今回は下練馬宿から出発して、新田宿、白子宿、膝折宿を巡ります。コースはこちらです。
下練馬宿を抜けると、旧川越街道は再び国道と合流します。
地下鉄赤塚駅出入口脇に馬武者像があります。台座には、「鎌倉古道 至かまくら 至はやせ」と記されています。国道と交差している細い道は鎌倉古道だったようです。
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「小治兵衛窪」の名前の起こりには、次のような伝説があります。
「昔ここを流れていた百々向(すずむき)川に一本の丸木橋が架けられていた。とてもさびしい場所で、毎晩のように強盗が出没し、通行人から恐れられていた。
ある朝立派な橋が架け替えられていて、橋のてすりに「たくさんの悪いことをしたので、罪ほろぼしにこの橋を造る。小治兵衛」と書かれた木札が下げられていた。その後は便利になったばかりか強盗も出なくなった」

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新田宿の石造物群

成増を過ぎると、国道254号は急坂となります。白子川を作る谷合いに向かう新田坂(しんでんざか)です
途中にある「八坂神社」には新田坂周辺に点在していた石地蔵、常夜灯、道祖神などの石造物が集められています。赤い帽子とよだれ掛けをした石造物は子育て地蔵です。
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道祖神は、区内唯一のもので、文久3年(1862年)に建立されました。常夜灯には、「大山」と刻まれていることから、道標を兼ねていたことがわかります。
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新田坂の八坂神社の周辺は新田宿と呼ばれていました。この社の近くに石造物群が置かれています。
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新田宿に残る旧家は、良く手入れが施されているようです。
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白子橋と童謡「くつが鳴る」

白子川に架かる「白子橋」の欄干には、童謡「くつが鳴る」のプレートが掲げられています。
「くつが鳴る」を作詞した清水かつら(本名・桂)は、明治31年(1898年)7月1日に東京本所小名木川(現在の東京都江東区深川)で生まれました。関東大震災で家屋・家財を失ったかつらは、母の実家のある白子村(現和光市白子)に移り住み、「雀の学校」など多くの童謡を残しています。
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「ハゲェー」で時の人になってしまった豊田真由子氏の選挙区でありました。
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「白子宿通」の中程に、白子の鎮守「熊野神社」があります。往時の賑わいを感じさせるような、荘厳な本殿と境内が広がっています。
白子の地名は、渡来人の「新羅」に由来し、この先にある「志木」、「新座」なども渡来人に由来する地名です。
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長屋門を構えた立派な旧家が残っています。
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後北条氏の直轄地「白子宿」

白子宿の「大坂」です。長い坂が続きます。
白子宿は後北条氏が支配していました。後北条氏は、天正15年(1587年)の文書で白子宿で月に6回楽市を開くことを命じています。また、この地は、軍事的にも、江戸城・川越城・松山城・鉢形城を結ぶ幹線道路の役割を持っていたそうです。
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朝霞警察署の辺りから「膝折宿」となります。馬の膝が折れるほどの急坂だったことが由来とされています。
旧道を右に入ると「一乗院」あります。渡来人の「高麗氏」の開基と伝えられています。
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脇本陣が残る膝折宿

旧道に戻ると、膝折宿中宿の「高麗家住宅」(脇本陣「村田屋」・旅籠)があります。
室町時代からの古い宿場で、江戸時代末には、川越街道の宿場として特産品を売る市が開かれていました。
建物は、天明期(1772~1789年)に建てられたもので、当時の旅籠の建築様式が残されている貴重な文化財です。
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黒目川に架かる大橋を渡り。新座市に入っていきます。釣り人がいます。
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川越街道の路面に面して、「八雲神社」が鎮座しています。
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川越まで20キロとなりました。無理をせず、武蔵野線の「新座駅」で1日目の街道歩きを終えることにしました。
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2017年7月25日(火) 8:00-14:30 板橋区役所前駅~新座駅 22キロ 

(続く)