司馬遼太郎の「街道をゆく 三浦半島記」から、「三笠」についてご紹介したいと思います。「地図を見ると、屈曲が横須賀港においてもっとも魅力的で、山が海にせまらず、野もある。平安後期、その自然地理が三浦党を成立させたように、幕末、製鉄・造船の設備ができ、明治後軍港になり、いわば近代の大水軍の根拠地になった」
かつて、日米修好通商条約の批准のために安政六年(1859年)に渡米した目付小栗忠順は、帰国後、横須賀本港に製鉄所(造船所)をつくりました。現在もそのまま米軍基地として使用されています。その南に、新港とよばれている岸壁に記念艦「三笠」が保存公開されていて、そのまわりは三笠公園と名付けられています。ちなみにこの「三笠」の艦名は、奈良県の三笠山(若草山)にちなんで命名されたそうです。
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18世紀から20世紀にわたり、帝政ロシア、後のソ連は周辺の国々に対し侵略を進めていました。「日本が対露戦争が必至として準備をはじめるのは、明治30年(1897年)前後といっていい」日本は、旅順艦隊とウラジオストック艦隊の港口をふさいだとしても、ロシアの本国艦隊に対応できるだけの艦隊をつくらなければなりませんでした。
その開戦のための旗艦「三笠」が、英国のヴィッカーズ社に注文されました。明治33年(1900年)に完成した「三笠」は、排水量1万5140トンの世界最新鋭の戦艦でした。三笠公園に固定接岸された戦艦「三笠」の前には、連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将の銅像が建てられています。
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日本海海戦では、常に連合艦隊の先頭に立ち、敵のバルチック艦隊からの集中砲火を浴びながら戦い抜き、歴史的な勝利に貢献しました。この海戦で三笠は113名の死傷者を出しました。その後、「三笠」は幾多の苦難の道を歩むことになります。このことについては、後程、触れさせていただきます。
現在では、世界三大記念艦「みかさ」として復元され、公開されています。
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大人ひとり600円の観覧料を払い、艦内を見学します。
上甲板前方から主砲(30センチ前部主砲)を撮りました。このアングルの写真はパンフレットにも使用されています。とても迫力があります。
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艦橋の司令塔から主砲を見下ろしました。前方に見える建物は米軍基地です。軍港内は波も穏やかでした。お願いするとガイドの方から説明も聞けるようになっています。
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沖の方に目を向けると、無人島の猿島が見えます。今は、三笠公園から渡船があり、約30分で渡ることができることから、BBQやレジャーを楽しむ人で賑わっています。島内からは、縄文時代の土器や弥生時代の土器・人骨が出土し、また、日蓮にまつわる伝説も残されています。幕末から第二次大戦前にかけて、東京湾の首都防衛拠点となり、幕末の弘化4年(1847年)には、江戸幕府により国内初の台場が築造されています。今も煉瓦で覆われた要塞跡が残されていて、国の史跡に指定されています。
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中甲板に降りると、展示室があります。
日露戦争の当時の様子を伝えるパネルや遺品、パノラマ模型などが展示されています。
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これは、戦艦「三笠」の模型です。
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司令長官の東郷平八郎を中心に日露戦争で活躍したした方々の写真。
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先頭部分には士官室があります。
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幕僚事務室です。木製の箱のようなものは、寝室です。落ちないように工夫されているのでしょうか。
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艦長用のバスルーム。
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上甲板に戻りまして、ここは、15センチ副砲の操砲展示です。右の布は兵員のハンモックです。兵員は常にこの場所で寝・食・訓練をしていました。室内は密室なので、少しいただけでも息苦しさを感じました。息の抜けない戦闘状況と厳しい環境のなかで兵員達の精神状態はどうだったのか想像に難くありません。
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明治時代に入ると精米技術が向上し、米価が安くなったことから庶民の間にも白米を食べる習慣が広まりました。これに伴い全国で脚気患者が増加しました。特に軍隊での罹患率が高く、問題となっていました。脚気は、ビタミンB1不足によって起こるのですが、当時は原因が判明していませんでした。そこで、イギリス海軍の兵食を参考に肉食を取り入れたところ罹患率が低下しました。この過程でメニューの改善が図られ、カレーシチューに小麦粉でとろみをつけ米飯にかけたのが「カレーライス」でした。明治41年に海軍が発行した「海軍割烹術参考書」に掲載されている「カレイライス」のレシピには、牛肉と人参、玉葱、馬鈴薯が使われていました。横須賀鎮守府でも「海軍カレー」が採用され、その味を覚えた兵士によりカレーライスが全国に普及したという説もあるそうです。
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横須賀にある三笠公園の場所はここです。

戦艦「三笠」の苦難の道について、司馬遼太郎さんは「街道をゆく 三浦半島記」の中でこのように記しています。「『三笠』はよく働いた。つねに全軍の先頭に立ち、また戦術上、敵前回頭をして運動をゆるやかにしたため、敵の砲弾を多く吸い寄せ、戦死者も他艦にくらべて多かった。その後の『三笠』は、不幸だった。日露戦争のあと、佐世保に碇泊中、火薬庫が爆発して沈没した。」この事故では339名の死者を出しました。この事故の解明にあたっては、査問委員会が開かれましたが、原因は不明のままです。所説あるようですが、弾薬庫前で、当時水兵間で流行していた「信号用アルコールに火をつけたのち、吹き消してにおいを飛ばして飲む」いたずらの最中に、誤って火のついた洗面器をひっくり返したのが原因ではないかとする説もあります。写真は沈没した際の『三笠』です。幸い浅瀬だったので修理され、その後現役に戻ります。そして、第一次世界大戦に参戦し、大正10年11月に舞鶴に帰投しています。その後、ワシントン軍縮条約により廃艦が決定され、横須賀に保存されましたが兵装の復元は行われませんでした。
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「街道をゆく 三浦半島記」は続きます。
「第二次大戦後は、もっと悲惨だった。初期に進駐してきた米軍によって、展示品のめぼしいものは持ち去られたという。一時期、カフェになっていたという説もある。」とされています。三笠の画像には、こうしたものもありました。
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「街道をゆく 三浦半島記」では、「その惨状を、昭和30年のジャパンタイムズの紙上でなげいた英国人がいた。ジョン・S・ルービンといい、当時75歳で、時計商だという。この投書が反響を呼び、アメリカ海軍のチェスター・ニミッツ提督が三笠の状況を憂いて本を著し、寄付するなどして復元保存運動が盛り上がりを見せていきました。ようやく、昭和34年に復元保存工事の予算が承認され、昭和36年に工事が終了し、同年5月27日に復元記念式が挙行されました。その後、アメリカ軍が撤去していた長官室のテーブル等の設えも完全な形で返還されたそうです。
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めでたし、めでたし。