縁結びと健脚祈願の川越神社を後にして、川越大師 喜多院に向かいます。
喜多院はの場所はこちらです。
途中歩いていると、まるでフランス人が経営しているかのような自動車整備工場の看板があったので撮ってみました。
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突き当たりを右に曲がると、川越名物の鰻の人気店の一つ「いちのや」さんがあります。
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しばらく進むと、川越大師「星野山(せいやさん) 喜多院」があります。
とりわけ徳川家とゆかりの深いお寺で、江戸城から移築された「家光誕生の間」や「春日の局化粧の間」を見ることができます。江戸城の建物が最も残されているのは川越なんですね。
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山門(寛永9年建立)
寛永15年(1638年)の川越大火を免れた喜多院で現存する最古の建物です。天海僧正により建立されています。

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境内には、多くの重要文化財があります。
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慈恵堂(県指定有形文化財)
慈恵大師と慈眼大師を祀った堂舎で、一般には「大師堂」と呼ばれています。
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慈眼堂(重要文化財)
慈眼大師天海を祀る建物です。厨子に入った天海僧正の木像が安置されています。
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仙波東照宮(重要文化財)
家康の遺骸を日光に運ぶ途中に喜多院で法要を行ったことから、日本三大東照宮のひとつとして建てられています。
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多宝塔(県指定有形文化財)
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鐘楼門(重要文化財)
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徳川家康の信任を得ていた天海僧正が第27世住職になると、幕府からの厚い庇護を受け、江戸城から豪華な壁画や墨絵で装飾された「客殿」と呼ばれる家光誕生の間や、3代将軍家光の乳母として知られる春日局が使用していた「書院」と呼ばれる春日局化粧の間などが移築されます。現在、拝観(400円)することができます。
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客殿(家光誕生の間)から中庭を撮りました。
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慈恵堂に繋がる廊下
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慈恵堂から、三代将軍家光が誕生した客殿を撮りました。
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拝観のコースの一部に五百羅漢があります。
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それぞれ表情が異なり見ていて飽きません。
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喜多院の南西の方角に「どろぼうばし」があります。この橋には、こんな言い伝えがあります。
「その昔、町中で泥棒をはたらいた者が、町奉行の捕り方に追われ、橋を渡り、喜多院の境内に逃げ込みました。泥棒は喜多院と東照宮の境内が御神領で、江戸幕府の御朱印地でもあり、川越藩の町奉行も捕まえることができないことを知っていたのでした。しかし、泥棒は寺男たちに捕らえられてしまい、厄除元三大師に心から罪を許してもらえるように祈り、すっかり改心して善人になりました。
そこで寺では幕府の寺社奉行にその処置を願い出たところ、無罪放免の許しが出、その後町方の商家でまじめに働き、一生を過ごしたということです。それ以来、この橋を『どろぼうばし』と呼ぶようになったということです。」
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2007年3月28日、天皇・皇后両陛下が、スウェーデン国王陛下・王妃陛下と共に喜多院をご訪問ご視察されました。山門を出たところに石碑があります。
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日枝神社は喜多院の鎮守社で、もともとは喜多院の境内にあったのですが、現在は喜多院山門の道路を隔てた反対側にあります。この道路は大正期に古墳を開削してできたもので、古墳の上にはかつて多宝塔(現在は喜多院境内に移築)がありました。
あの東京「赤坂の日枝神社」は、江戸城築城の際に太田道灌によってここから分祀されたと伝えられています。
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いよいよ、次回は川越城大手門に到着します。(続く)
今回は、埼玉県ふじみ野市から川越市内までご案内します。コースはこちらです。
国道から分かれ、旧街道を進んでいくと「角(かど)の常夜灯」があります。

大山道と川越街道が交差していました

神奈川県丹沢山地の霊峰大山の阿夫利(あぶり)神社への参詣のため、江戸時代後期の享和2(1802)年に建てられたものです。
左側面には「大山 武蔵野地蔵(むさしのじぞう) ところさわ 街道」と刻まれ、道標を兼ねていたのがわかります。
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ふじみ野市亀久保にある地蔵院は、武蔵野地蔵尊とも呼ばれ、鎌倉末期に再興された祈願寺です。
江戸時代には、参勤交代の折に休憩所として使用されていました。
この地蔵院には有名な「しだれ桜」があります。
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復活した地蔵院のしだれ桜

地蔵院境内のしだれ桜は、春の彼岸に花を咲かせる江戸彼岸桜(えどひがんざくら)の変種で、その樹齢は350年前後と推定されています。樹齢の割に、樹木の緑に勢いを感じました。
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通常のしだれ桜の樹齢は300年程度といわれ、このしだれ桜も一時樹勢に衰えが見られたそうなんですが、下の写真でお分かりの通り、樹勢回復の措置がとられました。やや白い木肌の部分です。(この写真はお借りしました)
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すると、このように勢いのある江戸彼岸桜が復活したのです。
春にもぜひ再訪したいと思いました。(この写真はお借りしたものです)
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しばらく歩くと,「開明地蔵大菩薩」があります。
近くに刑場があったので、通称「首切り地蔵」と呼ばれています。
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しばらく緩やかな坂を上がります。坂の名前は「鳥頭坂(うとうざか)」と言います。階段を上がると熊野神社があります。
川越に荷物を運ぶために通らざるを得ない難所とされていました。文明18年(1486年)ころ書かれた「廻国雑記」に「うとふ坂こえて苦しき行末をやすかたとなく鳥の音もかな」と歌われています。
現在では、それほど勾配のある坂ではありませんが、当時は急坂だったのでしょう。
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鳥頭坂を登り切ると旧道は高架になった国道254号線と合流します。いよいよ川越市内に入ります。高架の下にはJR川越線、東武東上線が通っています。
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古墳の宝庫だった川越

川越街道から少し離れた場所に、6世紀中頃につくられた浅間古墳があります。古墳の上には、「仙波浅間神社」があります。
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浅間神社の階段の下に「占肩乃鹿見塚(うらかたのししみづか)」という古墳の石碑があります。この古墳自体は東武東上線の開通に伴う工事で壊されたため、石碑をこの場所に移設しています。
古代の歌集「万葉集」巻十四に「武蔵野に占へ肩灼きまでにも告らぬ君が名うらに出にけり」という歌があります。古代の人は何かあると鹿の肩の骨を焼いて吉凶を占ったそうですが、万葉集の歌はその時の様子を読んだ歌であり、その場所がこの占肩の鹿見塚だと言われています。
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アスリートが参拝するパワースポットの川越八幡宮

しばらく、川越街道を進むと「川越八幡宮」があります。
この神社は、縁結び、子宝、安産のパワースポットとして有名なのですが、境内には、「民部稲荷神社」があり、腰痛平癒と健脚祈願のパワースポットでもあるのです。
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境内には大きなイチョウの木があります。御神木として植えられ、もともとは2つの木であったのですが、徐々に寄り添い1つの木になったという不思議な木なのです。
そのため、そのイチョウの木は「縁むすびの木」として崇められるようになり、以後縁結びを願う人が絶えず訪れる場所となったそうです。
それだけでなく、やがて木と木の間から乳(木根)という命が誕生したのです!その乳に触れると子宝、安産に恵まれると言われています。
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民部稲荷神社は、特に足腰の健康にご利益がある神様です。
早速、念入りにお詣りしました。「熱中症にならないで、街道歩きができますように!」と。
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健脚祈願にご利益があることから、多くの陸上競技選手がお詣りにきています。
社務所の壁には何枚もの色紙が貼られていました。
2010年に箱根駅伝で優勝した東洋大学駅伝チームや、下の写真にあるように100メートルの桐生選手も参拝に来ています。
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私も足腰健康の御守をいただきました。
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いよいよゴールが近づいてきました。(続く)
「川越街道を歩く」の2日目は、新座駅からのスタートです。今回歩いたコースはこちらです。

新座駅発車メロディーは「鉄腕アトム」

川越城大手門跡まで、あと20キロほどなので、少し、新座駅周辺を散策してから出発することにします。
新座駅の改札を出ると目にするのがあの懐かしい「鉄腕アトム」です。
新座市には「手塚プロ新座スタジオ」があるのです。それがご縁で市はアトムに特別住民票を発行しています。そして、なんと新座駅の発車メロディーは『鉄腕アトム』なんです。羨ましい! 懐かしい!
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川越街道から離れてしまいますが、折角なので「野火止用水」を見にいきます。多摩川の二ヶ領用水や六郷用水の開削の様子をプログで紹介してから、どうも用水が気にかかるようになりました。途中の道端で鈴なりの栗の木を見つけました。
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松平信綱が命じた野火止用水

野火止用水は、承応4年(1655年)に川越藩主松平信綱が生活用水の確保のため開削した用水路です。
今も野火止台地に清らかな流れを潤し続けています。
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「野火止公園」の一角には石碑が建てられています。
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鬼鹿毛(おにかげ)の馬頭観音の伝説

再び、川越街道に戻ります。緩やかな下り坂をしばらく歩くと元禄9年(1696年)に建立の「鬼鹿毛(おにかげ)の馬頭観音」があります。
案内板には「鬼鹿毛の伝説」が書かれていました。
「昔、秩父の小栗という人が江戸に急用があって愛馬「鬼鹿毛」に乗り道を急ぐ途中、この場所で松の大木の根につまづき倒れてしまいました。しかし、直ぐ起きて、主人を目的地まで届けます。所用を終え、馬を止めた場所に行くと、その姿が見えません。やがて、先ほど愛馬が倒れた場所に戻ると、亡きがらとなっていました。鬼鹿毛は主人のため、亡霊となって走り続けたのです」
村人は、名馬「鬼鹿毛」の霊を弔って馬頭観音を建てました。
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大和田宿を出るとすぐに柳瀬川。 かつては土橋が架かっていたと言います。
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国道254号線英インターを越えます。
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跡見学園女子大学のキャンパスがあります。
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しばらく歩くと、けやき並木が見えてきます。これほど街路樹がありがたいと思ったことはありません。すでに気温32度を指しています。
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三芳町に入ります。
川越街道ではこうした庚申塔をいくつも見かけます。
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けやき並木と共に、美しい松並木が続きます。
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いつの間にか、けやき並木や松並木はなくなり、歩道もない道路となっていました。
ここが川越街道への最後の宿場「大井宿」の木戸の跡です。
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川越街道から少し離れたところに、「弁天の森」と昔から呼ばれている場所があります。
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武蔵野台地を潤した大井戸の跡

その近くに、「大井戸跡」の碑が建てられています。武蔵野台地の地下水は厚い関東ローム層の下にあるため、住民は地下水が得られず生活用水に困っていました。
この場所は関東ローム層が削られ、砂礫層となっており、大井戸を設けるのに適した場所でした。
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川越街道に面して「徳性寺」があります。
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徳性寺には、「弘安の板碑(板石塔婆)」があります。この板碑は、北九州に元が侵攻した弘安の役(元寇)が起きた弘安4年(1281年)の銘が記されている完形品です。
鎌倉街道と伝えられる古道から出土し、この徳性寺に移されたと言われています。
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大井宿は、川越街道の六宿場(大井・大和田・膝折・白子・下練馬・上板橋)の一つとして、川越城大手門から二里半の道程にありました。元々はここより東方にあった村を江戸時代に入って宿場をつくるために移住させられた歴史があります。
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本陣跡の近くに「旧大井村役場」があります。国の登録有形文化財になっています。
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川越街道を東に面して建てられた庁舎建築で,現在は小学校の敷地内になっています。
2階建、寄棟造で、棟中央に塔屋を載せ、1階を事務室、2階を会議室等に用いていました。装飾 の少ないシンプルな外観ですが、地域の近代化を物語る建物として大切に保管されています。
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(続く)
今回は下練馬宿から出発して、新田宿、白子宿、膝折宿を巡ります。コースはこちらです。
下練馬宿を抜けると、旧川越街道は再び国道と合流します。
地下鉄赤塚駅出入口脇に馬武者像があります。台座には、「鎌倉古道 至かまくら 至はやせ」と記されています。国道と交差している細い道は鎌倉古道だったようです。
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「小治兵衛窪」の名前の起こりには、次のような伝説があります。
「昔ここを流れていた百々向(すずむき)川に一本の丸木橋が架けられていた。とてもさびしい場所で、毎晩のように強盗が出没し、通行人から恐れられていた。
ある朝立派な橋が架け替えられていて、橋のてすりに「たくさんの悪いことをしたので、罪ほろぼしにこの橋を造る。小治兵衛」と書かれた木札が下げられていた。その後は便利になったばかりか強盗も出なくなった」

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新田宿の石造物群

成増を過ぎると、国道254号は急坂となります。白子川を作る谷合いに向かう新田坂(しんでんざか)です
途中にある「八坂神社」には新田坂周辺に点在していた石地蔵、常夜灯、道祖神などの石造物が集められています。赤い帽子とよだれ掛けをした石造物は子育て地蔵です。
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道祖神は、区内唯一のもので、文久3年(1862年)に建立されました。常夜灯には、「大山」と刻まれていることから、道標を兼ねていたことがわかります。
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新田坂の八坂神社の周辺は新田宿と呼ばれていました。この社の近くに石造物群が置かれています。
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新田宿に残る旧家は、良く手入れが施されているようです。
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白子橋と童謡「くつが鳴る」

白子川に架かる「白子橋」の欄干には、童謡「くつが鳴る」のプレートが掲げられています。
「くつが鳴る」を作詞した清水かつら(本名・桂)は、明治31年(1898年)7月1日に東京本所小名木川(現在の東京都江東区深川)で生まれました。関東大震災で家屋・家財を失ったかつらは、母の実家のある白子村(現和光市白子)に移り住み、「雀の学校」など多くの童謡を残しています。
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「ハゲェー」で時の人になってしまった豊田真由子氏の選挙区でありました。
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「白子宿通」の中程に、白子の鎮守「熊野神社」があります。往時の賑わいを感じさせるような、荘厳な本殿と境内が広がっています。
白子の地名は、渡来人の「新羅」に由来し、この先にある「志木」、「新座」なども渡来人に由来する地名です。
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長屋門を構えた立派な旧家が残っています。
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後北条氏の直轄地「白子宿」

白子宿の「大坂」です。長い坂が続きます。
白子宿は後北条氏が支配していました。後北条氏は、天正15年(1587年)の文書で白子宿で月に6回楽市を開くことを命じています。また、この地は、軍事的にも、江戸城・川越城・松山城・鉢形城を結ぶ幹線道路の役割を持っていたそうです。
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朝霞警察署の辺りから「膝折宿」となります。馬の膝が折れるほどの急坂だったことが由来とされています。
旧道を右に入ると「一乗院」あります。渡来人の「高麗氏」の開基と伝えられています。
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脇本陣が残る膝折宿

旧道に戻ると、膝折宿中宿の「高麗家住宅」(脇本陣「村田屋」・旅籠)があります。
室町時代からの古い宿場で、江戸時代末には、川越街道の宿場として特産品を売る市が開かれていました。
建物は、天明期(1772~1789年)に建てられたもので、当時の旅籠の建築様式が残されている貴重な文化財です。
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黒目川に架かる大橋を渡り。新座市に入っていきます。釣り人がいます。
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川越街道の路面に面して、「八雲神社」が鎮座しています。
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川越まで20キロとなりました。無理をせず、武蔵野線の「新座駅」で1日目の街道歩きを終えることにしました。
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2017年7月25日(火) 8:00-14:30 板橋区役所前駅~新座駅 22キロ 

(続く)

板橋城の風格漂う「長命寺」

前回ご紹介した石神井川を下頭橋(げとうばし)で渡り、旧川越街道の「下頭橋通り」から、「下練馬宿」周辺を巡ります。今回のコースはこちらです。
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曲がりくねった下頭橋通りを進むと、国道254号線と環七通りが交差する場所に出ます。その交差点の斜向かいにあるのが「長命寺」です。石垣があり、石段を上った先の高台に本堂があります。
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過去帳から江戸時代初期から創建されていたことが確かめられていますが、北条氏配下の板橋氏の城「板橋城」ではないかと言われています。
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国道に残る「五本けやき」の謎

そのまま、国道245号線を進むと、国道の真ん中の中央分離帯に大きなけやきが5本見えてきます。
戦前、国道を通す際、この場所に屋敷を持っていた当時の村長が、庭にあったこのけやきを残すことを条件に土地の買収に応じたという由来があるようです。
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史跡が賑わう下練馬宿

国道から右に分かれる道があります。下練馬宿があった旧川越街道です。
まだ午前10時頃なので商店街を道行く人の姿は多くありませんが、活気がありそうな昔ながらの商店街が続きます。
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交差点の真ん中に馬頭観音

商店街の路地に入ると、道路の中央に馬頭観音のお堂が建っています。両側には道標が置かれています。地元の皆さんの畏敬の念を感じる光景ですね。
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大山道と交差する川越街道

旧川越街道と大山道が交差する場所があります。そこには、不動明王像の「下練馬の大山道道標」が建てられています。
不動明王像の台座正面には「従是大山道」、左面には、建立された日と「ふじ山道 田なし 三里 府中え 五里」の文字が刻まれています。
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将軍綱吉の鷹狩り御殿もあります

再び旧川越街道から路地に入ります。区立北町小学校角の田柄川緑道に面して「徳川綱吉御殿跡之碑」が建てられています。寛永通宝を型どった石碑なのですぐ目につきます。
この付近一帯は、かつて「御殿」と呼ばれた土地だったそうです。
江戸幕府第5代将軍の徳川綱吉が寛文年間(17世紀後半)にこの地を鷹場として「鷹狩御殿」を建てたことに由来しています。
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旧川越街道に戻ります。赤い提灯と「阿波おどり」の垂れ幕が賑やかです。もうすぐ夏祭りですね。
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旧川越街道から路地に入ったところに「阿弥陀堂」があります。ここには農業用水の「千川上水」を造った千川家歴代の墓があります。
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富士山山頂からの眺め

再び、旧川越街道に戻ります。下練馬宿の中程に富士塚のある北町浅間神社があります。
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折角なので、下練馬の富士山登頂を目指します。
江戸時代から築造されていたものだそうで、富士山信仰がブームの頃、行けなかった人たちが登られたのものです。富士山の溶岩で丁寧に作られています。
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富士山山頂に到着しました。標高は37.76m。本物の100分の1というのが売りのようです。
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富士山山頂からの眺めです。高所恐怖症なものですから、結構高いのにびっくり。
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商店街の建物に貼り出されていた江戸時代の下練馬宿の面影。
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多くの石仏が並ぶ北町聖観音堂

東武練馬駅の近くに「北町聖観音堂」があります。観音堂の北町聖観音坐像は台座を含め270センチメートルあり、背面には、1682年(天和2年)制作と刻まれています。
台座には、川越街道沿いの29の地名が刻まれていることから、広く信仰があったことがわかります。
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上は北町聖観音坐像、下は仁王像です。
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塀沿いには、庚申塔などの石造物が建てれています。
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(続く)