河村城は、平安時代末期に築城され、相模・甲斐・駿河三国の境界線が交差する要衝の地に築かれた山城(標高225m)です。現在は、発掘調査が行われ、本丸や廓、畝堀などの遺構が見られる「河村城址歴史公園」として整備されています。石碑には「河村城址」と刻まれています。
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河村城址は、戦国時代、後北条氏の小田原城の支城となっていましたが、豊臣秀吉の小田原攻めによって滅ぼされ、廃城となります。また、それ以前には、後北条氏が甲斐の武田信玄の侵攻に備えていたことも明らかになっています。ですから、築城された平安時代から戦国時代にかけて、常に要衝の城であったことがわかります。
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河村城址歴史公園の入口から階段が続きます。
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本丸の下まで来ました。
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敵兵の侵入を食い止めるために作られた畝堀(障子堀)の遺構がよく分かります。
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本丸には、山城の雰囲気を感じさせる門があります。
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河村城は中世山城の全容を残している貴重な城址です。この平面図は、下の約300年前の「縄張り」の絵図を参考にして作られています。
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本丸は広大な廓(平場)となっています。奥に社と石碑が建てられています。
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人工的に尾根を切断して堀とした「堀切」の上に、調査後、橋が整備されています。
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堀切の下から撮りました。
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堀切は障子堀(畝堀)となっています。
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平成19年に発掘調査した時の畝堀(障子堀)です。後北条氏が武田信玄や豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築いたものと考えられます。
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この写真は、山中城址の畝堀(障子堀)の写真です。東海道を歩いていた時に撮ったものです。
山中城は北条氏が豊臣秀吉の小田原城の侵攻の直前に築城した城で、7万人の豊臣軍に対して、北条側4千人で戦闘を繰り広げ、壮絶な戦いの地となったところです。
今は、養生のため芝がはられていますが、当時は関東ローム層の赤土が剥き出しになっていたので、滑りやすく難攻不落だったと思われます。ですが、豊臣軍の先鋭によりわずか半日で落城した悲劇の城として残されています。
東海道53次の旅「山中城趾」のURLはこちらです。
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発掘調査の折に見つかった竪堀と空堀の跡です。
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発掘調査で明らかにされた廓(平場)の跡が示されています。
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先端が「大庭廓張出」です。
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この場所から、南の方角を眺めます。前方に小田原が見えます。当時は、狼煙を挙げて小田原城と連絡を取り合っていたのかもしれませんね。往時を偲びました。
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河村城趾歴史公園はこちらです。