横須賀「三笠公園」から、さらに三浦半島の岬方向に車を走らせ、大津港まで来ました。この当たりは、浦賀水道(東京湾)の中でも、千葉県側の富津岬が迫り出している分、湾が最も狭くなっています。ですから、潮の流れがとても早く、身が締まり、脂がのった黄金アジという高級ブランドが釣れることで知られています。私も何回か釣行しましたが、まだ顔を見せてくれません。
この大津の街は、坂本龍馬の妻、龍(おりょうさん)が終の棲家としたところです。

慶応3年(1867年)11月15日、近江屋(京都中京区)で坂本龍馬は中岡慎太郎とともに暗殺されます。龍馬暗殺の知らせが届くと、お龍は気丈に振る舞い、法事を済ませたあと、髪を切り落とし、仏前に供え号泣したと伝えられています。慶応4年、土佐(高知)の龍馬の実家に迎えられますが、家族と馴染めず1年ほどで帰京してしまいます。その後、妹の光枝を頼り、横須賀に向かいました。その途中の神奈川宿で商人の西村松兵衛と知り合い、二人は明治8年7月2日に夫婦となりました。このとき、お龍は「ツル」として入籍しています。二人が住んだのは、三浦郡豊島村深田(横須賀市米が浜通)でした。

夫の西村松兵衛はもともと呉服商を営んでいましたが、経営が思うようにいかず、二人の生活は苦しかったと言われています。明治39年1月15日、病いがもとで、お龍はついに息を引き取ります。享年66歳でした。松兵衛は、32年連れ添ったお龍のために墓碑を建てるために募金に奔走し、海軍幹部の協力もあり、大津町の信楽寺(しんぎょうじ)に墓碑を建てたのです。その生涯は、幕末維新を生き抜いた、波乱万丈そのものでした。今年は、おりょうさんの没後110年の年にあたっていて、大津でも様々な取り組みを企画しているようです。

宮谷山至心院信楽寺の本堂です。

司馬遼太郎は「街道をゆく 三浦半島記」のなかで、「久里浜の衝撃」という小見出しを付けて、横須賀で亡くなったお龍の半生を記しています。司馬遼太郎は、墓碑に触れて「山門が、すでに高い。その山門へのぼる石段の下に-つまり狭い道路に沿って寺の石塀があり、その石塀を背に-いわば路傍にはみだして-墓が一基ある。路傍の墓である。」と書いています。


墓碑には、「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」とあります。贈正四位とは、明治政府が龍馬に対して、明治24年に正四位を追贈したことを指しています。

昼食は、大津駅のひとつ手前の駅、堀ノ内駅からほど近い「魚がし食堂はま蔵」でランチにしました。真安浦港鮮魚直売所に隣接している食堂です。

午後2時半でランチ終了だったので、5分前でぎりぎりで飛び込みました。入口近くの自販機でチケットを買うシステムでした。初めてなので迷い、とりあえず定番の「刺身定食」に。思っていたより刺身はちょっとさみしい感じでした。ご飯も固めだったし。しょうがないかな、千円だし。という印象です。

