今日から川越街道を歩きます。今回は上板橋宿がメインとなります。ルートはこちらです。
川越街道は、板橋宿と川越を結ぶ街道で、太田道灌が江戸城と川越城を結ぶために整備したと言われています。中山道が江戸時代になって整備されるまでは、川越街道が江戸北西のメインの街道でした。
朝のラッシュに巻き込まれないように、6時4分の鶴見線に乗り、田町駅で都営三田線に乗り換えます。7時25分に板橋区役所前駅に到着しました。
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まずは、駅前の「とんかつ松乃家」で朝定食(豚汁定食 400円)をがっつり食べます。
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朝食を済ませて元気が出てきたところで、さぁ出発です。今日も朝から猛暑の気配。
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東武東上線の大山駅近くの踏切です。朝のラッシュに入ったのか、4本の電車を見送りました。正面に見えるのは、「ハッピーロード大山商店街」のアーケードです。このアーケードも旧川越街道です。
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国道(川越街道)に合流するところに、「大山福地地蔵尊」が今も大切に祀られています。
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国道の右側にある細い路が旧川越街道です。上板橋宿だったところです。
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右角の辻に庚申塔があります。こちらも綺麗に整備されていますね。
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旧街道旧街道から少し離れたところに「轡(くつわ)神社」があります。源頼朝のものとも、徳川家康のものとも言われる轡が納められたと伝わります。
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「百日咳」にご利益があるそうで、願をかける人は、社前のわらじを持ち帰り、治ったら新しいわらじを奉納するそうです。
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旧街道に戻るところの辻に「防災辻公園」という広場があります。
青いポンプの井戸も置かれていて、町内会の防犯拠点になっているのですね。
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旧街道に面して「豊敬(とようけ)稲荷」があります。
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旧街道沿いには、旧家も見られます。
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石神井川のたもとに、「六蔵祠」があります。この橋は1798年(寛政10年)に石橋に架け替えられましたが、その資金は、この橋のたもとで暮らしていた物乞いの六蔵のものだったという伝説があります。
六蔵が行き倒れて、のちに持ち物を調べたところ大金を持っており、その金で橋を架け、徳を称えたと言います。
この石神井川までが上板橋宿です。
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(続く)
今から、ちょうど7年前に、盛岡に仕事で行くことがありました。仕事を終え、レンタカーを借りて、盛岡から、遠野に行き、三陸の海岸線を通り、宮古から早池峰山を抜けて戻ってくるという旅でした。
盛岡から見た岩手山がとても綺麗でした。ちょうど、東日本大震災の半年前のことでした。
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新幹線を降りて、盛岡駅近くの「ぴょんぴょん舎」で頂いた冷麺の味が忘れられずに、今でも時々、銀座3丁目にあるギンザ・グラッセ11階の「ぴょんぴょん舎」で冷麺を食べにわざわざ行っています。
今日も、久しぶりに行ってきました。14時30分を過ぎていましたが、長蛇の列です。今回案内されたのは、東向きの窓側の席でした。
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折角なので、焼肉付きのランチを注文しました。肉は水沢牛だそうです。
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「ぴょんぴょん舎」の冷麺は、他にもまして、麺の弾力が強いように感じます。また、麺に乗せられた一切れのスイカが甘いんてす。キムチとの相性も抜群です。
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その足で、東京スカイツリーに行ってきました。今度、栃木方面に行ってみようかと思っているのです。
そこで、一足先に栃木方面の生情報を得たくて、栃木のアンテナショップ「とちまるショップ」がある東京スカイツリーまで足を伸ばしたというわけなんです。
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栃木のアンテナショップ「とちまるショップ」は、ソラマチ4階のイーストヤードの一角にあります。店内には、パンフレットやお土産品などが豊富に揃っています。
スカイツリーには「すみだ水族館」や「コニカミノルタプラネタリウム天空」もあるので、夏休みに入った親子連れと外国人旅行客が目につきました。
大きな買い物袋を持たされて(持って)、ベンチで休んでいるお父さんの姿もチラホラ。
猛暑日の過ごし方の一つに、加えても良さそうですね。
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おしまい
「中原街道を歩く」の最終回です。今回のコースはこちらです。
相模川は神川橋を歩いて渡ります。江戸時代には橋が架けられていなかったため、「田村の渡し」で相模川を渡っていました。
欄干に何本も建てられている柱は、渡し舟の「櫂」をイメージしたものです。
遠景には、雲を被った大山が見えていますが、天候によっては、富士山、箱根まで眺望できるそうです。
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神川橋の中央から相模川の下流、南の方角を眺めます。中央に見える小高い山は、「湘南平(高麗山)」です。麓に私の実家があります。
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向こう岸に渡ると、「田村の渡場跡」の石碑が橋の袂にあります。
田村の渡しは, 中原街道と大山道の二つの往還の渡しでした。 中原街道は中原村と江戸を結んだ脇往還で, 大山道は藤沢・江ノ島からの 大山参詣のために使われた道です。
渡し場のある田村は, この両往還と 平塚から厚木へ向かう 八王子道が交差する所で, 旅籠屋などもあり「田村の宿」とも呼ばれていました。
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「田村の渡場跡」の近くに「八坂神社」があります。
創建は、社伝によると 延暦年代(平安時代)には社殿があり、鎌倉時代には、四代将軍藤原頼経や三浦義村が寄進、 社参したと伝えられています。
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田村の辻を左折し、しばらく行くと右手に妙楽寺があります。足利基氏が開基で、山門が二階建てで見事なもの。このあたりは妙楽寺の門前で馬継の場所であったと言われています。
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すぐ角に「田村駒返し跡の碑」があります。家康が鷹狩に来た時、大雨の後で道がひどく悪かったので田村の人たちが畳を出して運行の便宜を図ったので、家康は田村の人たちの苦労をおもんばかって、馬を返したと言う伝説があります。庚申塔や道祖神も並んでいます。
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徳川家康の伝説が残る「駒返橋の跡」を通り、南に進むと、「ゑの木處一里塚跡の碑」が建っています。一里塚跡碑には、「南 中原道 北 奥州道」と記されています。
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平塚に入ってから旧中原街道が途中で分断されている箇所がいくつもありました。多くは工場が建てられていた場所です。推測ですが、平塚は空襲により多くの被害を受けていたので、街の再開発により、戦後に入って旧道が失われたのではないかと感じました。
平塚市の中原に入ってからは、旧街道の名残を感じさせる道が続きます。
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角に庚申塔が建っています。右折して先の団地の横を左折していくと、真土神社の脇に出ます。
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真土神社でお参りをします。
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真土神社の境内を抜け、しばらく道なりに歩くと、比較的新しい「中原街道」の石碑があります。説明文に中原街道の謂れが書いてありました。
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その隣に「真土大塚山 神獣鏡の碑」があります。「真土神社の北西400メートルにあった真土大塚山には、かつて古墳時代前期の古墳があり、昭和10年にそこから神獣鏡が出土した」と書かれていました。
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旧中原街道を進みます。
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中原街道にかつて谷川という用水路(谷川堀)が流れていました。そこにかかっていたのが、写真の石造の谷川橋です。江戸時代にすでにかかっていたことから、中原御殿との関係も考えられます。
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「中原宿高札場跡」は、中原御殿の大手門と中原街道の交わる場所に建てられていました。
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ようやく「相州中原御殿乃碑」に着きました。ゴールです。
解説版には、「この地は、慶長年間、江戸に幕府を開いた徳川家康公が旅の宿(やどり)として造営した相模国大住郡中原御殿のあとである。またの名を雲雀野御殿ともいい、家康公が鷹狩り 江戸と駿府往来の途次に宿泊した。明暦3年、60有余の歳月を経た御殿は惜しくも引き払いとなり、中原を去った」と書かれています。
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現在、この場所は平塚市立中原小学校となっています。
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この場所から神奈中バスに乗り、平塚駅に行きました。平塚は、昔、7年間ほど住んでいたこともあり、懐かしい場所です。平塚駅の名物「都まんじゅう」をお土産に家路に着きました。
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1日目 7月 3日(日) 虎ノ門~丸子の渡し 24キロ
 2日目 7月 6日(木) 丸子の渡し~二ツ橋 26キロ
 3日目 7月14日(金) 二ツ橋~中原御殿  36キロ
中原街道の全コースはこちらです。
最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
 (完)
3日目の第二幕です。今回のルートはこちら。
用田の辻を過ぎるとなだらかで真っ直ぐな道が続きます。
お昼の時間に差し掛かったところで、中原街道沿いにある「山田うどん」で昼食です。辛子の効いた冷やし中華(560円)を食べ、元気を取り戻しました。
「山田うどん」の前には立派な長屋門のお宅がありました。
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金網に囲まれている塚は、十三塚(おこり塚)と言われているものです。
十三塚は、岩手から鹿児島まで日本中に広く存在している中世の塚で、戦死者を供養するためのものだとか、十三仏との関係など諸説ありますが、定かではありません。
この塚は、室町から戦国時代に築造されたものだそうです。
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十三塚は、街道沿いにいくつも並んでいるのが特徴です。
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しばらく歩き、相模線の「寒川駅」近くにある踏切を渡ります。
その先に「景観寺」があります。寒川町一之宮にあ天台宗の寺院です。この寺院を右折します。
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近くには、寒川一之宮八幡大神神社があります。
一之宮の鎮守で、元禄10年(1697年)の創建と伝えられていますが、平安時代の知名抄にも記されていることから、古くから奉祀されていたものと推定されます。
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かつて、大山道に繋がるこの道に花川という農業用の水路が流れていました。そこにかかっていた橋が「松戸橋」です。今は、石碑が残されているだけで、昔の面影はどこにもありません。
大山参詣が賑わいを見せていた江戸時代には、寒川一之宮のこの付近にも旅籠や茶屋が建ち並んでいました。
この松戸橋の近くにも「松戸屋」という旅籠があったそうです。
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その先に梶原景時の館跡があります。梶原景時は、石橋山の戦いで源頼朝を助けたとされ、頼朝が鎌倉入りを果たすと、御家人として仕え、相模国一ノ宮を領したとされています。
一方で上総介広常の暗殺や源義経を讒言し死に追い込むなどしたため、他の御家人からは嫌われる存在となっていました。
頼朝が亡くなると、御家人から弾劾を受け、鎌倉を追放され、所領の一ノ宮に退きます。
翌年、上洛を企てるものの、駿河国清見関(静岡市清水)で一族とともに最期を遂げています。
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その裏側には、梶原氏一族郎党(七士)の墓があります。
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ついうっかり地図を見落としてしまい、いつのまにか旧中原街道を外れ、「八角公園」という広場に着いてしまいました。
しかし、偶然、その公園で一之宮の浮世絵を発見しました。
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また、「旧国鉄西寒川駅」、旧日本軍の「相模海軍工廠」跡の石碑が建っていました。
旧海軍工廠は、イペリット爆弾等の化学兵器や火工兵器の本格的な量産を目的として、海軍技術研究所の化学研究部から昇格した工廠だったと記されてします。
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その石碑の隣には、旧国鉄西寒川駅の名残だと思われるレールが残されていました。
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そのレールを辿ると、公園から続く線路跡のような細い道が続いていて、住宅街の間を抜けるように通っています。
「ブラタモリ」が好きそうな場所ですね。ご推察の通り、先ほどの西寒川駅跡碑に繋がっている旧国鉄の線路の跡だったのです。海軍工廠とも関係がありそうですね。
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再び、旧中原街道に戻り、西に進むと「河原不動尊」があります。
本尊の不動明王坐像は、江戸時代初期のものと見られ、江戸時代の大山への観光ルートとして、道標とともに置かれたものと考えられています。
当時の大山参詣が栄えていたことを物語る史跡の一つですね。
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河原不動尊の前には、「右大山道」という道標があります。藤沢から大山阿夫利神社に繋がる大山道の辻にもなっている場所です。
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いよいよ次回は「中原街道を歩く」の最終回です。(続く)
先週の金曜日(7月14日)に「中原街道」の3日目(最終日)を歩きました。三ツ境駅からゴールの平塚御殿までです。折しも、この日も連日の猛暑日で、東京・神奈川には熱中症厳重警戒が発令されておりました。
3日目第1幕のマップです。
三ツ境駅からのスタートです。駅前の厚木街道を歩き、中原街道と交差する辻には、「二ツ橋地名由来の碑」や「石橋供養塔」、「八王子往還と神奈川往来の分岐点を示す道標」があります。
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「二ツ橋」の地名の由来の石碑によりますと、
1613年(慶長18年)に徳川家康がこの地で読んでいる句の中に由来している地名がありました。「しみじみと 清き流れの清水川 かけ渡したる 二ツ橋かな」と。
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しばらく歩くと、「梛の木の石碑」があります。それによりますと、 ・・島津久利がこの地に薩摩から取り寄せた椰の木を植え、1844年の江戸城での大火の際、椰の木を伐採して中原街道を急送し、復興したと伝えられています。
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ここにも、石造物が並んでいます。刻まれた文字を読むと、「相州鎌倉郡瀬谷」と書かれています。江戸時代には瀬谷は鎌倉郡に置かれていたことが分かります。
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向かい側には「宗川寺」があります。「寛永2(1625)年に富士重須本門寺第12世日賢上人開山、石川宗川開基」というお寺です。
山門をくぐったところに二本の銀杏があります。昔から「夫婦銀杏」として、安産祈願の信仰があります。
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「境川」は江ノ島まで繋がり、相模湾に注いでいます。道大橋を渡ります。ここから先は大和市になります。
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この坂も猛暑日には堪えます。
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坂を登り切り、しばらく歩くと、何と、高原に来たかのような景観!
実は、「厚木海軍飛行場」。 厚木海軍飛行場は、第二次世界大戦後、アメリカに接収され、連合国軍最高司令官マッカーサーが降り立ったことで知られているところですね。
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厚木基地に駐留している米海軍航空隊は2017年より順次、岩国への移動を開始し、2018年春頃に全部隊の移駐が完了する予定と言われてい
ます。
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厚木基地は、米海軍航空隊と海上自衛隊が共同で使用している軍事基地で、米海軍航空隊が移駐した後は、海上自衛隊の専用基地になるようです
望遠レンズを向けましたが、米海軍航空隊のジェット機はいませんでした。ここを拠点とする「空母ロナルド・レーガン」は朝鮮半島に行っているのかもしれませんね。
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深谷原の信号機の脇に、フェンスに囲まれた庚申塔群があります道標も兼ねていて、「文化11年。南大山道」などと書かれています。
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しばらくの間、こうした感じの旧中原街道を歩きます。
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しばらく歩くと、「大法寺」があります。門前の松の木が美しく整えられています。 (大法寺は日蓮宗で、応永2年(1395)日叡上人によって開山)
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道路端に置かれた石造物。
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平日の午前中にもかかわらず、順番待ちしているお店を発見!
ミートショップ大久保は、神奈川県のブランド豚肉「高座豚」の専門店で、ハムやソーセージ、豚味噌漬けなど贈答用に買う方も多いようです。ここも覚えて置くことにします。
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「用田」の交差点には道標と不動明王乗った碑があります。道標には「西座間村」などと書かれていました。
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(続く)