前回ご紹介した「南禅寺」から三条方面に歩き、神宮通を通って「知恩院三門」、「円山公園」を抜け、特別公開の「高台寺」に行きました。
京都では、冬のこの時期に「京の冬の旅」と名付けて、普段は非公開とされている文化財の公開を行なっています。今年のテーマは150年前に日本の歴史を動かした「大政奉還」です。幕末ゆかりの寺院が選ばれていて、この「高台寺」もその特別公開の寺院となっています。ねね(北政所)の道から台所坂の石段を上がり、台所門から高台寺に入ります。
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高台寺は、1606年(慶長11年)、豊臣秀吉の菩提を弔うためにねねが建てたお寺で、ねねが死去するまでの19年間をここで過ごしたと言われています。また、江戸時代末期には、新撰組から離脱した御陵衛士の屯所隣、幕末の歴史にも関わりのあるお寺でもあります。
最初に庫裏(くり)の前に出ます。
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その場所からは大雲院の塔が見えます。
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庭園と観月台(廊下中央)。桃山時代に造られた「観月台(かんげつだい)」は、書院と開山堂を結ぶ屋根付きの廊の途中にある小規模の建物です。国の重要文化財に指定されています。
ここから、ねねは亡き秀吉を偲びながら月を眺めていたと言われています。
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開山堂は、桃山時代建築の重要文化財建造物です。秀吉が使用した船の天井とねねが使っていた御所車の遺材を用いたと言われる天井には、金地に極彩色の四季の草木が描かれています。
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今回、5年ぶりに特別公開された「臥龍廊(がりゅうろう)」です。屋根は龍の鱗、内側は龍のお腹のような形状から名付けられた開山堂と霊屋(おたまや)を結ぶ渡り廊下です。
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ねねさんも歩かれた特別公開の臥龍廊をしっかりと噛み締めながら歩きます。
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霊屋(おたまや)も今回、特別公開されたところです。秀吉の菩提を弔う廟であり、ねねが眠る墓所。
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方丈(ほうじょう)は、1912年(大正元年)に再建された建物です。創建当初の方丈は、文禄の役後に伏見城にあった建物を移築したものでした。
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方丈からは庭園を眺めることができます。
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絵になりますね。すかさず撮らせていただきました。
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方丈から庭園の「波心庭(はしんてい)」を見ることができます。
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白い砂で描かれた波心庭(はしんてい)
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今回、特別公開された展望台から夕焼けに染まる八坂の塔(法観寺)を眺めました。
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前回ご紹介した禅林寺の隣に位置する南禅寺は、臨済宗南禅寺派の本山です。
室町時代には、臨済宗の格付けする「京都五山」「鎌倉五山」の上に置かれ、別格の扱いを受ける最も高い格式を持つお寺として栄えてきました。
しかし、応仁の乱で創建当時の伽藍は焼失し、現在のほとんどの伽藍は桃山時代に再建されたものです。南禅寺はまた、パワースポットとしても知られています。
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荘厳な構えをした三門は、高さ22メートル。知恩院三門、東本願寺御影堂門とともに京都三大門の一つです。
藤堂高虎が大阪夏の陣で戦死した武士たちの冥福を祈るために寄進したものです。
歌舞伎「楼門五三桐(さんもんごさんのきり)」の中で石川五右衛門の名セリフの「絶景かな、絶景かな・・・」で有名です。
三門の楼閣から京都の絶景を見ることができます。
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三門からパチリ
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法堂です
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南禅寺の境内に美しいアーチを描く煉瓦造りの橋があります。「水路閣」です。
これは、琵琶湖の水を京都市内へ運ぶための水路橋です。南禅寺境内を通過させるために古代ローマの水道橋を手本に明治21年に作られました。
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ここは、サスペンスドラマで犯人が告白するシーンでよく使われる場所で、京都を代表する景色の一つです。
前回ご紹介した「哲学の道」に沿って流れる琵琶湖疎水は、この「水路閣」を通って注がれています。
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南禅寺から蹴上駅に向かう途中で撮った写真です。
この線路は、琵琶湖疏水の大津から宇治川に至る20.2キロの舟運ルートの途中、水路落差のある2カ所に敷設した「傾斜鉄道」型のインクラインなんです。
この蹴上インクラインは延長581.8メートルで世界最長。明治23年に完成し、昭和35年に稼働を停止しています。
この写真の線路の先に台車に乗った小船が保存されています。アップにしてご覧ください。
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このように保存されています。(お借りしました)
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傾斜した線路を下り切るとこうした水路に着きます。(お借りしました)
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このインクラインの仕組みは、プラタモリの京都編でも紹介されているので、ご覧になった方も多いのでは。このインクラインで運ばれた琵琶湖疎水は、南禅寺の「水路閣」を通り、「哲学の道」沿いを流れ、京都市内に運ばれて行くのでした。
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銀閣寺から哲学の道を歩き、南禅寺に向かいます。約2キロのこの哲学の道ぞいには、見所がいくつかあります。今回は、狛ねずみで有名な大豊神社と永観堂の名で知られる禅林寺をお詣りしました。
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哲学の道の途中にある「おうとよばし」を渡って登っていった所に大豊神社があります。
枝垂れ紅梅や椿、紫陽花など、四季折々で見どころがありますが、特に椿の名所として知られています。
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大豊神社は平安時代初期に宇多天皇の病気平癒を願って藤原淑子が創建したと伝えられています。創建された頃は背後の椿ヶ峰という山の中にあって椿峰山天神(ちんぽうざんてんじん)と呼ばれていましたが、寛仁年間に今の所へ移されたと伝えられています。椿ヶ峯といわれるだけあって今も椿がきれいです。
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ここで祀られているのは大国主命(オオクニヌシノミコト)ですが、ねずみも古事記に出てくる有名なねずみさんです。大国主命が素戔嗚尊(スサノオノミコト)の所へ行った際、大国主命が試練を受ける場面がいくつかあります。
その中の一つで、スサノオが野原の中に矢を打ち込み、オオクニヌシはその矢を取ってくるように言われました。取りにに向かったところ、スサノオは野原に火をつけて焼いたのですが、そこで困っていたオオクニヌシを助けたのがこのねずみさんです。
地面に穴を掘って助けて窮地を救ってくれたんです。
オオクニヌシはそのおかげで無事矢を持ち帰ることが出来たと伝えられています。
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哲学の道に沿って流れているのは、川ではなく琵琶湖疎水という用水路なんですね。知りませんでした。この琵琶湖疏水については、次回の南禅寺の記事で触れたいと思います。
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哲学の道の南端、若王子神社に差し掛かったところで「新島襄・八重、徳富蘇峰の墓」の案内板を見ました。以前、徳富蘇峰の「蘇峰公園・山王草堂記念館」に行き、記事にしていたので、不思議に感じたのですが、蘇峰の墓地は多磨霊園の他に、この京都若王子と熊本の実家、そして御殿場に分骨されていることを改めて知りました。墓地は山頂にあって、イノシシがよく出るということでしたので今回は断念しました。
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モミジの永観堂として有名な禅林寺は、平安時代の初期に弘法大師の弟子真紹僧都によって創建されました。最初は真言密教の寺院でしたが、その後、浄土宗の寺院となりました。
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中庭を囲む回廊で諸堂が結ばれています。
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修行僧の方々が諸堂をお詣りしている光景です。
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山の中腹にあり、境内の最も高いところにある多宝塔とその前に広がる放生池はさぞかし紅葉の時は美しいのでしょうね。
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阪急電車西院駅近くにあるリノホテル京都をチェックアウトして、バスで北野天満宮に向かいます。
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北野天満宮は、梅と紅葉で有名な神社で、菅原道真公をお祀りした神社の総祀(総本社)です。「天神さん」「北野さん」とも呼ばれ親しまれています。
ちょうど、梅苑公開が行われていましたが、3分咲きというところでした。
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この門は、三光門と呼ばれている本殿前の中門です。国の重要文化財に指定されています。
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ご祭神菅原道真公をお祀りする本殿と拝殿、石の間、楽の間を連結した日本最古の八棟造(権現造)です。現在の建物は、慶長12年(1607年)に造営されたものです。国宝です。
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本殿裏の白梅が見頃を迎えていました。
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秀吉は、戦乱により不分明となっていた洛中(京都)の境を、御土居(土塁)の築造により新たに定めようとしたという伝えがあり、御土居の内部を洛中、外部を洛外と呼ぶこととしたとされています。
北野天満宮内にもその遺構(史跡)が残されていて、石碑が建てられています。
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北野天満宮の東門を出ると、今にも舞妓さんが現れるような一角があります。この辺りは、上七軒(かみひちけん)と呼ばれているところで、室町時代から続く京都最古の花街なのだそうです。毎年、春に上七軒歌舞練場で「北野をどり」が上演されているそうで、現在でも、お茶屋10軒、芸妓、舞妓合わせて31名いらっしゃいます。
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北野天満宮の東門に再び戻り、金閣寺方向に御前通を歩いて行くと、「平野皇大神」があります。桜の名所として知られていて、神社の歴史は古く、京都に都が移されたのと同時に出来た神社です。
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いかにも格式の高そうな本殿は国の重要文化財に指定されています。
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平野皇大神から10分ほど住宅街を歩くと金閣寺に到着します。
金閣寺は、正式名称は鹿苑寺といい、銀閣寺と同様に相国寺の塔頭寺院の一つです。
元は、鎌倉時代の公卿、西園寺公経の別荘を室町幕府三代将軍の足利義光が譲り受け、山荘北山殿を造ったのが始まりとされています。義光の死後、遺言により、お寺となり、義光の法号鹿苑院殿から二文字とって鹿苑寺と名付けられました。
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金閣寺を後にして、「きぬかけの路」をしばらく歩くと、閑静な住宅街の中で「立命館大学国際平和ミュージアム」という看板が目に入りました。休憩を兼ねて入って見ると、
こんな説明書きがありました。(正確な記述ではありませんが)
「アメリカは、当初、日本の原爆投下の目標を京都にしていて、その目標地点は、梅小路、現在の京都鉄道博物館のあるところとしていた」ということでした。知りませんでした・・・。
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金閣寺から、バスで銀閣寺に向かいます。
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銀閣寺見学の後、銀閣寺周辺で最も古そうな定食屋さんでカツカレーを食べ、深く物思いに耽りながら「哲学の道」を歩きました・・・。イメージ 17
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京都二日目もどんよりした天気。西本願寺から七条大橋を通り、京都国立博物館、三十三間堂まで巡りました。
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西本願寺は、正式には龍谷山本願寺といいます。浄土真宗本願寺派の本山で、世界遺産に認定されていて、華麗な桃山建築を見ることができます。西本願寺というと、幕末に新撰組の屯所となっていた場所ですね。
この建物は、御影堂です。
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御影堂から阿弥陀堂を撮りました。
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御影堂門
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西本願寺から東本願寺まで歩きました。ほとんど隣接しています。東本願寺は正しくは真宗本廟で、浄土真宗大谷派の本山です。
この門は御影堂門です。
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この建物は御影堂です。
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高廊下から御影堂を撮りました。
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七条大橋を渡ります。
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京都国立博物館を見学しました。この建物は、明治古都館といいます。明治28年に竣工されました。特別展覧会の折に使用されています。
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こちらは、平成知新館です。設計は、ニューヨーク近代美術館や東京国立博物館などを手がけた世界的建築家の谷口吉生です。
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平成知新館の玄関口に半透明の案内板があります。それによると発掘調査の際に、かつての方広寺の石垣の遺構が発見された場所と記されていました。
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京都国立博物館の見学の後、道路を隔てて正面にある蓮華王院三十三間堂に参りました。三十三間堂は久寿2年(1155年)、後白河天皇が院政を行なっていた御所に建てられたものです。
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三十三間堂には、国宝の千手観音坐像と重文の千体の千手観音立像があります。これらは、鎌倉期に再建した折に大仏師湛慶(たんけい)とその弟子により完成されたもので、まさに圧巻でした。
また、千体千手観音像の前に安置された観音二十八部衆と風神・雷神はとても迫力がありました。これらは、以前、歴博で見たことがあったように記憶していますが現地で見たのは初めてです。
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後白河天皇や平清盛の栄華にあやかろうと豊臣秀吉は、権勢を天下に誇示するため三十三間堂を取り囲む土塀(太閤塀)と南大門をつくります。その遺構は、重要文化財に指定されています。
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重要文化財の南大門の下は一般の生活道路になっていて、車がひっきりなしに通っていました。壊したら大変なことになるのでは。
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三十三間堂の向かいにある法住寺は、平安時代中期に藤原為光によって創設され、後白河上皇の時代には宮廷が営まれていました。後白河上皇が崩御すると、後白河上皇の御陵を守る寺として江戸末期まで存続していたそうです。明治期に入り、御陵と寺が分離され今日に至っています。
このお寺は、サザエさんの作者、長谷川町子さんの菩提寺(分骨)ともなっているそうです。
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法住寺の隣に位置する養源院は、文禄3年(1594年)に豊臣秀吉の側室の淀君が父の浅井長政らの二十一回忌の供養のために秀吉に願って創建したものです。
元和2年(1616年)徳川二代将軍秀忠の正室の崇源院(江・淀殿妹)によって、開祖である淀殿と豊臣秀頼の菩提が弔われました。
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本堂は、元和5年(1619年)に破却された秀吉の伏見城の殿舎を移築したものとされ、左右と正面の廊下の天井は血天井として知られています。
血天井の謂れとしては、関ヶ原の戦いの前哨戦とも言われる伏見城の戦いで鳥居元忠以下1000人余りが城を死守し、最後に自刃した廊下の板の間を供養のために天井としたもので、今も生々しい血の痕があちこちに残っています。
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