日曜日に紫陽花で有名な北鎌倉の明月院に行ってきました。
イメージ 1

境内一面に咲く明月院ブルー。
イメージ 2

素敵な紫陽花を見つけました。
イメージ 3

長蛇の列で円窓には近づけません。
イメージ 4

本堂前の枯山水庭園に可愛らしい猫がいました。
イメージ 5

本堂裏の庭園は、花菖蒲と紅葉の時だけ特別公開されています。
イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

明月院なので、月に見立てた石にウサギ。
イメージ 9

裏庭から円窓を撮りました。
イメージ 10
また、紅葉の時期に伺います。
重複して掲載してしまい、ご迷惑をおかけしました。
「大正3年(1914年)、御幸村村会議員の秋元喜四郎は、多摩川の水害に見舞われていた御幸村の農民を救うため、自らがリーダーとなり、近隣農民500人とともに揃いの編み笠を被り、神奈川県庁に大挙押しかけました。後に語られる「アミガサ事件」です。この事件を契機に有吉忠一神奈川県知事は、沿道のかさ上げという形で多摩川に堤防を築きます。」というところまで前回ご紹介しました。
今回は、その続きです。
江戸時代から続いていた多摩川の砂利採掘は、さらにエスカレートし、多摩川沿岸は下の写真のように地形を変貌していきます。深いところは、6メートルも掘られていたそうです。
イメージ 1
大正3年(1914年)のアミガサ事件の6年前、1908年には多摩川の砂利の採掘とその鉄道貨物輸送のため、今日の「東急玉川線」が開業していました。青梅線や相模鉄道など首都圏の鉄道網の発達は、河川敷で採掘した砂利を大都市中心部に輸送することを目的に開業していきます。
そして、不況や水害で立ち行かなくなった農民たちの中には、安い賃金で多摩川の砂利採掘を行う者も現れます。こうした農民たちの苦しみを、川崎郷土・市民劇「南武線誕生物語」では強調されていました。
下の写真は、多摩川の砂利を箱ぶ当時の鉄道です。新しい都市を造るのに砂利は欠かせない物資でした。
イメージ 2

アミガサ事件をきっかけに、多摩川の堤防工事が始まると、秋元喜四郎は、多摩川沿岸の農民の救済事業として、沿岸に砂利運搬を主体とした鉄道建設をつくることを願い、地元の有力者である13人の発起人を立てて鉄道院に請願を行います。その願いが叶って大正9年、「南武鉄道株式会社」を発足させることになります。
しかし、川崎から立川に至る壮大な秋元喜四郎の夢も、シベリア出兵後の不況によって資金(株)が集まらず、鉄道事業も頓挫寸前の危機に陥っていきました。
イメージ 13
そこに登場するのが、上の銅像の主「浅野総一郎」です。幾多の事業に手を出しては失敗し、再び事業を起こすことから「九転十起の男」と言われていた浅野総一郎は、渋沢栄一に目をかけられていました。そして、明治政府から払い下げられたセメント事業を深川清住町で「浅野セメント」(下の写真)という名で開業します。

イメージ 3

同時に、金融界の安田善次郎の協力を得た浅野は、川崎・鶴見間に埋め立て事業を進めていきました。
公害問題で立ち退きを余儀なくされた深川のセメント工場は、この臨海部で開業するようになります。
開業当時、秩父山中で採掘する石灰石を青梅を経て、立川へ、そこから東京を迂回して川崎湾岸にあるセメント工場に運んでいた経路を、立川から南武鉄道で川崎に輸送することで大幅なコストカットが可能となるという目算から、浅野は、資金不足で頓挫寸前となっていた秋元喜四郎らの「南武鉄道株式会社」に対し、資金協力を提案したのです。
下の写真は、大正12年の京浜工業地帯の埋立の様子です。まだ、南武線の路線はありません。
イメージ 4

セメント工場が川崎の臨海部に移設されることで湾岸の漁場を奪われる農民たちは猛反対。同時に、セメント工場からの石灰石の粉塵による公害問題に対して、農民の先頭に立って反対行動をとっていた秋元にとっても、利益を生み出す鉄道を優先にすべきか、公害反対の農民の立場に立つべきかの苦渋の判断をせざるを得ませんでした。
下の写真は、昭和14年の埋立地の様子ですが、東海道線と交差する南武線の路線を確認することができます。
イメージ 5

市民劇「南武線誕生物語」の最終章で、秋元と浅野は、互いに手を握り合い、鉄道建設の道が開かれていくことになります。そして昭和5年4月、南武鉄道は川崎から立川間で開通します。
その開通式典の場で秋山は倒れます。そして、同じ年に浅野もロンドンで倒れ、11月に他界します。二人の夢と周囲の期待で実現した南武鉄道は、埋立地に誕生した工場への人員輸送を主とする「南武線」として今日に繋がっています。下の車両は、当初の南武線の「73系」です。
イメージ 6

この後は、少しこぼれ話となります。
明治30年から昭和8年まで、目黒に「目黒競馬場」があったのをご存知でしょうか。近くには、目黒雅叙園や目黒不動尊があります。
都市化により住宅街がせまり、競馬場の運営が困難になったため移設を余儀なくされました。現在でも、その名残として、下目黒4丁目には、競馬場のコーナーと分かるカーブした道路が点在しています。「元競馬場前」というバス停がある場所は、当時、観覧スタンドが置かれていた場所だそうです。

イメージ 7

かつての場所には、「目黒競馬場跡」の台座に馬のブロンズ像の記念碑が建てられています。
イメージ 8

浅野たちは、南武線を敷設する際に、南武線沿線に娯楽施設の誘致も検討していたようです。実際、「目黒競馬場」の移設にあたっては、府中町が誘致し、南武線の「府中本町」が競馬場の玄関となるのです。その競馬場こそ、現在の「東京競馬場」です。
目黒競馬場が府中に移転されることが決まり、目黒競馬場では、「目黒」の名を長く後世に伝えるため、4歳(現3歳)以上の馬によるハンディキャップ競争として「目黒記念」が創設されました。中央競馬の重賞レースとしても最古とものとされています。
イメージ 9

東京競馬場の近くに、多摩川競艇場があります。この多摩川競艇場や、下の写真にある川崎市の「等々力緑地の釣り公園の池」も、かつて「多摩川砂利採掘」でできた採掘跡を活用して造られたものです。
イメージ 10

イメージ 11

立川と川崎を結ぶ南武線は、川崎駅の手前の尻手駅で「南武支線」の起点駅となり、浜川崎駅まで繋いでいます。そこから、沿岸部の工場に沿って鶴見線が伸びています。
イメージ 14

そして、南武線は、今年90周年を迎えました。
イメージ 12
重複して掲載してしまい、ご迷惑をおかけしました。
「大正3年(1914年)、御幸村村会議員の秋元喜四郎は、多摩川の水害に見舞われていた御幸村の農民を救うため、自らがリーダーとなり、近隣農民500人とともに揃いの編み笠を被り、神奈川県庁に大挙押しかけました。後に語られる「アミガサ事件」です。この事件を契機に有吉忠一神奈川県知事は、沿道のかさ上げという形で多摩川に堤防を築きます。」というところまで前回ご紹介しました。
今回は、その続きです。
江戸時代から続いていた多摩川の砂利採掘は、さらにエスカレートし、多摩川沿岸は下の写真のように地形を変貌していきます。深いところは、6メートルも掘られていたそうです。
イメージ 1
大正3年(1914年)のアミガサ事件の6年前、1908年には多摩川の砂利の採掘とその鉄道貨物輸送のため、今日の「東急玉川線」が開業しています。青梅線や相模鉄道など首都圏の鉄道網の発達は、河川敷で採掘した砂利を大都市中心部に輸送することを目的に開業していきます。
そして、不況や水害で立ち行かなくなった農民たちの中には、安い賃金で多摩川の砂利採掘を行う者も現れます。こうした農民たちの苦しみを、川崎郷土・市民劇「南武線誕生物語」では強調されていました。
下の写真は、多摩川の砂利を箱ぶ当時の鉄道です。新しい都市を造るのに砂利は欠かせない物資でした。
イメージ 2

アミガサ事件をきっかけに、多摩川の堤防工事が始まると、秋元喜四郎は、多摩川沿岸の農民の救済事業として、沿岸に砂利運搬を主体とした鉄道建設をつくることを願い、地元の有力者である13人の発起人を立てて鉄道院に請願を行います。その願いが叶って大正9年、「南武鉄道株式会社」を発足させることになります。
しかし、川崎から立川に至る壮大な秋元喜四郎の夢も、シベリア出兵後の不況によって資金(株)が集まらず、鉄道事業も頓挫寸前の危機に陥っていきました。
イメージ 3

そこに登場するのが、上の銅像の主「浅野総一郎」です。幾多の事業に手を出しては失敗し、再び事業を起こすことから「九転十起の男」と言われていた浅野総一郎は、渋沢栄一に目をかけられていました。そして、明治政府から払い下げられたセメント事業を深川清住町で「浅野セメント」(下の写真)という名で開業します。
イメージ 4

同時に、金融界の安田善次郎の協力を得た浅野は、川崎・鶴見間に埋め立て事業を進めていきました。
公害問題で立ち退きを余儀なくされた深川のセメント工場は、この臨海部で開業するようになります。
開業当時、秩父山中で採掘する石灰石を青梅を経て、立川へ、そこから東京を迂回して川崎湾岸にあるセメント工場に運んでいた経路を、立川から南武鉄道で川崎に輸送することで大幅なコストカットが可能となるという目算から、浅野は、資金不足で頓挫寸前となっていた秋元喜四郎らの「南武鉄道株式会社」に対し、資金協力を提案したのです。
セメント工場が川崎の臨海部に移設されることで湾岸の漁場を奪われる農民たちは猛反対。同時に、セメント工場からの石灰石の粉塵による公害問題に対して、農民の先頭に立って反対行動をとっていた秋元にとっても、利益を生み出す鉄道を優先にすべきか、公害反対の農民の立場に立つべきかの苦渋の判断をせざるを得ませんでした。

市民劇「南武線誕生物語」の最終章で、秋元と浅野は、互いに手を握り合い、鉄道建設の道が開かれていくことになります。そして昭和5年4月、南武鉄道は川崎から立川間で開通します。
その開通式典の場で秋山は倒れます。そして、同じ年に浅野もロンドンで倒れ、11月に他界します。二人の夢と周囲の期待で実現した南武鉄道は、埋立地に誕生した工場への人員輸送を主とする「南武線」として今日に繋がっています。下の車両は、当初の南武線の「73系」です。
イメージ 5

この後は、少しこぼれ話となります。
明治30年から昭和8年まで、目黒に「目黒競馬場」があったのをご存知でしょうか。近くには、目黒雅叙園や目黒不動尊があります。
都市化により住宅街がせまり、競馬場の運営が困難になったため移設を余儀なくされました。現在でも、その名残として、下目黒4丁目には、競馬場のコーナーと分かるカーブした道路が点在しています。「元競馬場前」というバス停がある場所は、当時、観覧スタンドが置かれていた場所だそうです。
イメージ 6
かつての場所には、「目黒競馬場跡」の台座に馬のブロンズ像の記念碑が建てられています。

浅野たちは、南武線を敷設する際に、南武線沿線に娯楽施設の誘致も検討していたようです。実際、「目黒競馬場」の移設にあたっては、府中町が誘致し、南武線の「府中本町」が競馬場の玄関となるのです。その競馬場こそ、現在の「東京競馬場」です。
目黒競馬場が府中に移転されることが決まり、目黒競馬場では、「目黒」の名を長く後世に伝えるため、4歳(現3歳)以上の馬によるハンディキャップ競争として「目黒記念」が創設されました。中央競馬の重賞レースとしても最古とものとされています。
イメージ 7

東京競馬場の近くに、多摩川競艇場があります。この多摩川競艇場や、下の写真にある川崎市の「等々力緑地の釣り公園の池」も、かつて「多摩川砂利採掘」でできた採掘跡を活用して造られたものです。
イメージ 8

イメージ 9

立川と川崎を結ぶ南武線は、川崎駅の手前の尻手駅で「南武支線」の起点駅となり、浜川崎駅まで繋いでいます。そこから、沿岸部の工場に沿って鶴見線が伸びています。
イメージ 10

そして、南武線は、今年90周年を迎えました。
イメージ 11
横浜みなとみらいのパイ専門店「パイホリック」というお店に入りました。オープンして1年以上経った今でも行列ができるほどの人気店でランチタイムのパイ食べ放題が特に人気なようです。場所は、横浜の新港埠頭前のマリン&ウォークの中に入っています。
夕方、赤レンガに行く途中で立ち寄ったのですが、普段、予約しないと入れない「パイホリック」に行列がなかったので、お茶をすることにしました。初めての入店です。
イメージ 1

メニューを見ると、パイの種類が何十種類もあります。ここは、基本メニューのアップルパイとアイスコーヒーを注文することに。ランチもかなり美味しそうでしたよ。周りは女子ばかりです。
今回はfoodieという写真編集アプリを使用してみました。
イメージ 2

イメージ 3

マリン&ウォークには、おしゃれなお店がいくつも入っていて、見ているだけでも楽しいんです。
イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

マリン&ウォークの2階から新港埠頭を撮りました。埠頭には焼津港の船が停泊していました。新港埠頭は大桟橋埠頭の隣にあって、主に中型船舶が停泊しているようです。
以前、練習帆船「日本丸」のハワイ出航の際もここからお見送りしました。
イメージ 8

新港埠頭の隣には、赤レンガ倉庫があります。ここは赤レンガ倉庫の2階の外廊下です。日曜日の夕方でしたが、空いていました。
イメージ 9

今まで気がつきませんでしたが、赤レンガ倉庫の前にある花壇というか、植え込みのところは、「旧税関事務所の遺構」だったんですね。知りませんでした。
イメージ 10

関東大震災で倒壊してしまった関税事務所は復旧されないまま埋め戻されていたようで、赤レンガ倉庫の整備をしていた時に遺構が見つかり、土台となるところをうまく活用して花壇にしているようです。
イメージ 11
「パイホリック」の場所はこちらです。
多摩川の度重なる大洪水に対し、大正3年(1914年)9月16日未明、アミガサを付けた農民500人は、神奈川県知事に対し多摩川築堤の「大挙陳情」を決行します。
その経過は、アミガサ事件の集結場所「八幡大神」(南武線平間駅から5分ほど)境内の高札(解説板)に詳しく書かれています。
イメージ 10
(解説板から)
「1914年(大正3年)9月16日のこと、野良着姿の一団が道を急いだ。麦飯のむすびを包んだ風呂敷をはすに背負い、全員がアミガサを着けていた。出水の鶴見川を必死に渡り、厳しい警察の警戒線にもたじろかず、ひたすら県庁を目指した。
当時はまだ、大勢で行動することは許されなかったため、一行は県庁近くの横浜公園に集められてしまい、目指す県庁には達することはできず、各村の代表だけが知事との面会を許された。代表らは、水害の苦難を口々に訴え、築堤の早期施行を強く嘆願した。
しかし、県知事は、「大挙陳情の不穏当」を説諭するだけで、何ら具体的回答を示さなかった。それを聞いた一行は、知事の誠意のない態度に憤慨したが、リーダーたちの説得になだめられ、帰村することにした。
その3日後、多摩川築堤期成同盟会が結成され、さらに築堤運動が活発に推し進められることになった。それは、やがて、道路かさ上げの代用堤防となった有吉堤築造を実現し、ついには国の本格的築堤工事を導いたのだ。以後、多摩川からは、1974年の狛江水害を除いて大水害は姿を消し、沿岸住民の悲願は、ここに達成された。」

「八幡大神」から多摩川と平行している道路をしばらく歩くと、下の写真にある「中丸子児童公園」に着きます。道路から公園を見るといくらか高低差が見られます。これが、解説板にある「道路をかさ上げした代用堤防となった『有吉堤』」なのです。
イメージ 7

公園には、「有吉堤竣工百年の碑」が建てられています。公園側から見ても、道路がかさ上げされているのがわかります。有吉堤は約2.2キロにわたって造られています。そして、代用堤防には、建設に尽力した当時の有吉忠一県知事の名前が付けられているのです。
イメージ 8

有吉堤が竣工したのは、大正5年(1916年)。竣工から100周年に当たる平成28年(2016年)10月30日に遺構が残るこの地に建立されました。
イメージ 1

アミガサ事件当時の石原県知事は代表者だけに会い、大勢で押しかけたことに対して説諭する有様でした。やがて、有吉忠一県知事に代わると、すぐに調査が行われ、「道路改修に名を借りた代用堤防」を県費負担で工事着工に踏み切ります。対岸の東京都側住民は、水害が激しくなることを危惧し、築堤反対運動を起こします。その結果、国(内務省)は工事差し止め命令を出したのです。
ところが、有吉県知事は、命令をあえて無視し、「堤防の新設」に当たらない沿道のかさ上げによる代用堤防の工事という主張をし、ついに完成させたのです。
先に出された国の中止命令を無視したことで、後に有吉県知事は始末書を書かされ、譴責処分を受けました。後年、この処分を「県民のための公利を計った」のだから、「名誉な譴責だ」と有吉は回顧しています。
イメージ 2

この地図は、明治39年測図に赤線で有吉堤を示したものです。
イメージ 3

この地図は、現在の地図上の有吉堤です。
イメージ 4

この有吉県知事の偉業は各地に飛び火し、「多摩川改修請願運動」となり、「多摩川改修工事」へと結びついていきました。その後、二子玉川付近から東京湾河口までの22キロにわたる治水工事が行われることになります。
東急東横線「多摩川」駅を降り、多摩川方面に向かうと「多摩川浅間神社」があります。神社傍には「多摩川治水記念碑」が建てられています。
イメージ 5

イメージ 6

有吉神奈川県知事はその後、任期を終え、兵庫県知事、朝鮮総督府正務総監を経て、大正14年(1925年)に横浜市第10代市長に就任します。
大正12年(1923年)9月1日に起きた関東大震災は、横浜港にも壊滅的な被害をもたらしましたが、横浜市長に就任した有吉忠一市長によって復興事業が強力に推し進められたと言われています。道路、河川運河、橋梁、病院、学校などの整備に加え、「山下公園」「神奈川公園」「野毛山公園」「横浜公園」の4公園はこの時に整備されています。
イメージ 9
次回は、再び「秋元喜四郎」さんにご登場願うことにいたします。ようやく、次回、「南武線」の名前が出てくる予定です。