ、ギボウシなどをヨーロッパに導入して、種類も少なく貧弱だったヨーロッパの地で園芸植物として広めていきました。
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東京国立科学館を出たところで、「東京江戸ウィーク」という怪しげな催事が行われていました。

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この展示は、歌舞伎の化粧の隈取り模様を合成して、顔映像にプロジェクションマッピッングで模るインタラクティブ展示だそうです。とても面白そうでした。
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一日よく雨が降り続けましたが、充実した博物館鑑賞をいたしました。