この写真は、昨日(3月24日午前11時30分頃・20㎝望遠鏡)撮った「内合の金星」です。スマホで撮りました。
内合とは、地球と太陽の間に金星がいて、一直線に並んでいる状態です。今、最も金星が地球に近づいている状態となっています。
反対に金星が太陽の外側に一直線に並んだ状態を外合といって、遠く離れた状態を言います。大気の状態が良ければ、昼間に綺麗な金星の満ち欠けを見ることができます。
ただし、望遠鏡の場合、太陽を見ないように気をつけましょう。
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番外編でした。
今回は、JR鶴見線「弁天橋駅」の周辺をご案内します。
この「弁天橋駅」の駅名の由来は、駅近くに漁師の守護神「弁天神」が祀られている池があり、その池に赤い橋がかかっていたことから名付けられたそうです。漁師町だった面影は今はありませんが、駅の裏に運河があるのはその名残かもしれませんね。
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改札口から撮った写真ですが、見てお分かりのように、ホームに行くには駅構内の踏切'(遮断機)を渡らなければなりません。遅刻しそうな時は焦るだろうな~。
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この駅も乗務員の詰所はあるものの、無人駅です。ただし、これまでの鶴見線の駅前と違って駅前には新しくできた駅前広場やコンビニ、飲食店まであるのです。
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駅前広場の前には、おしゃれなオフィスが見えます。
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それもそのはず、「弁天橋駅」前は、「JFEエンジニアリング鶴見事業所」の正門になっているので、社員やビジネスマンの姿が多く行き交っていました。
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このビルもJFE事業所のビルなのでしょうか、コンビニや飲食店が入っているようです。
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その隣には、昔から営業している「秩父屋食堂」があります。こちらの方が私は馴染めますね。
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少し駅から離れたところに青い案内標識が見えてきます。次回にゆっくりご案内することにして、今回は「末広ファクトリーパーク」の一角にある「東洋化成株式会社」をご紹介します。
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東洋化成株式会社は、日本で唯一のアナログレコードプレスメーカーで、各種レコードの製造、印刷を行なっている会社なんです。プレス業務を含めると、「日本最後」、「アジアで唯一」と言われるようになった近年では、製造過程を見学するツアーがしばしば催されるようになっているようです。
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現在、工場は改築中のようでした。3日ほど前の3月20日は「LPレコードの日」でした。ご存知でしたか。1951年のこの日、初めて日本製LPが日本コロンビアから発売されたことに由来しているそうです。ちなみに、レコードの日は11月3日だそうです。
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東洋化成株式会社のホームページはこちらです。
「弁天橋駅」「鶴見小野駅」からの道案内
前回ご案内した「おきなわ物産センター」の近くに東漸寺というお寺があります。
寺伝には、醍醐三宝院の勝覚法印が寛治元年(1087年)に開基したと伝えられています。しかし、古文書などを焼失したため沿革については不明となっていますが、江戸時代、当山は村の中央にあり、本堂・鐘楼堂・薬師堂・天満宮・地蔵堂・大門などがそびえていたそうです。
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本堂
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境内には「故大川常吉氏の石碑」があります。
関東大震災の時、朝鮮人暴動のデマが流れ、一般市民が大挙して朝鮮人を殺害するという事件が起きました。鶴見警察署長の大川常吉氏は身を挺して住民の暴挙を押さえ、多くの朝鮮人を救いました。それを記念してつくられたものです。
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しばらく歩くと、潮田神社(うしおだじんじゃ)が見えてきます。
潮田神社は、大正初期、京浜工業地帯の発展に伴い、耕地整理・区画整理による街づくりのため、西潮田村の御嶽社と東潮田村の杉山社を合併し、大正9年、潮田神社と改称して潮田地区の中心地点である現在地に鎮座されました。今も、潮田の総鎮守として地域から崇敬されている神社です。
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参道両側には大きく凛々しい狛犬があります。
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社殿は昭和59年に造営されました。
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拝殿の右手前に海翁石と名付けられた手水石が置かれています。
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拝殿横にある鳥居の右側の柱には、大正13年9月と書かれています。
そして、左側の柱には、「潮田牧場 小野玄三建立」と書かれています。
このことは、大正13年当時に潮田に牧場があり、その牧場主は、この辺の地主の小野玄三という方が奉納されたということなのでしょうか。少し気に掛かるので、ネットで調べたところ、感動的なエピソードがヒットしました。
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長文ですが、原文のまま掲載させてもらいます。

「数えの21で私を生んだ母は、行方しれぬ夫を探しに、千葉県・銚子から神奈川県・鶴見の潮田へ旅たった。一歳に満たない私をおぶってです。窮状を見かねた隣家の乳飲み子の母親が母乳を半分分けてくれた。その乳もやがて私に回ってこなくなった。
 ある朝、なぜかわが家の玄関に牛乳瓶が6本置いてあった。翌日も翌々日もそうだった。さすが気が引けた母は、早起きして配達の人に「払うお金がありませんから、配達しないでくださいな」と告げた。
牛乳屋の主人が夕方きて「赤ん坊はまだ乳がないと死んでしまうでしょ」「大きくなったら代金はいただきますから、遠慮なく飲ませてあげて」「足りなければ届けますから」。
母親は涙がでるほど嬉しくて「潮田牧場の主」とだけ確認する。娘はいじめにあい母娘は自殺を考えた。でも、悲運にめげず懸命に頑張った。
 読売「時代の証言者」。漫才・内海桂子さん(84)(社団・漫才協会初代会長)の一代記。乳飲み子のときのお話です。
89年(平成1)母娘は懸命に探し見つけた恩人の名は小野玄三さん。だが彼は37年(昭和12)すでに他界されていた。人生は深い悲しみと言えぬ苦労そしてど根性から晩成の芽がのぞく」
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鳥居を通り、本殿の裏側に回ると、庚申塔や地蔵尊が並べられた一角があります。
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潮田神社の隣には、夜間照明を備えた野球場がある広大な「潮田公園」があります。
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再び、JR鶴見線「鶴見小野駅」に戻ります。今回巡った場所はこちらです。
今回は、鶴見小野駅から「リトル沖縄」とか「沖縄ストリート」と呼ばれる地域を散策します。
リトル沖縄は、主に潮田という地区を中心に点在しています。中でも「仲通商店街」には飲食店が多く見られます。
鶴見小野駅から鶴見駅方面に歩き、本町通4丁目の交差点を右折すると潮田の「仲通商店街」に通じます。
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リトル沖縄といっても、横浜中華街のように雰囲気たっぷりな光景があるわけではありません。しかし、ここかしこに沖縄や南米のお店が点在しています。
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大きな交差点の角にある「レストランELBOSQUE(エルボスケ)」は、ラテン料理・沖縄料理のレストランです。中でもボリビア料理が美味しいです。平日の午前中に伺ったので、まだ開店前でした。
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お店の入口には、南米ボリビアの国旗が掲げられていました。
ボリビアの国旗にある赤色は独立戦争で流された尊い血を、黄色は豊かな鉱物資源を、緑は森林を表しています。中央の紋章は、ボリビア各州の特徴を示すポトシの丘やコンドル、ラマ、パンの木が絵柄となっています。
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さらに、仲通商店街を進むと、潮田マーケットがあります。まだ、開店前でしたが、マーケットの看板には、ブラジルの公用語ポルトガル語で何か書かれているようです。
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マーケットの斜向かいには、「ブラジルレストラン パライゾブラジル」があります。
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飲食店や食材の販売店がある「おきなわ物産センター」がこの辺りの中心になります。
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沖縄料理「おきなわ亭」で昼食にしました。
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店内に入ると、自動販売機があります。ソーキそばをはじめ、チャンプルなど定食が充実しています。
この写真は、注文した沖縄そばです。沖縄そばは三枚肉とかまぼこがのっていて、特に出汁がとても美味しいおそばでした。
店内では、三線の音楽が流れ、琉球新報や沖縄タイムスなどの新聞が置いてあり、思わず沖縄の国際通りにでも行ったかのような気分に浸ることができます。イメージ 8

おきなわ亭の隣には、喫茶店や食材店が隣接しています。
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「おきなわ物産センター」の2階には「鶴見沖縄県人会会館」があります。ここでは、沖縄の伝統芸能の継承のため「三線(さんしん)」や沖縄舞踊の練習が行われています。
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「おきなわ物産センター」に入ると、沖縄や南米料理に欠かせない食材が所狭しと置かれています。
この棚には、チャンプルなどの料理に欠かせないスパムやコンビーフハッシュなどが並んでいます。
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奥の棚には、泡盛や沖縄もずくなどが置かれています。
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沖縄限定の「オリオンビール」や「ミキ」という純米の珍しい飲み物が並んでいます。
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3月4日は何の日か分かりますか。三線(さんしん)の日とポスターに書かれていました。
川崎にも同じように沖縄県人会会館があって、その日は川崎の県人会会館で三線の演奏会があったそうです。
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本日のお土産は、ブタ君のインスタントラーメン(豚骨味と塩味)と飲む極上ライスの「ミキ」です。
「ミキ」はほんのり甘くて、とても美味しい飲み物でした。ジュースという感覚でもなく、これまで経験したことのない飲み物でした。
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なぜ、鶴見や川崎に「リトル沖縄」ができたのでしょう?
沖縄は、大正から昭和初期にかけて、砂糖相場の暴落や大恐慌の煽りなどの影響から経済的に大きなダメージを抱えていました。食料も尽きていたため、人々は止む無く有毒の自然のソテツを食料にして飢えを凌いでいた時期もありました。
一方、鶴見や川崎では埋立てラッシュで、新しい工場建設が行われていました。
こうした背景もあり沖縄の人たちは、この鶴見の地に移り住むようになりました。戦後、沖縄はアメリカに占領されたため、沖縄に戻るすべはなくなりました。この地で県人会をつくり沖縄の伝統を引き継ぐなかで、「リトル沖縄」は形成されていったようです。
また、同時期に沖縄から南米のブラジルやボリビアに移住して行った人たちは、1990年の入管法改正で日系人の在住が許可され、沖縄出身の日系人は身寄りのある鶴見に生活の場を求めたことで、南米の方が鶴見に多く住むようになったようです。
さらに散策は続きます。
前回の鶴見線「国道駅」から再び鶴見線に乗り、3駅目の「鶴見小野駅」に到着しました。鶴見小野駅は、昭和11年「鶴見臨港鉄道線」の「工業学校前停留場」として開業しましたが、昭和18年に国有化され、「鶴見小野駅」と改称されています。ホームの木造の屋根のあたりにも当時の面影が残されていますね。
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「鶴見小野駅」名の由来は、昭和18年、江戸時代からの大地主小野重行氏の埋立功労により命名されたことによります。ここも、無人駅です。
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鶴見小野駅前の商店街を進んで行くと鳥居が見えてきます。
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小野弁財天神社です。戦国時代の武将、甲斐武田一族の小野氏が武田滅亡後にこの地に移り住みます。しかし、鶴見川河口だったことから潮害が多い土地でした。小野氏は堤防の築造に掛かりますが、難工事のため幾度と失敗を繰り返します。そのためご加護を得るため奉鎮されたのが神社の起源とされています。
以来、潮害を被ることもなく、安全に家業に励むことができるようになったと言われています。
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境内には、お稲荷様と手洗い鉢があります。
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手洗い鉢はブリキの板で塞がれ、重石が置かれていました。そこには天保11年(1840年)に奉納されたと記されています。
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横には、文字が刻まれています。
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謂れは次のように記されていました。
「昔、この地が鶴見川の河口付近の浅瀬であった頃、防潮堤の松林の中に、弁財天とお稲荷様が祀られていました。ある日、積荷を満載にした船が満潮時にあわせ河口に着いたが、折しもみぞれ混じりの風雨の中、闇夜と重なり一寸先も見えず、水路を見失い難渋していたところ、不思議や誰も灯を付けたものがいないのに、一条の光が水面を照らし、船は無事に船着場に入ることができました。
これは、「御生成り」様の霊験であると大いに喜び、感謝の誠心を捧げると共に、お礼にこの手洗い鉢を奉納されたものであると伝えられる」と書かれています。
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境内には、小野重行氏の石碑が建てられています。小野重行氏は、大正11年に町内有志の協力を得て、この地に社殿を建立し、これを奉納し、社名を「小野弁財天神社」と称え奉りました。
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小野弁財天神社の社殿
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サトウマコト著「鶴見線物語」(出版は「230クラブ」)には、鶴見線沿線の歴史がよく書かれています。この本は少し前に出されたものですが、興味のある方は、一度読んでみてください。
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裏表紙
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「鶴見小野駅」の場所はここです。
「鶴見小野駅」の近くに「リトル沖縄」と言われている場所があります。次回はその辺りにスポットを当ててご紹介します。続く