JR東日本で、久しぶりに誕生した新駅「小田栄駅」に到着です。新駅の許認可が下りたのが、2015年8月で、2016年3月には完成という異例の早さで完成しました。その秘密は、JR東日本と川崎市が協定を結んだ最初の事業ということもあったようです。しかも、事業費は、5億5千万円(JR東日本と川崎市が折半)ほどです。通常の新駅は、20億円かかるそうですから、なんというコスパでしょうか!

駅の正面はこういう感じです。もちろん、無人駅です。

改札は、他の南武支線の駅と同様に、簡易ICカード改札機です。そして、隣の赤いポストのような形のボックスは、なんと「乗車駅証明書発行機」なんです。使用されているところはまだ見たことがありません。



ワンマンカーの運転士さんは、ここで交代です。浜川崎駅には運転士さんの詰所があります。でも、改札は簡易ICカード改札機のみです。



浜川崎駅の駅名標も、新駅「小田栄駅」の誕生により隣駅が修正され、新しくなりました。駅名標だけが真新しくて目立ちます。

この風景も、どこかローカル線の雰囲気を漂わせています。

駅舎も当時のままのようです。大正7年開業当時は浜川崎駅は貨物駅でした。昭和18年に旅客営業を開始しています。ですから、昭和18年頃にはできていた建物だと思います。

浜川崎駅の正面ゲートです。ちなみに改札口は一つだけです。

写真の奥には、駅舎と隣接して「浜川崎商店(後藤)」があります。夕方の5時になるとオープンします。商店の正体は立ち飲み屋さんです。私たち地元の人間は、「後藤」と呼んでいます。裏手にあるJFE(元日本鋼管)に勤めている社員が時間調整に寄るのに最高の立地条件です。駅ホームのアナウンスを聞いてから階段を上がって間に合います。

夜には労働者の社交場になる「後藤」。立ち飲み屋さんですが、侮るなかれ、仕入れは南部市場というこだわりようで、いつも新鮮なお刺身をはじめ美味しい肴が安価で出されます。テレビもあるので、相撲やナイターの時期はいつも満員御礼。まさに庶民の味方なんです。

川崎新町駅に到着。この駅は上下線のホームが分かれていて、間の線路に貨物列車が通っています。



川崎新町駅です。いかにもプレハブっぽいのですが、他の駅と違い、駅員さんがいます。この駅の1日当たりの乗客数は、昨年度は平均1460人でした。少ない時は、平均1000人を切ることもありました。多くは、近くにある県立川崎高校の生徒参加もしれません。



本殿の扁額です。

境内にあった一本の白梅が満開を迎えていました。







この新田神社は延元3年(1338年)7月2日新田義貞公が越前国藤島(現在の福井市)で討ち死にすると、その重臣の一人、亘 新左衛門尉早勝が義貞公の遺品である差添の名剣・七ツ入子の明鏡・陣羽織を持って帰郷し、ひたすら冥福を祈って供養していたところ、里人らも公の徳を追慕し、その三種の形見を埋納し、廟を営んで主君新田義貞公を新田大明神として崇めまつったと謂われています。

稲荷大明神。石像の稲荷宮は、飢饉が続いた江戸時代末期、当時農村地帯であった渡田村の村民が五穀豊穣を祈願して勧請したようです。

神明社。江戸時代には、伊勢信仰が盛んで渡田村にも伊勢講があって、例年村民数名が代表して「お伊勢参り」をするならわしがあったようです。

姥ケ森弁財天。昔、鋼管通三丁目(今、私が住んでいる隣の町名)に、姥ケ森あるいは、森山と呼ばれて鎮座していましたが、明治政府の合祀令により、新田神社に遷されたそうです。

亘新左衛門尉早勝の墓。新田義貞公の家臣の亘新左衛門尉早勝が領地であった渡田村で永和3年(1377年)に没した後、里人が建立したとされています。

御祭神新田義貞公像。慶寺丹長4代目の作。主作品に掃部山公園に建つ井伊直弼像などがあります。

血圧が高いものですから、止められていますが、ついつい通ってしまう「元祖 ニュータンタンメン本舗」は超人気店。この日も待つこと30分。

タンタンメン(辛さは普通)にコーン、バターを入れて。この上に、辛いランクが3段階あります。最も辛いものは、ほとんどスープが赤くなっています。ダメなんです、辛いのは。多分、このお店は、川崎が発祥で、支店が鶴見とか、大田区にある程度では。何しろ、ハマります。

ほとんど、地元ネタでした。次は、南武支線の新駅「小田栄駅」です。
JR南武支線の八丁畷駅に到着しました!

八丁畷駅は南武支線の高架駅と京急線の地上駅が交差して乗り入れているんですが、中間改札はなく、その代わりに簡易ICカード改札機が設置されています。「降りたらタッチ!」京急線に乗り換える場合には、suicaをかざしてから乗り換えます。

京急線のホームの駅名標です。京急線の鶴見市場駅と京急川崎駅の間にあり、「普通」のみとまります。

八丁畷駅の改札を出ると大きな踏切があります。この通りは、旧東海道です。

駅のすぐ裏手に浅葱色とピンク色の「なわて横丁」という看板が目につきます。駅前飲食店街のようですが、昼間だからでしょうか、シャッター横丁になっていました。昭和を感じさせる横丁は大切にしたいものですね。

駅の裏手に無縁塚の慰霊塔があります。最近整備されたようです。

「八丁畷の由来と無縁塚」の案内板が新しく設置されていました。それによると、
東海道の川崎宿から神奈川宿に向かう街道が8丁(870m)にわたり、田畑の中をまっすぐにこの辺りまで伸びていたことから八丁畷と呼ぶようになった、ということです。

この辺りは、江戸時代から多くの人骨が発見されているそうです。江戸時代に震災や大火、飢饉に襲われ、多くの人が命を落とし、川崎宿のはずれの松並木の下にまとめて埋葬していたのではないかと思われます。その供養のため、地元の人達と川崎市でこの場所に慰霊塔を建て、無縁塚と呼ぶようになり、地元の方によって供養が続けれらています。

線路伝いに川崎方面に少し歩くと、やはり地元の人に手入れをされている花壇と史跡が見えてきます。芭蕉の句碑です。

松尾芭蕉は、元禄7年(1694年)5月、江戸深川をたち、郷里の伊賀への帰途、川崎宿に立ち寄り、門弟たちとの惜別の思いを俳句にしています。
芭蕉は、同じ年の10月に、旅の途中の大阪で生涯を閉じることになります。粟津の義仲寺に葬られています。私も東海道の街道歩きの途中で立ち寄りました。お寺には、芭蕉の杖も展示してあります。

句碑「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」
句碑の手前には、麦畑があります。

その手前の祠には、お地蔵さんがいます。交通安全を祈願されているのでしょう。

線路伝いの旧東海道を川崎方面にもう少し歩くと、当時の川崎宿の面影を感じさせるモニュメントが見えてきます。

さらに歩いて行くと、大きな木製の表札「川崎小学校」と赤い可愛らしいポストが見えてきます。ここは、川崎小学校の校門です。

案内板が建てられています。川崎小学校の卒業生のお二人を紹介しています。
一人は、歌手の坂本九さんです。もう一人は、作詞家の佐藤惣之助さんです。

さらに少し歩くと、焼肉「つるや」があります。このお店はジンギスカンも定番メニューで美味しいのです。夕方になるとお店のシャッターが開きますが、長蛇の列ができています。なぜかというと、人気漫画を原作にしたテレビ番組「孤独のグルメ」に登場したからなんです。

店内は昔ながらの懐かしい感じで、美味しい焼肉が召し上がれます。(お写真は借り物です) 少し、焼き過ぎのようですけど。

孤独のグルメの主人公の井之頭五郎。テーマは「八丁畷の一人焼肉」です。確かに、一人焼肉ができるお店は少ないかもしれませんね。(写真はお借りしています)

この辺で、八丁畷駅周辺のご案内は終わりまして、そろそろ川崎新町駅に向かうことにします。
この駅の看板(駅名標)のサビ具合が、都会のローカル線の雰囲気を醸し出していますね。

八丁畷駅周辺の地図はこちらです。https://goo.gl/maps/sxieGiVLHz22
JR南武線は、川崎駅から東京都の立川駅を結ぶJR東日本の幹線で、その距離は35.5㎞。
南武線には、川崎駅の次の尻手駅から浜川崎駅を結ぶ支線を南武支線(通称 浜川崎支線)があります。昭和5年から運行し、駅は4駅(八丁畷駅・川崎新町駅・小田栄駅・浜川崎駅)で、距離は4.1㎞。平均して40分に1本の割合で運行されています。車両は205系、2両編成のワンマンカーです。川崎新町駅以外は、無人駅。
まさに都会の中のローカル線です。



駅舎を挟んで両側には、飲屋横丁が軒を連ねています。
京浜工業地帯の工場が活気を帯びていた頃、乗換え駅だった尻手駅のまわりには、三交代制の工員達の姿があったことでしょう。

夕日が沈むころになると、ネオンの灯が今でも当時の名残を感じさせます。
私も乗換えの時間調整と言っては「チョットと一杯」立ち寄ることがあります。


このお店は、酒屋さんの立ち飲みなので、生ビールはこの値段。
人気の理由は安い上に焼き魚やサラダなどご主人が手を掛けたおつまみが充実していること。TVでも紹介されるお店なんです。





さすがに多くの人で賑わっています。
活きのいい魚介類が並べられています。値段もお手頃です。




正門の近くに食堂があります。
市場の食堂とあって、新鮮なネタが売りのようですね。安くて、美味いと評判です。





近くに「都町」という大きな交差点があります。ここは、戦時中、空襲により多くの方が犠牲になったと伝えられています。前方は東京方面です。
右奥に見える公園に行ってみることにします。

