江ノ島から鎌倉に向かう途中の腰越で、源義経ゆかりの寺「満福寺」をお参りしました。満福寺の門前には、江ノ電が走っています。
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満福寺は、天平16年(744年)に僧・行基により開山された京都大覚寺派の真言宗のお寺です。
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扁額は「満福寺」
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本堂の欄間には、義経と弁慶が腰越状を書いている様が彫られています。
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本堂の前には「義経腰越状」の石碑が建てられています。
義経は、一の谷、屋島、壇ノ浦で平家を破り、平家を滅亡させる手柄を立てますが、兄の頼朝の許可を得ずに後白河法皇から検非違使を命じられるなどをしたため、頼朝の怒りをかってしまいます。平家の捕虜を伴い、兄に面会するため鎌倉に入ろうとしたのですが、許されず、この腰越の「満福寺」で逗留し、許しを請うために手紙を書いたのです。それが「腰越状」です。しかし、空しいことに、鎌倉の門は開かれませんでした。
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満福寺には、「腰越状」の下書きをしたためたといわれる弁慶ゆかりの〝もの〟がたくさん残されています。これは、弁慶の手玉石です。
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これは、弁慶の腰掛石です。
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本堂には、ゆかりの品々が展示されていて見学することができます。(見学料 200円)
腰越状の書状がガラスケースに保存されています。書状には、「兄の心がどう変わろうとも、兄に服従する気持ちは絶対に変わりません」と切々に訴える内容となっているそうです。
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弁慶が使用されたする「椀」が残されています。
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ゆかりの品々が残されています。
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襖絵にも義経の物語が描かれています。
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東北の地で最後を迎えるシーンなのでしょうか。弁慶が弓矢を受けながら盾になっている様子が描かれています。
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境内にもゆかりの史跡が残されています。義経公手洗の井戸。
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これは、硯の池です。手紙を描く際に墨に使う水を汲んでいたようです。
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腰越から見た江ノ島。
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義経の終焉の地、平泉には昨年の夏に行きました。よろしければご覧ください。
鎌倉「満福寺」はこちらです。続く
江ノ島駅近くにある常立寺を参拝しました。
常立寺には、建治元年(1275年)に時の執権、北条時宗の命により死刑に処せられた蒙古の国使5人を祀った5基の五輪塔があります。
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最初の元寇は、文永11年10月に蒙古の王、クビライら3万5千隻の船で対馬隠岐を襲い、博多湾に上陸しました。日本軍はたちまち敗走しますが、台風により、蒙古軍の船は難破し、多くの死者を出し引き上げて行きます。文永の役です。
その翌年4月、蒙古の国使、杜世忠ら5人は蒙古に降伏を要請するため、鎌倉に来ます。再来を恐れていた鎌倉幕府は、この5人を切り捨てることにしました。死骸はこの常立寺に埋葬し、5基の五輪塔を建てたのです。
その6年後、2度目の元寇が押し寄せます。弘安の役です。この時は14万人の兵士の再来でしたが、再び台風によりほとんどの兵士が水死してしまいます。
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本堂です。
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大相撲藤沢場所を前に白鵬たちモンゴル出身力士一行は、常立寺を訪れ、境内にある「元使五人塚」を参拝しています。そして、青い布を五輪塔に巻きつけました。青い布はモンゴルでは英雄の印とされています。
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江ノ電の江ノ島駅の前にある海産物店の舟善さん。
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江ノ島に向かう通りには、江ノ島弁財天道標が建っています。
この道標は、1999年、道路工事中に地下から発見されたものです。
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青空の下、多くの観光客が江ノ島に向かいます。浜辺では、ゴミ袋を片手にゴミ拾いをする若者たちが何人もいました。恒例で行なっているようです。捨てたものではありませんね、この国も。
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江ノ島弁財天の江島神社が見えます。
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海岸に面した公園には、藤棚があります。満開です。
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江ノ島の海岸から片瀬の方を眺めます。五重の塔が見えます。龍口寺です。県内唯一の木造の五重の塔です。
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鎌倉方面を眺めます。岬のように突き出ているのは、稲村ガ崎です。
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天気も良いので、鎌倉まで歩くことにします。
常立寺はこちらです。
続く。
「都会のローカル線 鶴見線の旅」の特別編の第二弾です。
鶴見線の最終駅「扇町」から川崎港海底トンネルを徒歩で渡り、かつて東洋一の海水浴場と言われていた扇島の現在の様子をご案内します。
前回ご案内した東扇島東公園を出て、しばらく西の方角に歩くと、この島のランドマークの「川崎マリエン」に着きます。凱旋門のような外観の川崎マリエンは、川崎市港湾局の建物です。地上10階にある展望室からの眺めは最高です。
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入口を入ると広い玄関ホールがあります。すぐ目に入るのがホール中央にあるサメの剥製です。
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これは、ホオジロザメの剥製なんです。2005年(平成17年)10月に川崎港の千鳥運河に漂着したものを剥製にしたということなんですが、そのままの形での剥製は非常に珍しいようです。全長は4.85mで性別はオス。なんと、オスとしては世界最大級のもので学術的にも貴重なものなんだそうです。
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2階には川崎の海苔づくりの資料室があります。埋立前は、この一帯は海苔づくりがとても盛んでした。ここでは、当時使用されていた道具が展示されています。
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10階の展望室からの眺めです。川崎マリエンの裏手には、手前から「ビーチバレー場」「テニスコート」「バーベキュー場」があります。まだ桜も残っていますね。
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反対側の川崎港の景色です。自動車を専門に運ぶ大型船などが多く入港してきます。
沖合に見えるのは、防波堤です。その先にはタンカーが停泊しています。
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東側を見ると、スバル自動車の倉庫も見えます。
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西側を見ると、倉庫群の奥には、コンテナ船に詰め込むガントリークレーンも見えます。その一帯がJFEスチールの扇島工場です。かつて東洋一の海水浴場があった場所はその辺りだと思われます。
それでは、その辺りがよく見える「東扇島西公園」に向かって行くことにします。
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東扇島西公園の堤防は釣りエリアとして開放されています。オープンした当時はよく堤防釣りに出かけました。
今の時期は、サヨリ、メジナ、メバル、シリヤケイカ、スズキ、イワシ、ウミタナゴ、シロギスなどが釣れるそうです。
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この日は風が強かったので、釣れている人はあまり見かけませんでした。この方はシロギス狙いなのでしょうか。
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西公園にある展望台からの眺めです。前方は三浦半島の方向です。
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西公園の堤防の目の前は、JFEスチールの工場が広がっています。煙を出している高い建物は高炉です。周りには、鉄鉱石や石炭が積み上げられています。
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ちょうど、この辺りに当時、賑わっていた海水浴場があったと思われます。中央に霞んで見えるのが、「つばさ橋」です。鶴見線の海芝浦駅からよく見えていました。
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沖合にある小さな島が昭和のはじめ、東洋一の海水浴場として賑わっていたとされる「扇島」です。海水浴客はポンポン船に乗って行き来していました。
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千鳥換気所から川崎港海底トンネルを通り、「東公園」「川崎マリエン」「西公園」とご案内いたしました。
足取りをGoogleマップに残しておきました。参考にご覧ください。おしまい。

前回の鶴見線の旅でご紹介した昭和初期の川崎の扇島の写真です。
当時は、東洋一の海水浴場として大いに賑わっていました。現在はどんな姿をしているのでしょうか。
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現在の京浜工業地帯の航空写真です。
当時の海水浴場だった扇島は、位置的には、写真左下の「扇島太陽光発電所」の辺りだと思われます。
当時の「扇島」は最後に残しまして、今回は航空写真の右下に示しました「東扇島東公園」をご紹介いたします。
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航空写真の右中にある「ちどり公園」から東扇島まで海底トンネルの中を歩いて渡り、「東公園」を目指します。

まずは、ちどり公園案内図に示された「海底トンネル歩行者通路出入口」の「千鳥町換気所」に向かいます。
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ちどり公園の側面には、自動車用の「川崎港海底トンネル」があります。
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歩行者用のトンネルは、「東扇島方面人道入口」の矢印の方向です。
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すると、目の前に「千鳥町換気所」の高い建物が現れました。
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その1階部分に海底トンネルの入口があります。
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さすがに、海底トンネルだけあって、海底部分までかなりの階段が待ち構えていました。
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下まで降りると、今度は東扇島まで先が見えないほど長い海底トンネルが続いていました。
全長2180メートルです。この川崎港海底トンネルは1972年に着工して、1979年に完成しています。
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海底トンネルを出て、しばらく歩くと、遂にありました。海岸です。水も綺麗!!
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平成20年4月、人工海浜(かわさきの浜)を備えた公園としてオープンした「東扇島東公園」です。
京浜工業地帯として埋立られるまでの川崎の海岸線は、遠浅の海で海水浴や潮干狩りで大いに賑わっていたそうです。
オープン当初は、この人工の浜でも天然のアサリを獲ることができましたが、乱獲により現在ではあまり獲れなくなっているようです。
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当時は、海苔の養殖もとても盛んでした。
海に突き出ている「竹」は、海苔網をぶら下げる為に使用していた支柱を表しているのでしょうか。
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何組かの家族連れが潮干狩りに来ていました。
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東扇島東公園の入口です。川崎駅からバスも出ています。
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公園には、バーベキューを楽しむ場所もあります。人気があるようですよ。
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公園の広場から、運河を隔てて工場群が見えます。
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右手の大きな建物は、アクアライン(川崎から千葉県木更津までの東京湾横断道)の換気所です。運河沿いには遊歩道も整備されています。
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遊歩道からは、運河を隔てて工場群(日本触媒浮島工場)を間近に見ることができます。
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続く
先週、横浜元町に行った帰りに、横浜の桜の名所「掃部山公園」に寄りました。すでに夕方、時より小雨が降る中でしたが、お花見に興じる人たちで大賑わいでした。
掃部山公園は、桜木町駅の近くで、紅葉坂という長い坂を上がった丘の上にあります。
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この土地一帯は、江戸時代まで「不動山」と呼ばれていましたが、明治初期に鉄道敷設に携わった鉄道技師の官舎や、機関車用の水池が設けられたことから、「鉄道山」と呼ばれるようになります。

1884(明治17)年、旧彦根藩の有志がこの土地を購入したことで、井伊家の所有地となり、1909(明治42)年に井伊掃部頭直弼(いいかもんのかみなおすけ)の銅像が建立されたことから、「掃部頭(かもんのかみ)」にちなんで「掃部山」と名付けられるようになったのです。 
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井伊直弼は、安政5年に日米修好通商条約を結び、横浜港を開港しました。この開港をきっかけに横浜は西洋文化が息づく街並みを形成していくことになります。しかし、尊王攘夷を掲げる水戸藩や薩摩藩の浪士らに江戸城の 桜田門近辺で襲撃を受けることにもつながりました。桜田門外の変です。
井伊直弼は、今も掃部山から横浜港を見下ろしています。
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満開のソメイヨシノの中、一際目立っているのが、仙台枝垂れ桜です。この仙台枝垂れ桜は、横浜市西区の区制60周年と、掃部山公園開設90周年を記念して仙台市から贈られた記念樹なんです。
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下の写真が井伊直弼像とツーショットの仙台枝垂れ桜。
この井伊直弼像は、1909年(明治42年)に横浜開港50周年を記念して建てられたのですが、 なんと第二次大戦中の金属回収令で取り払われてしまいます。
現在の銅像は1954年(昭和29年)に開国100周年を記念して横浜市が再建した2代目です。
ちなみにこの像は台座を含めると11メートルというかなり大きいものです。
銅像は一度回収され2代目なのですが、この台座は1909年(明治42年)当時のままです。 
この地が公園として公開されるに至ったのは、1914年(大正3年)、井伊家がこの地を市民の憩いの場として提供し、 横浜市に寄付したことによるもので、整備の後、同年11月に「掃部山公園」として開園されました。
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ちなみに、この台座の製作者は、工学博士の妻木頼黄(つまきよりなか)です。妻木頼黄の代表作には、現在の日本橋や横浜にある神奈川県立歴史博物館(旧・横浜正金銀行本店)、赤レンガ倉庫などがあります。
ご紹介した掃部山公園はこちらです。