前回までのJR南武支線の旅に引き続き、都会のローカル線、JR鶴見線の旅をご案内いたします。起点となる駅は鶴見駅で、本線は扇町駅までの7キロです。その間に支線が2本あります。1本は、浅野駅から海芝浦までの1.7キロ。そして、武蔵白石駅から大川駅までの1キロです。

JR鶴見駅の鶴見線ホームです。手前に突き出て見えるのが車止めです。車両は205系1100番台の3両編成です。国鉄の鶴見線としての開業は、昭和18年7月でした。これは戦時体制強化を名目として、鶴見臨港鉄道から買収したものでした。前身の鶴見臨港鉄道は、大正13
年(1924年)7月に設立されており、最初の区間は浜川崎駅から弁天橋駅間でした。当初は、貨物輸送を目的につくられましたが、後に埋立地につくられた工場の労働者を輸送する路線として併用されていきます。鶴見臨港鉄道が高架の鶴見駅舎を完成させたのは、昭和9年12月のことでした。これにより、乗り換えの不便がようやく解消されました。下の写真の駅舎も当時のままの姿を残しています。

朝のラッシュの時間帯以外は、4番線ホームは使われません。3番ホームから4番線ホームに回り込むと、壁面に鶴見線80周年を記念してつくられた鶴見線の歴史パネルを見ることができます。写真にあるチョコレート色のクモハ12形が懐かしい。

4番線ホームには、もう一つ注目すべきものがあります。それは、この時計です。時計自体は、駅ホームに普通にあるものと変わらないのですが、下の鋼板のプレートに刻まれている文字を追うとわかります。

プレートには、「贈 皆さんお元気で 朝鮮民主主義人民共和国 鶴見地区帰還者一同」とあります。
戦前、戦中と朝鮮半島から多くの朝鮮人(当時は国は分断されていません)が日本に渡って来ていました。中には、強制連行されてきた人もいたと言われています。当時、鶴見や川崎にあった日本鋼管などの軍需工場には多くの朝鮮人が徴用されていて、その家族はこの鶴見地区にも多く住んでいました。敗戦を迎え、日本国籍を失った朝鮮人は生活苦を強いられ、日本国の後押しもあって、当時「地上の楽園」と宣伝されていた北朝鮮に帰国していきました。帰国に際して、それまで生活を共にしてきた同胞や日本人に対するお礼の気持ちから贈られたのが、この時計です。今から58年前のことです。

鶴見駅には、鶴見線の他に、京浜東北線が乗り入れています。いずれもJR東日本の路線なのですが、どういうわけか、鶴見線の出口に中間改札口と出口精算機があるのです。
その理由は、鶴見駅以外の鶴見線の駅が無人駅になっているからなんです。

鶴見駅西口を出て、高架になっている鶴見線沿いを歩いていきます。高架下は、店舗が入っています。

5分ほど歩くと、曹洞宗大本山總持寺が見えてきます。その隣には、鶴見大学があります。

行った時は、節分前だったので、「節分会」のポスターが貼ってありました。

豆まきを行う方の名札が建てられていました。ここ總持寺には石原裕次郎さんの墓地があることから、毎年豆まきには、舘ひろしさんや神田正輝さんら石原軍団の面々が顔を揃えます。大和田伸也さんや五大路子さんの名前も見えます。

總持寺の総門の「三松関(さんしょうかん)」。扁額は「三樹松関(さんじゅしょうかん)」。国の登録文化財です。

三門は昭和44年に建てられたものです。鉄筋コンクリート造りでは日本一の大きさということです。

金鶏門(きんけいもん)と百間廊下(ひゃっけんろうか)。大正4年頃の建造物で、国の登録文化財に指定されています。

玉兎門(ぎょくともん)。

百間廊下(ひゃっけんろうか)。長さ164メートルあります。毎日、僧侶たちにより雑巾掛けで磨きこまれているので、見惚れるほど美しい板張りの廊下となっています。

仏殿。七堂伽藍の中心部に配置されている殿堂で、「大雄宝殿(だいゆうほうでん)とも呼ばれています。大正4年の建造物で、国の登録文化財に指定されています。

大祖堂(だいそどう)。一般的に言われる開山堂と法堂を兼ねた本堂客殿です。諸種法要修行の場とされています。

香積台(こうしゃくだい)。大正9年に建造された切妻造りの大規模な2階建。中に入ると、事務所や総受付があります。また、売店や休憩所もありました。国の登録文化財に指定されています。

百間廊下の窓ガラスに映る香積台の瓦屋根。

總持寺の門前に京浜東北線や東海道線を跨ぐ歩道橋があります。ちょうど、鶴見線の高架と同じ高さです。私が歩道橋の真ん中に差し掛かった時、鶴見駅を出発した鶴見線の電車が走り抜けました。修行僧の姿も絵になります。

ちょうど、真下に京浜東北線の電車が来るところです。広大な線路があることがわかります。

続く















































