都会のローカル線JR鶴見線の旅も最終回となります。今回は、「昭和駅」と終点の「扇町駅」をご案内します。この写真は、南渡田運河にかかる扇橋の鉄橋です。奥に見える工場は「昭和電工」です。
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川崎の工場夜景のPRポスターでも使われている「昭和電工ガス化プラント」の建物です。
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この写真は扇橋の反対側の景色です。
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昭和駅に着きました。昭和駅の駅名は、「昭和電工」に由来しているようです
。現在、この辺り一帯は、昭和電工の敷地になっています。
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昭和駅のマスコットでしょうか。
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運行は2時間に1本ほどのため、通勤者の多くはバスを利用しています。鶴見線を利用している一日平均の乗車人数は、平成20年の統計で569人です。
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昭和電工は、化学工業製品を生産している会社で、森コンツェルンの中核企業の日本電気工業と、味の素傘下で森氏が経営に参加した昭和肥料の合併により、1939年に設立されています。
川崎事業所には、昭和6年に昭和肥料当時の建物が残されています。昭和初期の京浜工業地帯を代表する建物だったようです。現在、国登録有形文化財として登録されているほか、近代化産業遺産として認定されています。今は、歴史資料室として、また、ツアー見学やテレビドラマ、映画撮影のロケ地としても利用されています。
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鶴見線の終点「扇町駅」です。駅のある扇町は浅野財閥による埋立地であることから、その創業者の浅野家の家紋の「扇」にちなんで駅名が付けられています。
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これまでの鶴見線の駅とはどこか建物の雰囲気が違うようですね。
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この駅は、猫の撮影ポイントの一つとして知られているようです。確かに可愛らしい猫ちゃんですね。
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四方を運河に囲まれた「島」の中にある駅前食堂兼ビジネス旅館です。
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こちらは、川崎天然ガス発電株式会社です。2001年に日石三菱(現:JXTGエネルギー)とニジオ(東京ガスの連結子会社)の共同出資で設立された会社です。
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工場の角にお地蔵さんがありました。スピードを上げたトラックがたくさん走っていることから交通安全を祈願して建立されたのでしょうか。
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現在のGoogleマップから扇町駅を確認してみましょう。
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下の地図は、大正から昭和初めにかけて埋め立てられ、完成した当時のものです。
すでに昭和6年には鶴見臨港鉄道として鶴見駅から扇町駅まで鉄道が開業されていたのがわかります。
また、朱色の線は、大正14年に開通した海岸電気軌道線(路面電車)です。鶴見の總持寺から川崎大師までの路線で、主に埋立地への通勤者用につくられましたが、鶴見臨港鉄道の完成とともに衰退していきます。その駅の一つに「海水浴前駅」がありました。
驚くことに、当時「扇町駅」のある島の先に、自然に滞留した砂でできた「扇島海水浴場」があったんです。
海水浴客は、海岸電気軌道線の「海水浴前駅」から「ポンポン船」に乗って渡っていたそうです。上の写真でいうと、JFEスチールの「扇島太陽光発電所」の地名がある辺りかもしれません。
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この写真は、当時賑わっていた「扇島海水浴場」です。今では考えられませんが、東洋一のリゾート地だったようです。
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鶴見線の旅は、以上でおしまいです。お付き合いをいただき感謝いたします。
次回は、続編(おまけ)として、現在の「扇島」を訪ねてみることにします。
横浜元町で生まれたジュエリーショップの老舗STAR JEWERYがプロデュースしたカフェに行ってきました。
元町仲通りと代官坂通りの角地にあるこのカフェは昔、スターライトカフェという名前でしたが、去年の8月に改装していたようです。白を基調とした外観がとてもお洒落です
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店内は白で統一されています。2階には、さらに設えの良さそうなテーブル席がありました。
後で聞くと、スタージュエリー元町本店でブライダル用のリングを買った方に用意された席とのことでした。なるほど・・・。
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今日は、クラムチャウダー風マカロニグラタンとミネストローフを選びました。メニューは、他に野菜のポタージュやサンドイッチ、サラダなどがあります。どれも1,000円程度です。
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コーヒーはセット300円で付けることができます。
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ここが、スタージュエリー元町本店です。
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お店の柱の下を何気なく見ると、PET BARなるものがありました。優しい心遣いですね、
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雨上がりの夕暮れの元町。
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スタージュエリーカフェはこちらです。
以前、南武支線(浜川崎線)の旅でもご紹介した「浜川崎駅」周辺を散策することにします。今回の目的地は日本鋼管、現在のJFEスチールです。
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ホームから階段を上がるとJFE専用出口がありますが、社員の方のみ使えます。
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こちらが、鶴見線側の浜川崎駅です。
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道路を挟んで、その向かいに南武支線(浜川崎線)の浜川崎駅があります。
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この写真は平日の朝に撮ったJFEの出勤風景です。右手に見えるビルがJFEスチール京浜ビルです。
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この敷地一帯は、テクノハブイノベーション川崎(THINK)と呼ばれています。
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京浜ビルの前には芝生の広場があります。
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広場の中央には、日本鋼管初代社長の白石元治郎氏の銅像が建っています。前回ご紹介した鶴見線「武蔵白石駅」の駅名の由来の主です。

(白石元治郎と日本鋼管)
慶応3年(1867)生まれの実業家・白石元治郎氏は、浅野総一郎氏の門下生として出発し、東洋汽船を興し当時は無謀とされた13,000トン級の国産船舶の建造を成功させた。さらに国家の将来を考え、航路開発のため世界を奔走していた白石氏は、インドの製鉄所生産の銑鉄に注目し、帝大時代の旧友・今泉嘉一郎氏に相談を持ちかけた。今泉氏は製鉄民営の志をもって官営八幡製鉄所を辞し、継目無鋼管生産の有望性を模索していた技術者であった。こうして白石氏の経営と今泉氏の技術、そして浅野総一郎氏や渋沢栄一氏の支持を得て、明治45年(1912)6月、日本初のガス・液体などの輸送用鋼管の専門会社として日本鋼管(株)が設立された。白石氏は浅野氏の娘婿となり独立、初代社長に就任した。工場用地はまだ未造成地であった若尾新田(現在の南渡田町)の一角を購入し、埋め立てと工場建設を進め、翌大正2年(1913)操業を開始した。 (「かわさき区の宝物シート」から)
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白石像の前にある2対の石は、鉄鋼原石です。日本鋼管が初めてオーストラリアから鉄鉱石を輸入した記念として、当時のオーストラリア政府から贈られたものです。
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川崎市市民ミュージアムの企画展で「鉄人28号」に扮したこともあるトーマス転炉。漫画「鉄人28号」は世代を超えて共有できているか心配ですが・・・。
トーマス転炉は、昭和12年に日本鋼管に導入され、日本の鉄鋼業界に貢献した貴重な産業遺産です。このトーマス転炉は、イギリス人シドニー・G・トーマスによって発明された燐を含む鉄鉱石の利用を目的とした製鋼炉です。日本鋼管では、昭和12年にトーマス転炉を導入し、翌年から昭和32年まで京浜製鉄所に設置し、稼動させていました。設置当時、日本満州事変などによる景気の好転を背景に、鉄鋼の国産化推進が強く求められていました。日本鋼管の今泉嘉一郎は、輸入スクラップに依存しない鋼の高能率製造法としてこの転炉に着目し、ドイツで普及していた転炉を、我国で唯一導入したのです。これにより、日本鋼管は、民間鉄鋼業界では初めての銑鉄一貫体制を実現させました。このようにトーマス転炉は、日本の鉄鋼業界の発展に大きく貢献し、世界屈指の鉄鋼生産国に日本を成長させる基礎をつくったのです。現在、市民ミュージアムに置かれています。
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トーマス転炉は、平成19年に近代化産業遺産に認定されています。
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以前、川崎市市民ミュージアムの企画展「横山光輝の世界」展で、ロボットの元祖で横山氏が生み出した「鉄人28号」の頭部をトーマス転炉に見立て変身させた「トーマス転炉鉄人化計画」も行われていました。とてもユニークでした。
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川崎市市民ミュージアムに行った際に購入したトーマス転炉の置物。机の片隅に置いてあります。 
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石造りの門柱の奥にあるのは、「アウマンの家」です。この建物は、日本鋼管創業初期の1913年(大正2年)春、ドイツから招いたアウグスト・アウマン技師を含む職工長が使用した宿舎。二度の移築を経て、1974年(昭和49年)に取り壊されましたが、後に記念資料館として再建され、現在に至っています。
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この石造りの門柱は、1918年(大正7年)、渡田に建築された旧日本鋼管本社社屋の正門として置かれたものです。二度移築されて現在に至っています。
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来年、ちょうど100年を迎える石造りの門柱。歴史の重みと風格が感じられますね。
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アウマンの家に近づいてみると、今は社員食堂として使われていることが分かりました。
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アウマンの家の扉に日替わり定食のメニューが掲げられていました。
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再び、浜川崎駅に戻りました。次回は「昭和駅」と「扇町駅」をご紹介いたします。
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今回伺った「テクノハブイノベーション川崎(THINK)」はこちらです。https://goo.gl/maps/ZUF5XwGahdQ2
吉村昭生誕から90周年の節目に当たる今年4月1日、吉村昭が生まれた荒川区に「吉村昭記念文学館」がオープンしました。(今回はスマホで撮影)
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「吉村昭記念文学館」は「中央図書館」「ゆいの森子どもひろば」と一緒に「ゆいの森あらかわ」という建物に誕生しました。
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4月1日には、小池百合子東京都知事が見学に来られました。
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1階には、エントランスホール、総合カウンター、カフェがあります。2階には、吉村昭記念文学館や会議室、児童書コーナーがあります。
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「ゆいの森あらかわ」の「ゆい」は「結」という意味なんですね。とても可愛らしいデザインです。
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お洒落なカフェには行列ができていました。10分ほど待ちましたが、美味しいブランドコーヒーをいただきました。有難うございます。
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今回の目的は、2階にある「吉村昭記念文学館」です。ここには、吉村昭の書斎や自筆ノート、資料が置かれています。また、映像コーナーでは、吉村昭の原作を映画化したものが随時上映されています。残念ながら、館内での撮影は禁止です。
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記念パンフレットに吉村昭について紹介がありました。
荒川区生まれ、学習院大学在学中に執筆活動を開始。昭和41年に「星への旅」で太宰治賞を受賞。同年「戦艦武蔵」を発表し、ベストセラーとなる。戦史、歴史、医学、動物など幅広い題材を扱い、入念な取材をもとにした作品を多数執筆。日本芸術院賞他多くの賞を受賞。1927年ー2006年。(吉村昭記念文学館パンフレットから)
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吉村昭記念文学館入口の看板には、吉村昭が執筆した書籍がデザイン風に貼られていました。私もこれまで50冊以上読ませていただきました。実は、私も吉村昭ファンの一人なんです。
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開館1年前に先行してつくられた友の会に早速、参加を申込みました。これは、会館準備室から送られてきた記念の会員証と会員バッチです。
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明日(4月12日)、21時から吉村昭原作の「破獄」がテレビ東京で放映される予定です。
とても楽しみですね。この小説も事実に基づき、丹念な取材を通して執筆された吉村昭の代表作の一つです。イメージ 9
吉村昭記念文学館の場所はこちらです。
今回は、鶴見線大川支線の終点「大川駅」の周辺を散策します。
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大川駅を降り、人が一人通れるほどの踏切を渡ります。支線の終着駅の先なのですが、なぜか遮断機が付いています。
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周辺はというと、工業団地のような場所になっているのですが、鶴見線の線路沿いは緑地のプロムナードとなっています。
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その一角に「鶴見火力発電所跡」という小さな石碑があります。
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石碑の裏側には沿革が書かれていました。内容は次のとおりです。
大正12年12月 東京火力発電所起工(昭和4年鶴見火力発電所と改称)
昭和 元年12月  1号機 37,500kw発電開始
昭和11年12月  出力4機10缶 178,500kw
昭和29年12月  鶴見第一火力発電所と改称 
        鶴見第二火力発電所を開設
昭和33年12月    総出力 9機16缶 817,500kw
昭和40年10月    鶴見(第一)1・2号機廃止
昭和59年  6月    廃止
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実は、この東京火力発電所の建設工事を巡って、大正14年12月21日に「鶴見騒擾事件」(つるみそうじょうじけん)という大変物騒な事件が起きたのです。
「鶴見騒擾事件」とは、大正14年に東京電力株式会社(現在の東京電力とは違います)が火力発電所を東京湾埋立地の神奈川県橘樹郡田島町(現在の川崎市大川町)に建設することになり、その工事請負に関する勢力争いが原因で、土木請負業者がその配下の人夫、土工、博徒等を動員して一大争闘を展開した事件です。発生現場は、鶴見区潮田一帯。
「間組、下請三谷秀組」600人 vs 「清水組、下請青山組・助勢松尾組、淡熊会」800人が「義」と「情」で闘った事件でした。
一方、情報を掴んだ警察は、警官1500人、憲兵隊50人を出動させています。
この結果、416人検挙し、押収凶器は日本刀73、短刀20、拳銃9、猟銃17、竹槍53、こん棒28等々でした。双方で死者2人、傷者53人、一般住民8人負傷、住宅42戸被害でという記録が残されています。(「神奈川県警察史」)
詳しくは、サトウマコト著の「鶴見騒擾事件百科」をご覧ください。また、青山光二著「闘いの構図」(朝日文庫)はこの事件を小説にしています。
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この事件を元にして製作された映画もあります。題名は「暁の挑戦」(昭和46年)です。しかし、不思議なことにこの映画は長らく行方不明とされていたのです。そして、偶然3年ほど前に発見されました。そのフィルムはフジテレビにより修復され、「蘇った幻の名作映画」というコピーで川崎駅前の映画館「チネチッタ」で特別上映されました。私も見に行きました。チネチッタの映画案内はこちらです。

東京電力火力発電所は、大川駅周辺に建設されましたが、大正14年12月21日に起きた「鶴見騒擾事件」(つるみそうじょうじけん)の舞台は、鶴見区の「潮田地区」を中心にした地域でした。現在の双方の場所はこの辺りです。
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当時の地図です。すでに鶴見臨港鉄道として「大川駅」があります。
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潮田地区のシンボル「潮田神社」
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鶴見騒擾事件の舞台ともなった潮田地区は、当方の「都会のローカル線 JR鶴見線の旅3「鶴見小野駅」③潮田牧場?」で紹介しています。
次回は「浜川崎駅」です。