3日目の第二幕です。今回のルートはこちら。
用田の辻を過ぎるとなだらかで真っ直ぐな道が続きます。
お昼の時間に差し掛かったところで、中原街道沿いにある「山田うどん」で昼食です。辛子の効いた冷やし中華(560円)を食べ、元気を取り戻しました。
「山田うどん」の前には立派な長屋門のお宅がありました。

金網に囲まれている塚は、十三塚(おこり塚)と言われているものです。
十三塚は、岩手から鹿児島まで日本中に広く存在している中世の塚で、戦死者を供養するためのものだとか、十三仏との関係など諸説ありますが、定かではありません。
この塚は、室町から戦国時代に築造されたものだそうです。

十三塚は、街道沿いにいくつも並んでいるのが特徴です。

しばらく歩き、相模線の「寒川駅」近くにある踏切を渡ります。
その先に「景観寺」があります。寒川町一之宮にあ天台宗の寺院です。この寺院を右折します。

近くには、寒川一之宮八幡大神神社があります。
一之宮の鎮守で、元禄10年(1697年)の創建と伝えられていますが、平安時代の知名抄にも記されていることから、古くから奉祀されていたものと推定されます。

かつて、大山道に繋がるこの道に花川という農業用の水路が流れていました。そこにかかっていた橋が「松戸橋」です。今は、石碑が残されているだけで、昔の面影はどこにもありません。
大山参詣が賑わいを見せていた江戸時代には、寒川一之宮のこの付近にも旅籠や茶屋が建ち並んでいました。
この松戸橋の近くにも「松戸屋」という旅籠があったそうです。

| その先に梶原景時の館跡があります。梶原景時は、石橋山の戦いで源頼朝を助けたとされ、頼朝が鎌倉入りを果たすと、御家人として仕え、相模国一ノ宮を領したとされています。 一方で上総介広常の暗殺や源義経を讒言し死に追い込むなどしたため、他の御家人からは嫌われる存在となっていました。 頼朝が亡くなると、御家人から弾劾を受け、鎌倉を追放され、所領の一ノ宮に退きます。 翌年、上洛を企てるものの、駿河国清見関(静岡市清水)で一族とともに最期を遂げています。 |

その裏側には、梶原氏一族郎党(七士)の墓があります。

ついうっかり地図を見落としてしまい、いつのまにか旧中原街道を外れ、「八角公園」という広場に着いてしまいました。
しかし、偶然、その公園で一之宮の浮世絵を発見しました。

また、「旧国鉄西寒川駅」、旧日本軍の「相模海軍工廠」跡の石碑が建っていました。
旧海軍工廠は、イペリット爆弾等の化学兵器や火工兵器の本格的な量産を目的として、海軍技術研究所の化学研究部から昇格した工廠だったと記されてします。

その石碑の隣には、旧国鉄西寒川駅の名残だと思われるレールが残されていました。

そのレールを辿ると、公園から続く線路跡のような細い道が続いていて、住宅街の間を抜けるように通っています。
「ブラタモリ」が好きそうな場所ですね。ご推察の通り、先ほどの西寒川駅跡碑に繋がっている旧国鉄の線路の跡だったのです。海軍工廠とも関係がありそうですね。

再び、旧中原街道に戻り、西に進むと「河原不動尊」があります。
本尊の不動明王坐像は、江戸時代初期のものと見られ、江戸時代の大山への観光ルートとして、道標とともに置かれたものと考えられています。
当時の大山参詣が栄えていたことを物語る史跡の一つですね。

河原不動尊の前には、「右大山道」という道標があります。藤沢から大山阿夫利神社に繋がる大山道の辻にもなっている場所です。

いよいよ次回は「中原街道を歩く」の最終回です。(続く)