昨日、横浜スパーリングトワイライト2017の花火大会が横浜山下公園でありました。
ちょうど、同日(7月16日)15:00に、クルーズ客船「スーパースター・ヴァーゴ」が横浜港(大桟橋)に入港するというので、大桟橋に行ってみました。
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堅苦しくないアジアのファミリー客船とは言うものの、総トン数7万5338t、全長268m、全幅32m、乗客定員1870名というアジア最大の大型船は、まるで大きなマンションのようです。
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日が落ちてきて、花火の打ち上げを待つ人の姿も増えてきました。最近は、おしゃれな浴衣姿のカップルが多くなってきましたね。
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19:30、花火が打ち上げられました。久しぶりに間近で見る花火です。花火の美しさもさることながら、何と言っても、ドォーンという迫力ある打ち上げの爆音がなんとも言えませんね。
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最近は、色々な仕掛けの花火があります。こんなのとか。
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あんなのとか。
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・・・
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そろそろいい時間なので、混まないうちに「みなとみらい線」で帰ります。「ジャックの塔」もライアップされて綺麗でしたよ。
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おしまい
「中原街道を歩く」の2日目の3幕です。この日も暑かった!マップはこちらです。
野川を越え、横浜の港北ニュータウンがある都筑区に入ると、小高い丘に鎮守する「山田神社」があります。
その鳥居の前には、地蔵尊や供養塔などの石造物が並んでいます。年号を見ると、文化9年(1813年)と刻まれています。江戸後期ですね。
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見晴らしも良さそうなので、お参りすることにします。
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五の鳥居まであって、社殿まで約300メートルほどありました。
山田神社は、860年創建の諏訪神社をはじめ、八幡神社、稲荷神社、妙見社など13社を合祀した神社で、地名である「山田」を社名にしています。
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一の鳥居をくぐり、階段を登ると、港北ニュータウンの街並みが見えます。
この辺りは、かつて茅葺き屋根の農家が点在する純農村地帯でしたが、高度経済成長を背景に港北ニュータウンという名で宅地開発が進み、今では、江戸時代の中原街道を感じさせる面影はなくなってしまいました。
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唯一残されているお宅が、江戸時代から続く「関家住宅」です。昭和36年に行った調査では、関家は関東地方で最古級の住居であることがわかっています。主屋は、17世紀前半の建築で、表門や敷地とともに国の重要文化財に指定されています。
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今も22代当主が住んでいるので、公開はされていません。関家は、将軍の鷹狩りの休憩所として使われていたそうです。
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旧中原街道を歩いていると、道路端にこうした地蔵尊などの石造物が集められ、並んでいるのを目にします。
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中原街道で荷物の受け渡しをする継立場だった「佐江戸」を過ぎたところに「杉山神社」があります。
杉山神社は不思議なことにほとんど横浜にしか存在しない神社なんです。
江戸時代に編纂された地誌『新編武蔵風土記稿』には、都筑郡24社、橘樹郡37社、久良岐郡5社、南多摩郡(現在の東京都町田市や稲城市が含まれる)6社の計72社の杉山神社が記載されています。これらはいずれも鶴見川流域にあるのが特徴です。
かつて「暴れ川」とも呼ばれ、幾多の水害をもたらした鶴見川。その水害除けと豊作を願って、流域各地に杉山神社が祀られるようになったのではないかとも考えられると伝えられていますが、まだよくわかっていないのが現状のようです。
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街道辻にある「地蔵尊」。この場所は、現在も「地蔵尊前」と呼ばれています。
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鶴見川落合橋
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この公園は「長坂公園」と言います。公園の名前の通り、長い坂を登りきったところにあります。暑さと疲労で熱中症の危険があったので、この公園の木陰で一時休憩をとりました。
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長坂公園を過ぎた後も、アップダウンの道が延々と続きます。
史跡や寺社があまりなく、路面だけが続く「街道歩き」は何と言っても辛いんです。
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再び坂を登り切ると、よこはま動物園「ズーラシア」があります。
子どもが小さい時によく連れて来たものです。
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新しい感じの石碑ですが、この場所に都筑郡役所が開設されたのが明治11年のことだったことが分かります。今は、横浜市都筑区ですが、こうした道標や石碑を残すことは後世にとってとても大事なことですね。
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「中原街道を歩く」2日目 2017.7.6   丸子の渡し〜三ツ境駅 
 26キロ (続く)
今回は、武蔵中原駅近くの「大戸神社」から高津区千年にある「橘樹官衙遺跡群」を中心にご案内します。
マップはこちらです。

大戸神社は、縁起によると世田谷吉良氏の家臣内藤豊前の舎弟内藤内匠之助が永正年間(1504-1521)に戸隠明神として当地に創建されています。
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大戸神社の社殿は、寛永16年に再造営、天和元年に再造営、
明治13年に改築。大正12年関東大震災により倒壊するも昭和3年に現在の社殿が落慶したようです。
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大戸神社の狛犬は、珍しい砲弾を抱えています。
阿吽とも砲弾を抱え、砲弾には「日露戦捷紀念」と刻まれています。大戸神社で村の若者の出征をお祝いしたのでしょう。台座には、明治40年10月吉日奉納と記されています。
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中原街道にかかる巌川橋には、かつて二ヶ領用水が流れていました。今は暗渠となっています。側にはプロムナードが記念として造られています。
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千年(ちとせ)の交差点を渡り、長い坂道を息を切らしながら、上って行くと「たちばなの散歩道」の案内板が見えてきます。
この辺りは、古代川崎の中心地だったようで、富士見台古墳や子母口貝塚といった史跡が目につきます。
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案内板の後に「たちばな古代の丘緑地」があります。緑地の中に石碑が建てられています。そこには「橘樹郡衙跡」と刻まれています。
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石碑の裏面には、
「橘樹郡衙(たちばなぐんが)は、奈良・平安時代の武蔵国橘樹郡の役所で、七世紀後半に造営されました。ほぼ同じ頃には影向寺も橘樹郡の寺として創建され、この丘は古代川崎の政治・文化の中心地でありました。」と記されています。
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緑地内の解説板には2枚の写真があります。
1枚は下の発掘調査当時の写真です。調査の後、土を埋め戻し、現在の緑地にしたようです。
橘樹郡衙の全体像を知るには、この周辺全体の発掘調査が必要のようです。
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2枚目は、この場所に建てられていた古代橘樹郡衙(役所)の建物イメージです。
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道なりに5分ほど歩くと、橘樹郡衙とほぼ同じ頃に建てられた「影向寺」に着きます。
影向寺には、創建当時の建造物は無く、遺物もほとんど残されていませんが、「関東の正倉院」とも言われる関東地方屈指の古刹と言われています。
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これまでの橘樹郡衙跡の発掘調査の結果、橘樹郡衙跡及び影向寺遺跡から構成される橘樹官衙遺跡群は、平成27年3月10日に川崎市初の国史跡に指定されました。
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縁起によれば、創建は天平12年(740年)、開基は行基とされています。近年の発掘調査により創建は7世紀後半にまで遡ることが確実とされています。
正面に建つ影向寺薬師堂 (江戸時代)は、神奈川県指定重要文化財です。
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木造薬師如来両脇侍像 3躯 (平安時代)は、国指定の重要文化財となっています。普段は公開されていません。
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神奈川県の名木100選に指定されている樹齢600年のイチョウ。乳柱を削って煎じて飲むと乳が出るようになるという伝説があり、当寺の絵馬に乳しぼりの図柄が多く残されています。堂々たる古木です。
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「影向石」と呼ばれる巨大な塔心礎石と基壇の痕跡より、境内には、三重塔も建設されていたと推定されています。
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影向寺の門前の坂を下って行くと、「能満寺」があります。
能満寺は、星王山寶蔵院と称する天台宗の寺院で、行基菩薩によって創建され、正徳4年(1714)に没した観空によって中興されたと伝えられています。 イメージ 16

現在の本堂は、影向寺薬師堂建立の際に棟梁を務めた木嶋長右衛門などによって元文4年(1739年)に建立され、内部には当寺の本尊である木造虚空蔵菩薩立像(県指定重要文化財)や木造聖観世音菩薩立像(市重要歴史記念物)が祀られています。
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改めて、中原街道が古代の道であったことを実感する旅となりました。
(続く)
「中原街道を歩く」の2日目は、東急東横線の多摩川駅から相模鉄道本線の三ツ境駅まで歩きました。今回は、その第1弾です。
マップはこちらです。
東急東横線の多摩川駅から丸子橋に向かう途中に、「多摩川浅間神社」があります。
多摩川岸の丘の上にあるこの神社は、今から800年前の創建と伝えられています。
鎌倉時代の文治年間(1185〜1190年)に源頼朝が豊島郡滝野川松崎に出陣した際に、夫の身の案じた妻政子が浅間神社に手を合わせたという言い伝えがあります。
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多摩川浅間神社の下には、「多摩川治水記念碑」が建っています。
内務省が昭和11年(1936年)、多摩川の治水工事の竣工を記念して建てたものです。
工事は、大正7年(1918年)羽田の河口部から開始し、昭和9年(1934年)世田谷区 砧までの間が完成しました。
以前、このブログでも紹介しましたが、神奈川県庁に民衆が大挙陳情した「アミガサ事件」がきっかけとなり、多摩川治水工事が行われました。
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初代の丸子橋は1934年(昭和9年)に建設され、その後、2000年(平成12年)に現在の橋に架け替えられています。
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初代の丸子橋の「親柱」が大田区側に置かれています。
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川崎市側の橋の下には、「丸子の渡船場跡」の碑が建てられています。丸子の渡しでは乗客を運ぶことはもちろん、古くは牛、馬、荷車や人力車なども運搬されました。東京(江戸)から肥料となる糞尿を運び、川崎からは梨や桃、野菜などが東京(江戸)の市場に運ばれていたと言われています。
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川崎市中原区の「中原街道」です。この辺りには、初代将軍徳川家康は「鷹狩り」を好んだことからいくつか宿泊所(御殿)を作らせています。
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この家は川崎市中原区小杉陣屋町に所在した大地主の長屋門です。この場所に建てられていた主屋は、川崎市多摩区にある「日本民家園」に移築されています。
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日本民家園に移築された「原家」の主屋の建物は22年を要し、驚くほど慎重に家づくりが行われました。明治44年に上棟されています。
主屋はケヤキ材をふんだんに使用した木造・二階建て・桟瓦葺き・延べ117坪(387㎡)のとても大きな住宅です。
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しばらく歩くと、「石橋醤油店」という看板が見えてきます。
この家は、明治3年から農業を兼業しながら醤油を作り、大正2年(1923年)から専業となり、キッコー「文山」というラベルを貼って昭和23年(1951年)まで製造していました。

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今でも、石橋醤油の工場(昭和8年に改築された当時の建物)の一部が残されています。
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初代将軍
徳川家康は「鷹狩り」を好んだことからいくつか宿泊所(御殿)を作らせていますが、そのひとつ「小杉御殿」がこの付近にありました。この史跡「徳川将軍小杉御殿跡」のある辺りの町名は「小杉御殿町」と名付けられています。現在、道路の拡幅工事が行われていました。
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「西明寺」は、小杉御殿の建設とほぼ同時期に有馬村(現在の神奈川県高座郡)から現在地に移された寺院で、徳川家康が鷹狩りの休憩に滞在したと伝えられています。
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中原街道と府中街道が交差する場所に「二ヶ領用水」があります。大田区にあった六郷用水と同様、多摩川から取水したもので、この用水によって、この辺りの稲作の生産は大きく増加することになります。
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米の増産に取り組んでいた家康は、江戸近郊の各地で新田開発を計画します。多摩川からの農業用用水路の敷設を進言し、用水奉行を任されたのが小泉次大夫でした。
次大夫によって川崎市内に敷設されたのが二ヶ領用水であり、その拠点となったのが、この場所にあった「代官陣屋」す。今は、神社の祠が建っているだけです。
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「泉澤寺」は、現在の世田谷方面に勢力を有した戦国時代の豪族・吉良氏の菩提所として、延徳3年(1491)に多摩郡烏山(現在の世田谷区烏山)に創建された浄土宗の寺院です。
天文19年(1550)に諸堂が焼失したため、吉良頼康が現在の上小田中の地に場所を移し再興しました。
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門前を通る中原街道は、戦国時代から近世前期にかけ、江戸と相模方面を結ぶ幹線で、近くには小杉御殿があるため、徳川幕府は、泉澤寺へ朱印20石を与え、
保護しています。
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中原街道には、多くの地蔵尊や馬頭観音、庚申塔が残されています。いずれも当時の地域性や民間信仰を今に伝える貴重なものですね。
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(続く)
五反田駅を過ぎたところで、国道1号線から離れ、細い旧中原街道に入ります。
今回のルートはこちらです。
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二つ目の右角に古びた地蔵像があります。1727年(享保12年)に建てられた「子別れ地蔵」です。
近くに江戸時代から火葬場だった桐ヶ谷斎場がありますが、子どもに先立たれた親が見送った場所と言われています。
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その先に供養塔が立ち並んでいます。大きな地蔵像は江戸中期で、小さな観音像は17世紀末に建てられたものです。
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しばらく道なりに旧中原街道を進みます。途中で銀杏並木の美しい「星薬科大学」があります。
白亜の建物は、1924年(大正13年)に完成した名建築の大学本館です。
銅像は、星薬科大学を創設した「星一」先生です。星一とは、SF作家の星新一のお父さんです。
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その先の戸越には、周囲に点在する庚申塔や地蔵が集められた場所がありました。
年代の分かるものでは、1662年(寛文2年)の墓碑があります。
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現在の中原街道と合流するところで活気のあるアーケード街で有名な「武蔵小山商店街(武蔵小山パルム)」が見えます。
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「札場の跡」という石碑があります。幕府の法令を示す高札場があった場所です。
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しばらく歩くと、右側に「洗足池」が現れます。向かいには、東急池上線の「洗足池駅」があります。
洗足池は、江戸時代以前に湧水を堰き止めて作られた溜め池です。
折角なので、洗足池を時計と反対方向に一周(1.4㎞)します。
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洗足池図書館の隣に「妙福寺」という日蓮宗のお寺があります。
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境内には日蓮が通りかかって袈裟を掛けた(腰をかけた)という袈裟掛けの松があります。
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馬頭観世音供養塔です。天保11年(1840年)に馬込村千束の馬医者や馬を飼っている人々により馬の健康や死馬の冥福を祈って建てられたものです。
台座には、東西南北の方向のそれぞれの地名が記されています。これから進む西の方角には「丸子稲毛」と刻まれています。
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洗足池公園に入ると、右側に長い参道があります。勝海舟と夫人の墓です。
勝海舟は晩年、洗足池の手前の場所(現「大森第六中学校」)に別荘を建て住んでおり、遺言として、遺骨は洗足池の池の端に葬るように伝えていたそうです。
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さらにその隣には、「西郷隆盛留魂碑」があります。碑は西郷を尊敬していた勝海舟が1879年(明治12年)に葛飾区の木下川(きねがわ)薬師に建てましたが、寺が荒川開削工事で移転したのを機にこの地に移されました。
江戸無血開城の交渉で相対した二人がこうして隣同士で並んでいるのも縁ですね。
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自然観察の木道を渡ります。この場所には野鳥が飛来するようで、野鳥観察の愛好家の皆さんがジッとカメラを構えていました。すでに花菖蒲は終わりかけています。
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池畔を進むと小高い丘があり、そこには「名馬池月之像」があります。
源平合戦の宇治川の戦いで先陣争いに勝った佐々木高綱の愛馬「池月」は、ここで源頼朝に献上されたものだと言います。
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池を巡って再び中原街道に出たところに「中原街道改修記念碑」が建っています。かつて起伏の激しかった中原街道を1923年(大正12年)に改修したことを記念に建てられました。
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この写真には見覚えのある方もいるかもしれませんが、前回の「いにしえの東海道 池上道」でも登場した「東光院」と「六郷用水」です。
「中原街道」と「池上道」はこの場所で繋がっていたのです。
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当時、多摩川には橋がかけられていなかったので、「丸子の渡し」で多摩川を渡っていました。向こう岸に見えるのは高層マンションが立ち並ぶ武蔵小杉方面です。
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向こうに見える青い橋は「丸子橋」です。次回は、この丸子橋を渡るところからご紹介します。
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2017.7.2  虎ノ門〜丸子の渡し 24.5キロ 32,898歩