今回は、「武蔵白石駅」から「大川駅」に向かいます。
「武蔵白石駅」の駅名の由来ですが、日本鋼管(現JFEホールディングス)の創業者の白石元治郎からきています。すでに、「白石駅」という駅名は当時、東北本線にあったので、「武蔵」の冠を付けたのだそうです。
ちなみに、JFEの社名ですが、聞くところによりますと、日本のJ(Japan)、鋼管(鉄の元素記号Fe)、エンジニアリング(Engineering)から付けられているそうです。
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昭和初期に建てられた駅構内には、なんとも不釣り合いな最新鋭の「簡易Suica改札機」が置かれています。こちらも無人駅なのです。
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「大川支線」は「武蔵白石駅」の手前で大きくカーブをしていて止まらないので、「安善駅」に戻ることにします。
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鶴見線に沿って、再度「安善駅」を目指して歩きます。
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「武蔵白石駅」と「安善駅」の真ん中ほどに銭湯「安善湯」があります。昭和10年から創業されているというこの銭湯は、まさに昭和ノスタルジックそのものです。
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番台で銭湯代470円を払い、いざ入ってみることに。ペンキ絵は定番の富士山です。洗い場の中央に円形の湯船が一つあります。
当方は、銭湯が好きで旅行先でも入ることがあるのですが、こういう円形の湯船は関東圏ではあまり見ない形です。どちらかというと関西圏で多く見かけるスタイルだと思います。
そして、安善湯さんの特徴は、何と言ってもお湯の熱さです。これがハンパではありません。多分50℃位あるのではないでしょうか。高温好きな方にはピッタリです。
高温が苦手な当方は、水て薄めるのは申し訳ないので、湯船に浸かることなく銭湯を後にしました。
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安善駅から大川駅に向かう途中で京浜運河の鉄橋を渡ります。
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ここにも、空襲の爪痕が残されていました。
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「大川駅」に到着です。まるで秘境駅のようですね。創業は大正15年です。
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近くには、日清製粉の工場があります。
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昭和レトロの木造駅舎。「大川駅」の駅名の由来ですが、日本初の製紙技師としていくつもの製紙会社を興し、「製紙王」と呼ばれた大川平三郎にちなんで付けられています。
開業当時、大川平三郎が経営していた富士製紙は鶴見臨港鉄道が属する浅野財閥や、それを支援していた安田財閥に近い企業で、1933年に初代の王子製紙に合併されています。
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次回は、「大川駅」の周辺を探ることにします。
今回は、鶴見線「安善駅」とその周辺をご紹介します。
まずは、「安善駅」の駅名の由来ですが、浅野総一郎らの埋立事業を支援した安田財閥創業者である安田善次郎にちなんで付けられています。
若い頃に、一時「交通安全」のお守りに、「安善駅」の切符を買うというのが流行ったことがありました。懐かしい・・・(汗)

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安善駅からは、旅客用の線路としてではなく、貨物線としての線路が旧・浜安善駅までつながっています。
鶴見線の前身である鶴見臨港鉄道は、浅野総一郎、大川平三郎、白石元治郎ら7名が発起人となり、鶴見臨港鉄道株式会社(以下、鶴見臨港鉄道)をつくり、1926年(大正15年)3月5日に貨物専用鉄道として、その営業を開始しています。
鉄道路線敷設の目的は、埋立地内に進出した各企業に対して、物資の輸送手段を提供する事でした。鶴見臨港鉄道が、貨物専用路線として開業した理由が、ここにあります。
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浅野駅と同様、上下の線路に挟まれた駅ホームに上がるには、遮断機付きの踏切を渡らなければなりません。
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鶴見駅行きの列車が入ってきました。
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鶴見線の他に、並んで貨物線専用の線路が何本もあります。緑色のタンク車両は、日本石油輸送株式会社のものでガソリン専用のものです。
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安善駅から旧・浜安善駅へ続く側線が繋がっています。この側線から在日米軍鶴見貯油施設エリアへ続く専用線があります。専用線はジェット燃料輸送に使用されており、在日米軍の横田基地に向けて拝島駅まで貨物列車(通称「米タン」)が運行されているのです。
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自宅から5キロ程度しか離れていないところに米軍基地があるというのは驚きでした。
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日米の国旗が揺らめいています。
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網越しに貯油タンクがいくつも並んでいるのが見えます。
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安善駅から米軍貯油施設までのルートはこちら
今回は、鶴見線の4つ目の駅「浅野駅」から「海芝浦駅」をご紹介いたします。
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「浅野駅」の駅名の由来は、この銅像の主「浅野総一郎」の名前に由来しています。「浅野総一郎」とは、いかなる人物なのでしょうか。
浅野総一郎は、一代で、浅野財閥を築き上げ、「京浜工業地帯の生みの親」とも「コンクリート王」とも呼ばれた人物です。
富山県氷見市の医者の長男として生まれ、15 歳で初めて商売をするものの失敗の連続で借金を抱え、敢え無く東京に出てきます。
東京で石炭事業に目をつけ、コークスを再利用した事業等に成功し、東京に出てきて3年目、明治9年、総一郎28歳の時に、当時、第一国立銀行の頭取や王子製紙の社長をしていた渋沢栄一と、また郷里の先輩でもある安田財閥の創始者安田善一郎と知り合うことになります。
明治30年、外遊から戻った後、東京から横浜間の遠浅の海岸に目をつけ、運河開削と埋立の事業を始めます。そして、昭和3年に京浜工業地帯が完成させることになるのです。
また、浅野セメントの工場を設立し、関東大震災の復興の機会を得て莫大な利益を生むことに成功します。
現在、この銅像は、総一郎が創立した「浅野学園」の丘の上に立ち、京浜工業地帯を見下ろしています。
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浅野駅は、本線と海芝浦駅行きの支線の分岐点となっています。
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浅野駅も他の鶴見線の駅と同様に、無人駅です。駅舎は、鶴見線終点の扇町駅行きの本線と海芝浦駅行きの海芝浦支線の間にあります。
それぞれのホームに行くには、駅構内の遮断機付きの踏切を渡らなければなりません。
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浅野駅の前には、運河があります。昔、ここでハゼ釣りを楽しみました。
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海芝浦支線の終点となる海芝浦駅です。ホームは岸壁で、すぐ下は横浜湾となっています。左手奥に見える綺麗な橋は、前回ご紹介した「つばさ橋」です。
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駅の改札出口の先は東芝京浜事業所となっています。残念ながら、関係者以外は改札を出ることはできません。
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駅ホームを歩いていくと、その先に自由に出入りできる緑地公園がありました。しばし海を眺めながら、上り線出発の時間まで公園のベンチで佇むことに。
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次回は「安善駅」とその周辺をご案内いたします。

前回は、弁天橋駅を起点に「末広ファクトリーパーク」内にある国内唯一のレコード製造メーカー「東洋化成(株)」をご案内しました。
今回は、そこから足を伸ばし、南端の岸壁まで行ってみることにします。
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この敷地内には理化学研究所横浜研究所と横浜市立大学鶴見キャンパスがあります。理化学研究所と横浜市立大学とが連携協定を結び研究を行なっています。
また、連携大学院の大学院生は、主に理研横浜研究所に通って、世界最先端の研究環境で教育・研究指導を受けながら、修士論文・博士論文を仕上げ、所属大学院の学位を取得することができるような制度となっているので他大学の院生も随分通っています。
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しばらく歩くと、ごみ焼却場「横浜市鶴見資源化センター」の白い煙突が見えてきます
センターで分別収集したごみを焼却し、その余熱を隣にある「横浜市高齢者保養研修施設(ふれーゆ)」の室内温水プールや大浴場に利用しています。
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横浜市高齢者保養研修施設(ふれーゆ)は、一見、一流ホテルのような豪華さがあります。
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バブル景気の時に建てたのでしょう、ゆったりとした造りになっています。フロントの前では、水着やトレーニングウェアなどが販売されていました。平日の午前中とあって、あまり人影がありません。
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廊下の突き当たりに展示温室があります。ここでも、ごみの焼却による余熱を利用しています。
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展示温室の中の様子です。
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カリアンドラの仲間
この仲間は、主に熱帯・亜熱帯アメリカに約120種知られています。
ベニゴウガン、アカバナブラッシマメなどの種類があり、花はネムノキに似て長いおしべが赤、桃、白色などに色づきます。  
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こちらは、熱帯に美しく咲くブーゲンビリア。
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こちらは、白いブーゲンビリア。
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コエビソウ
エビの姿に似ることが和名の由来。その間から白い筒状花が出ています。
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コダチヤハズカズラ(キツネノマゴ科)
熱帯西アフリカ原産です。つる性とはならず、低木で、花は濃青紫色、額は小さく長さ約3ミリです。
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展示温室を出ると、横浜港の岸壁が広がっています。遠くに見える橋は「つばさ橋」です。
この岸壁は、無料で釣りを楽しむことができます。私もこの完璧でよく「サヨリ」を釣って楽しんでいました。
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入江の向こう岸に東芝本工場が見えます。次回ご紹介する鶴見線「海芝浦駅」はこの辺りです。
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つばさ橋は羽田と横浜を結ぶ首都高速道路です。橋脚付近ではイシモチやスズキがよく釣れます。若い頃は、友人のフィッシングボートで夜釣りを楽しんでいました。
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次回は鶴見線「浅野駅」「海芝浦駅」をご案内します。
ここまでのアクセスはこちら
一昨日、川崎市生田緑地にある岡本太郎美術館の「岡本太郎現代芸術賞展(TARO賞)」に行きました。生田緑地のメタセコイヤの林を抜けると岡本太郎美術館です。
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美術館のカフェテリアTAROの前には岡本太郎の彫刻「樹霊」があります。
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岡本太郎美術館の入口です。
日本を代表する芸術家の岡本太郎は、1911年(明治44年)、漫画家の岡本一平と歌人・小説家の岡本かの子の長男として現在の川崎市高津区に生まれます。絵画や彫刻、陶芸のほか、写真や文筆活動など幅広く活躍されました。
多くの岡本太郎作品の寄贈を受けた川崎市は1999年(平成11年)、生田緑地に岡本太郎美術館を開館しました。
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入口に入ると、岡本太郎の彫刻「赤い手」と「青い手」が置かれています。
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現在、第20回目を迎える「岡本太郎現代芸術賞(TARO賞)」が開催されています。
このTARO賞は、岡本太郎の遺志を継ぎ、「時代を創造する者は誰か」を問うための賞で幅広い自由な芸術作品が毎回応募されています。
今回も、499点の応募作品の中から受賞作品、入賞作品が選ばれました。このTARO賞は各作品とも撮影がOKとなっていますので、いくつかご紹介します。
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作品は、特別賞の「salamander[F1]」
1965年にF1世界選手権で日本車として初優勝したマシンと、大山椒魚をモチーフにしています。
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作品は、入賞作品「おてんば納涼図」
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作品は、入賞作品「経済産業省 第四分館」
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作品は、入賞作品「紅い波」
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作品は、入賞作品の「平成炎上図」
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作品は、特別賞の「One Day」
震災後に瓦礫で覆い尽くされた海辺にカラスの群れが円環状になって、餌を漁っている情景が描かれています。
モノクロの遠景とのコントラストが素晴らしい作品でした。
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作品は、入賞作品の「388全身図II」
これはなんと、木版画。毛一本一本が表現されていて、とても精微な美しさを感じました。
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作品は、入賞作品の「生の間」
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作品は、入賞作品の「王国の入り口(と、出口)」
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この作品は、岡本敏子賞。作品名は「Cycling」で、生き物の生きた痕跡を作品化したそうです。
素材にはなんと「動物の糞」に漆を塗っています。特に匂いは感じませんでした。賞金は百万円。
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この作品は、「岡本太郎賞」です。作品名は「Miss lleのみた風景」です。こちらの素材は、なんと「砂糖」「角砂糖」でした。賞金は2百万円。
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ミュージアムショップには、書籍類や太郎グッズが置かれています。
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岡本太郎をモチーフにしたお菓子「TAROの夢」は、農林水産大臣賞を受賞されました。最中の皮に、一味唐辛子が入っていて、お土産としてウケています。
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美術館で作品を見た後は、高さ30メートルある岡本太郎美術館のシンボルタワー「母の塔」を見上げて見てください。
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岡本太郎美術館ホームページはこちら
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