「国道駅」を下車して、生麦魚河岸通り沿いを歩きながら、寺社や史跡を訪ねました。
まず最初に伺った場所は、「浄土宗 慶岸寺」です。
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慶岸寺の開山「慶岸上人」は、天正9年(本能寺の変の前年)示寂。堂内には阿弥陀三尊、善導・法然両大師、開山像等が祀られています。昭和204月の空襲で灰燼に帰し、昭和3540年本堂庫裏を再建しています。
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山門脇の「子育地蔵尊」(宝永6年安置)は往時より安産と赤子・幼児の息災を念じ香煙が絶えないといわれています。
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次にお寄りしたのは、真言宗の南海山璃璃光院正泉寺(本尊は薬師璃璃光如来)です。鶴見七福神の恵比寿神で知られています。
ここの恵比寿さんは、大鯛を担ぎ船型台座に祀られています。地元生麦漁師が江戸城に新鮮な魚介を納めていたという心意気を伝えるとあります。
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正泉寺は、正教寺神奈川金蔵院の末寺で、玉川八十八ヶ所霊場の第八番札所でもあります。
境内には、浦名主十左衛門の墓、御心中様の供養碑、亀の供養墓があり、漁村の寺であったことがわかります。また力士の姿をした墓石があり、波響と刻まれています。
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道念稲荷神社です。道念稲荷神社の創建年代は不詳ですが、新編武蔵風土記稿に記載のあることから江戸時代末期には創建されていたことがわかります。道念稲荷神社の蛇も蚊も行事は横浜市指定民俗文化財となっています。
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鶴見区生麦にある本宮地区と原地区で6月3日(日)、横浜市の無形民俗文化財に指定されている「蛇(じゃ)も蚊(か)も」祭りが行われます。
このお祭りは江戸時代から約400年間続く伝統行事で、氏子たちが長さ約20メートルのカヤでできた「大蛇」を担ぎ、町内をねぶり歩くというものです。
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生麦神明社です。生麦神明社の創建年代は不詳ですが、新編武蔵風土記稿に記載のあることから江戸時代末期には創建されていたことがわかります。
生麦神明社の蛇も蚊も行事は横浜市指定民俗文化財となっています。
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生麦神明社の境内は児童公園のように開放されています。そこには、「蛇(じゃ)も蚊(か)も」に因んで、砂場の周りに大蛇の遊具が置かれていました。
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生麦事件とは、1862年9月14日(文久2年8月21日),神奈川近郊の生麦村(現,横浜市鶴見区)で薩摩藩士たちが外国人を殺傷した事件です。この日,外国人遊歩許可区域内にある川崎大師の見物に出かけていた騎馬のイギリス人4人が,公武合体と攘夷を幕府にもとめる勅使大原重徳に随行し帰洛途中の島津久光の一行と生麦村で出くわしました。大名行列の意味もわからずせまい道路で進退きわまっている彼らに,行列に無礼を働いたとして供頭の奈良原喜左衛門が突然斬りつけ,つづいて多数で襲撃した事件です。
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生麦4丁目(当時は生麦村)にある事件発生現場の説明標識板は、現在は民家の外塀に掛かっています。

当時、ここに住んでいた豆腐屋・村田屋勘左衛門は事件を目の当たりにしたと伝わっています。重傷を負ったリチャードソンを乗せた馬は東海道を西に走っていきます。イメージ 15

そして、リチャードソンが絶滅した場所に「生麦事件の碑」が建てられています。
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前に、作家の吉村昭さんの小説「生麦事件」をもとにして、プログを書いてみましたのでご参考までに覗いてみてください。
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「生麦事件の碑」の前に「キリンビール工場横浜工場」があります。工場見学の後に、出来立ての生ビールの試飲ができるとあって
、人気の場所になっています。
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318日に開通する横浜環状北線は、今回、横羽線および大黒線の生麦ジャンクション(JCT)から、新設される横浜港北JCTまでの延長約8.2kmが開通し、第三京浜道路に接続します。
トンネル部分が多いことからでしょうか、出かけた日にちょうど開通記念イベントとして「トンネルウォーク」が行われていました。
これにより、新横浜から横浜港や羽田空港までのアクセスが向上し、新横浜から羽田空港までの所要時間が現在の約40分から約30分へ10分短縮されるそうです。でも、日差しがなくなり、生麦事件を偲ぶ場所としては、折角の景観が損なわれてしまったように感じました。
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「国道駅」を下車して、散策したマップはこちらです
つぎは、JR鶴見線「鶴見小野駅」です。
久しぶりになりましたが、JR鶴見線の旅を再開することにします。
前回は、鶴見線の起点となる「鶴見駅」をご紹介しました。今回ご紹介するのは「国道駅」です。
「国道駅」の駅名の由来は、国道15号線(開設当時は「国道1号線」)と交差している場所にあるところから名付けられています。
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国道駅は、昭和5年に鶴見臨港鉄道として開業しました。
開設当時から、全く改築を行っていないため、開設された昭和初期当時の独特の匂いを漂わせています。
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今では貴重となる昭和20年5月29日の横浜大空襲の痕も消されずに残されています。
駅の柱部分の網のところに機銃掃射の弾痕の痕が見られます。
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横浜大空襲では、B29爆撃機517機から35万発、2570トンの焼夷弾が落とされました。これは、東京大空襲の1.5倍の数に及びます。
そして、猛火から逃げ惑う人々に対しては、P51戦闘機ムスタング101機が無差別に機関銃で襲いかかりました。
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駅舎の中に入ると、左側に改札口があります。
国道駅も無人駅なので、ICカードのみとなっています。夕方ともなると、居酒屋の赤提灯が灯ります。
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エレガントさはありませんが、どこかアールヌーボー風な曲線が美しい駅舎。もう少し手入れが施されると見違えるようになると思うのですが。
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ホームは高架となっています。蛍光灯に照らされる階段空間と剥き出しの配線類が渋いです。
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大きくカーブを描いた線路と、アーチ状の鉄骨が近代建築の美しさを醸し出しています。左側には鶴見川が見えます。右側下は生麦魚河岸通りです。
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この生麦魚河岸通りは、江戸時代は東海道でした。あの生麦事件が起きた場所でもあります。
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国道駅界隈には、魚河岸ともあって、鮮魚を扱う食事処が軒を連ねています。この「味童天金」は天麩羅で有名なお店です。
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店構えから高級感が漂っていて、少し入りにくい感じがしますが、お品書きが店前に立てられていて、安心です。
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生麦魚河岸通りは、朝5時から10時位まで開いています。
特に安くて新鮮な貝類が全国から集まってくるとあって、貝好きにはたまりません。
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国道駅の横を流れる鶴見川。全国からこの河岸に新鮮な魚介類が運ばれてきます。前方に見える赤い鉄橋は鶴見線です。
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鶴見川には、意外にもこんなに綺麗な白い砂浜が広がっているんです。
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処理された貝殻が引き詰められています。
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この貝殻の河川敷は今、しっかりと護岸され保護されていました。
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続く
3月に起きた事件を元に、記事にしたいと思います。訪れた場所は世田谷区にある松蔭神社と豪徳寺です。
安政元年(1854年)3月27日、吉田松陰は、伊豆下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗して、江戸小伝馬町の牢に捕らえられます。その後、萩に送られ、野山獄に入れられ、翌年に釈放されると実家で謹慎生活を送り、やがて松蔭は松下村塾を主宰するようになります。この事件に関連した伊豆下田の記事はこちらです。
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安政5年、井伊直弼が大老となり、その年の6月に日米通商条約に調印します。そして、それに反対する者達を投獄し、罰していきました。安政の大獄です。吉田松陰も幕府の政策を脅かすものとされ、松下村塾は閉塾され、再び投獄させられます。そして、安政6年(1859年)10月27日伝馬町獄舎で斬首されます。享年30歳でした。
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刑死から4年後、松蔭の弟子の高杉晋作、伊藤博文等によって、世田谷区若林のこの地に改葬されました。この神社一帯は、長州毛利藩藩主の別邸があったところです。
明治15年11月に松蔭門下の人々により社が築かれます。神社は昭和5年につくられています。この石碑は、旧大山街道から松蔭神社に至る道の入口に建てられていた道標です。寄進は乃木希典です。
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この吉田松蔭のブロンズ像は、明治23年に大熊氏廣によって製作された石膏から鋳造されたものです。平成25年に完成。日本近代彫刻の先駆者、大熊氏廣の代表作には、靖国神社の「大村益次郎像」、東京国立博物館の「ライオン像」があります。
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この松下村塾は、山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模したものです。
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松蔭墓域の入口に建てられている鳥居は、木戸孝充より寄進されたものです。鳥居には「大政一新乃歳、木戸大江孝充」と刻まれています。
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吉田松陰先生他烈士墓所
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松陰神社の近くに、彦根藩主井伊家菩提寺の大谿山豪徳寺があります。
吉田松陰が処刑された翌年の安政7年(1860年)3月3日、江戸城桜田門外で水戸藩脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃し、大老井伊直弼を暗殺しました。桜田門外の変です。
この日は朝から雪が降っていたそうです。
桜田門外の変に関連した記事はこちらです
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豪徳寺の香炉の上に座る獅子
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豪徳寺は、招き猫の発祥の地と言われています。また、彦根城のゆるキャラ「ひこにゃん」のモデルにもなってます。
鷹狩りの帰りに通りかかった彦根藩主井伊直孝に寺の飼猫が手招きしたため直孝はここで一休みすることにしました。その間に雷雨となります。直孝は「ずぶ濡れにならずに済んだことから縁起がいい」と喜んだそうです。(写真はお借りしました)
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豪徳寺本殿
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井伊直弼墓所
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松陰神社と豪徳寺の場所はこちらです。
今日は、パワースポットで有名な箱根神社に来ました。天候には恵まれませんでしたが、瑞々しい杉の木立から、春の訪れが近づいていることを感じます。
この箱根神社は、平安朝初期に箱根路が開通した折に、往来の旅人の道中安全を祈ったことが謂れのようです。近世、官道として東海道が整備され、箱根宿や関所が設けられた後は、庶民信仰の聖地へと変貌していきました。
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ここは、芦ノ湖から平和の鳥居・石段を通る表参道です。山上の箱根本宮まで浄化力の高い龍道が続いています。この龍道上にある矢立杉や第4鳥居周辺の巨木は強力な浄化スポットだと教えていただきました。89段の石段は89(やく)落としになるそうです。

富士山の南側(富士宮・三島・熱海)が陽の働きに対して、箱根は陰の働きがあるそうです。着実に事業や物事を進める力をもたらす、パワースポットなのだそうです。
源頼朝や徳川家など、数々の武将たちが戦の前に勝利祈願に訪れていました。
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箱根神社のご祭神は、箱根大神(はこねのおおかみ)様をお祀りしています。箱根大神とは、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)、木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメ)、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)を指しています。創建から今年で1257年を迎えたそうです。
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龍神水は、不浄を洗い清める箱根山の霊水です。この霊水は「恋愛運」が良くなると若い女性たちに人気のようですよ。
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安産杉です。子宝・安産スポットです。大きな安産杉という杉の木です。木には、大きな穴が開いていて、まるで母胎のような形をしていることから、安産の神として崇められています。源頼朝も実際に安産祈願をしたと謂われています。
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晴れると、芦ノ湖に富士山と一緒に湖上に立つ「平和の鳥居」を見ることができます。
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おしまい
前回ご紹介した高台寺を後にして、京の坂道を歩き、夕焼けの建仁寺、雨の後の祇園、芸妓さんが歩く先斗町を巡りました。
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特別公開の建仁寺でしたが、拝観時間を過ぎていたため、見学はできませんでした。
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雨上がりの祇園花見小路にやってきました。レンタル着物で闊歩する女性たち
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夕方の四条大橋を渡ります
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今日も賑わう四条通り
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先斗町から見た四条大橋
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先斗町でやっと本物の芸妓さんに会えました
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この日歩いた場所をマップに。オレンジはバス・地下鉄を利用。
万歩計で26キロでした。
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