昭和2年に開通した南武線の誕生には、御幸村(現在の川崎市幸区・中原区の一部)村会議員を経て、橘樹郡議員として活躍した秋元喜四郎と、川崎から鶴見間の京浜地区を埋め立て、運河を開削するなど日本の産業に貢献した浅野総一郎が大きく関わっています。
今回は、秋元喜四郎に焦点を当て、南武線誕生に至る経過を紹介いたします。
下の写真は、秋元喜四郎 (川崎の上平間で代々名主を務める家の16代目当主)
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多摩川は、東京都と神奈川県の県境を流れる一級河川です。江戸時代の頃より、豊かな多摩川の水源を利用して、周囲には灌漑用水路が張り巡らされ、水稲生産農家による近代農業が発展を遂げた地域でした。
しかし、豊かな水田は、川の氾濫とも隣り合わせでもありました。
多摩川の水害については、昭和52年(1977年)に山田太一脚本、八千草薫と竹脇無我主演で放映されたTBS系のテレビドラマ「岸辺のアルバム」が多摩川を舞台にしていたのでご存知の方も多いかも知れません。映像で多摩川の堤防が決壊し、19棟の家屋が崩壊・流失していく様子がとてもショッキングだったので記憶に残っています。

江戸時代から江戸城(東京)側の多摩川左岸は、土手の整備が早期に行われていましたが、一方右岸の川崎側は堤防の整備が遅れていました。幕府のある江戸(東京)側は川崎側に比べ3尺高く堤防が築かれていたとも聞いています。ですから、ひとたび豪雨ともなると、右岸の川崎側は大洪水となってしまったのです。その一因に、江戸時代から盛んに行われた川崎側河川の砂利採掘も影響していたようです。
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特に、明治43年(1910年)の水害は、史上空前の大水害と言われ、多摩川と鶴見川から溢れ出した水で、北は大森から南は鶴見に至るまで、まさに「京浜間海と化す」(「横浜貿易新報」)のありさまとなったようです。
そこで、流域の人々は、早期築堤を求めて国(内務省)に陳情を繰り返しますが、一向に埒があかない状況でした。
大正2年(1913年)にも、豪雨による大洪水が多摩川で発生します。再度、内務省に治水の請願を行いますがやはり進展しませんでした。
ようやく大正3年(1914年)、神奈川県と東京都で協議に入りますが、右岸の堤防を築くと左岸の東京側に被害が及ぶ危険があるということで、これまでの請願は内務省により却下されることとなったのです。
同年、8月9日に再び大洪水が起こります。
それではと、地域住民はついに実力行使を決定します。その主導者が当時、村会議員だった秋元喜四郎だったのです。
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同年、9月16日のことです。
全員が目印のチョンボリガサ(アミガサ)を付けた数百人の人たちが、神奈川県庁に向けて、多摩川築堤の「大挙陳情」を決行しました。
御幸村では、写真にある上平間の「八幡大神」に未明の2時に集合して、徒歩で県庁に向かいます。途中、近隣の住吉村、日吉村、町田村(鶴見区矢向)の人たちも加わり、総勢500人規模になったようです。
目印の笠から、この行動は「アミガサ事件」と呼ばれています。
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当時は治安維持のため、大挙して集団行動することは許されていない時代でした。この八幡大神には、200人ほどの農民が集合したと伝えられています。
この境内から溢れるほどの人たちが集まっていたのではないでしょうか。
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2014年9月16日、アミガサ事件(農民大挙陳情・多摩川防災陳情)は、100周年を迎え、村の農民たちが集結した八幡大神の境内に、その子孫たちの手で記念碑と高札(説明文)が建てられています。
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南武線誕生には紆余曲折がありますので、もうしばらくお付き合いください。次回は、アミガサ事件の後の多摩川築堤についてご紹介します。
川崎郷土・市民劇は、文字通り、川崎の歴史に登場する人物に焦点を当て、2年ごとに上演しているもので、プロの演劇人の中に公募で選ばれた市民が参加して、創り上げている演劇なんてす。第6回目となる今回は、今年で90周年を迎える南武線の誕生秘話がモチーフとなっています。
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川崎の大動脈とも言われる南武線は昭和2年(1927年)に「南武鉄道」として開通しました。誰が思いつき、誰がどのようにして実現させたのか、その歴史は川崎市民にもあまり知られていません。この舞台は、南武線誕生という壮大な夢を夢見続けた2人の男の物語なのです。
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その2人とは、一人が、慶応二年(1866年)、川崎の上平間村で代々続く名主の家に生まれ、村会議員や橘樹郡会議員をつとめ、「アミガサ事件」や多摩川の築堤運動のリーダーとして活躍し、南武鉄道株式会社の発起人となる「秋元喜四郎」
もう一人は、嘉永元年(1848年)、富山県に生まれ、事業に失敗し富山から夜逃げ同然に上京して、竹の皮やコークスの再利用で富を得て、「セメント事業」で成功をおさめ、炭坑、造船、電力など次々と事業を拡大し、1代で浅野財閥を築いた「浅野総一郎」です。中でも、東京湾を埋め立て、「京浜工業地帯」を築いたことは有名です。このブログでも「JR鶴見線の旅」の中で度々ご紹介させていただいたので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんね。この全く相容れないお二人が物語の主人公となっていました。
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上の写真は、川崎郷土・市民劇「南武線誕生物語」の開催に合わせて企画されたシンポジウム「南武線誕生秘話」〜夢見る男たちのロマンを語る〜です。
中央にいる二人の女性が主人公の子孫の方です。右側の女性が秋元喜四郎さんのお孫さん、そして左側の女性が浅野総一郎さんの曾孫さんに当たる方です。
シンポジウムでは、二人のご子孫から「お祖父さんたちがどんな方だったのか」、「もし、語りかけることができるとしたら、どんな言葉をかけたいか」など興味深いお話しを聞くことができました。

川崎郷土・市民劇「南武線誕生物語」は市内の劇場で5回開催され、毎回満員御礼でした。私は、5 月19日に観に行きました。演劇人の中に知り合いが2人いたので、前から2列目でかぶりついて観ていました。何しろ、主人公のお二人とも壮大な夢を観続けた方ですから、物語自身も壮大そのものでした。
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次回、このお二人にスポットを当て、物語に描かれた秘話をご紹介していきたいと思います。
河村城は、平安時代末期に築城され、相模・甲斐・駿河三国の境界線が交差する要衝の地に築かれた山城(標高225m)です。現在は、発掘調査が行われ、本丸や廓、畝堀などの遺構が見られる「河村城址歴史公園」として整備されています。石碑には「河村城址」と刻まれています。
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河村城址は、戦国時代、後北条氏の小田原城の支城となっていましたが、豊臣秀吉の小田原攻めによって滅ぼされ、廃城となります。また、それ以前には、後北条氏が甲斐の武田信玄の侵攻に備えていたことも明らかになっています。ですから、築城された平安時代から戦国時代にかけて、常に要衝の城であったことがわかります。
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河村城址歴史公園の入口から階段が続きます。
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本丸の下まで来ました。
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敵兵の侵入を食い止めるために作られた畝堀(障子堀)の遺構がよく分かります。
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本丸には、山城の雰囲気を感じさせる門があります。
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河村城は中世山城の全容を残している貴重な城址です。この平面図は、下の約300年前の「縄張り」の絵図を参考にして作られています。
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本丸は広大な廓(平場)となっています。奥に社と石碑が建てられています。
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人工的に尾根を切断して堀とした「堀切」の上に、調査後、橋が整備されています。
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堀切の下から撮りました。
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堀切は障子堀(畝堀)となっています。
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平成19年に発掘調査した時の畝堀(障子堀)です。後北条氏が武田信玄や豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築いたものと考えられます。
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この写真は、山中城址の畝堀(障子堀)の写真です。東海道を歩いていた時に撮ったものです。
山中城は北条氏が豊臣秀吉の小田原城の侵攻の直前に築城した城で、7万人の豊臣軍に対して、北条側4千人で戦闘を繰り広げ、壮絶な戦いの地となったところです。
今は、養生のため芝がはられていますが、当時は関東ローム層の赤土が剥き出しになっていたので、滑りやすく難攻不落だったと思われます。ですが、豊臣軍の先鋭によりわずか半日で落城した悲劇の城として残されています。
東海道53次の旅「山中城趾」のURLはこちらです。
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発掘調査の折に見つかった竪堀と空堀の跡です。
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発掘調査で明らかにされた廓(平場)の跡が示されています。
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先端が「大庭廓張出」です。
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この場所から、南の方角を眺めます。前方に小田原が見えます。当時は、狼煙を挙げて小田原城と連絡を取り合っていたのかもしれませんね。往時を偲びました。
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河村城趾歴史公園はこちらです。
横浜港が一望できる「横浜港シンボルタワー」をご紹介します。
場所は、横浜港の入口に当たるところで、本牧埠頭のD突堤のさらに先端に位置しています。
このタワーは、安全に世界中の船舶が横浜港に入出航できるよう信号を送る施設なんです。
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何と言っても、周りは広大な芝生の広場があり、しかも、あまり混み合っていないので、ゆっくりとレジャーシートを広げ、ピックニック気分を味わうことができます。ただし、BBQはできません。
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5月初旬には、芝桜が斜面一面に咲くそうです。
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どこか宇宙ステーションを思わせるような形状がユニークです。
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階段を登り終えると、宇宙ステーションのような建物と貝を模したステンレス製の鋳造彫刻が現れます。
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横浜港を見渡せるように、展望ラウンジが設けられています。
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貝の鋳造彫刻の後ろには、展望室への入口があります。
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展望室にはエレベーターがないので、自力で階段を上らなければなりません。26メートルありますから、7階くらい上る覚悟が必要です。
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展望室の上には信号機が取り付けられています。
ちなみに、主な信号ですが、「I」は「入船して良い」、「O」は「出航して良い」、「F」は「1万5千トン未満の船は出入り自由」となっています。
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ようやく展望室に上がりました。さすがにヘトヘトです。
しかし、これほど横浜港を360度見渡せる場所はありません。圧巻の景色ですよ。
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少し、大気が霞んでいるため遠景は見えません。こちらは、川崎方面です。JFEの製鉄所でしょうか。
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東京湾越しに見えるのは、千葉県木更津辺りでしょうか。
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こちらは、本牧の港湾施設です。
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そして、一番の景色は、何と言ってもベイブリッジと横浜港でしょう。
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タワーを下り、芝生を抜けると、休憩所があります。こちらには、自販機やトイレが整備されています。
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建物の横には、こうしたドーム型の休憩コーナーもあります。
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この写真は、飛鳥IIの横浜港大桟橋への入港時間に合わせて、タワーの展望ラウンジから撮ったものです。
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ベイブリッジをくぐる飛鳥II。
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横浜港シンボルタワーはこちらです。
江ノ島から歩きはじめ、元使五人塚の「常立寺」、源義経の腰越状が残る「満福寺」、鎌倉幕府滅亡とゆかりのある「稲村ヶ崎」、「東勝寺跡」、「宝戒寺」、そして「九品寺」、「安養院」を巡り、最後に北鎌倉の「円覚寺(えんがくじ)」をお参りしました。
円覚寺は鎌倉五山第二位の巨刹で、北鎌倉では建長寺に並ぶ人気スポットです。
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昨年の秋に撮った円覚寺です。紅葉も人気のお寺ですね。6月中旬になると紫陽花が見頃を迎えます。
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円覚寺は、鎌倉時代の弘安5年(1282年)に鎌倉幕府執権・北条時宗が元寇(2度にわたるモンゴル襲来)の戦没者を敵味方の区別なく平等に追悼するために中国僧の無学祖元を招いて創建した臨済宗の総本山。
山号は「瑞鹿山」です。
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見応えのある印象的な山門は、夏目漱石の小説「門」の舞台にもなっています。かつて夏目漱石や島崎藤村も円覚寺で座禅していたことも知られています。
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仏殿は、昭和39年に再建されています。コンクリート造りですが、元亀4年(1573年)の仏殿指図(設計図)に基づき建てられています。
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ここで、またまた歴史のお勉強です。
円覚寺は、創建以来、北条氏をはじめ朝廷や幕府からの篤い帰依を受け、寺領の寄進を受けながら経済的な基盤を整えてきました。
弘長元年(1261年)の「関興寺文書」には「武蔵国豊島郡江戸郷之前島村」という地名があります。また「円覚寺文書」にも「江戸前島」の寺領が記されていることから、正和4年(1315年)から天正19年(1591年)までの276年間は円覚寺の寺領であったことがわかります。
江戸前島は、現在の地名に直すと、大手町、丸の内、有楽町、日本橋、京橋、銀座、新橋がスッポリと入り、今の東京の中心地だということがわかります。
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円覚寺の寺領「江戸前島」は、後北条氏や秀吉から「安堵状」などを得ていたのですが、徳川家康が江戸入りし、この江戸前島を奪取し、天下普請を行っていったようです。
まずは、江戸前島の付け根に当たるところに「道三堀」(日本橋がかかっている運河)を掘り、「小名木川」、「新川」の沿岸運河を構築し、関東最大の製塩地の行徳までの海上ルートをつくります。
そして、浅瀬で海上交通に適さない日比谷入江を神田山(今の駿河台あたり)を切り崩し、埋め立てることによって大都市・江戸の町が形成されていきました。

円覚寺の梵鐘は、北条貞時の寄進によるもので、正安3年(1301年)の刻銘があリます。鎌倉時代の代表的な形態を表していることから、建長寺の梵鐘とともに国宝に指定されています。
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梵鐘の隣にあるお休み処からは眺める遠景。見えている建物は東慶寺です。
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竹林にニョキッ。
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白鹿洞の前に群生するシャガ。
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方丈の庭園。方丈は本来、住職が居住するところですが、各種行事が執り行われています。方丈の縁側から庭園を見ることができます。
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妙香池は、創建当初からある池で、向こう岸に露出した岩盤を虎の頭に見立てて「虎頭岩(ごとうがん)」と呼んでいます。
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黄梅院は、北条時宗の夫人 覚山尼が時宗の菩提を弔うために建立したもの。
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居士林(こじりん)は禅を志す在家のための専門道場です。東京牛込にあった柳生流の剣道場が寄進移築されたものです。
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江ノ島から円覚寺までの全行程をマップ化しました