今回は、武蔵中原駅近くの「大戸神社」から高津区千年にある「橘樹官衙遺跡群」を中心にご案内します。
マップはこちらです。
大戸神社は、縁起によると世田谷吉良氏の家臣内藤豊前の舎弟内藤内匠之助が永正年間(1504-1521)に戸隠明神として当地に創建されています。
阿吽とも砲弾を抱え、砲弾には「日露戦捷紀念」と刻まれています。大戸神社で村の若者の出征をお祝いしたのでしょう。台座には、明治40年10月吉日奉納と記されています。
中原街道にかかる巌川橋には、かつて二ヶ領用水が流れていました。今は暗渠となっています。側にはプロムナードが記念として造られています。
千年(ちとせ)の交差点を渡り、長い坂道を息を切らしながら、上って行くと「たちばなの散歩道」の案内板が見えてきます。
この辺りは、古代川崎の中心地だったようで、富士見台古墳や子母口貝塚といった史跡が目につきます。
案内板の後に「たちばな古代の丘緑地」があります。緑地の中に石碑が建てられています。そこには「橘樹郡衙跡」と刻まれています。
石碑の裏面には、
「橘樹郡衙(たちばなぐんが)は、奈良・平安時代の武蔵国橘樹郡の役所で、七世紀後半に造営されました。ほぼ同じ頃には影向寺も橘樹郡の寺として創建され、この丘は古代川崎の政治・文化の中心地でありました。」と記されています。
緑地内の解説板には2枚の写真があります。
1枚は下の発掘調査当時の写真です。調査の後、土を埋め戻し、現在の緑地にしたようです。
橘樹郡衙の全体像を知るには、この周辺全体の発掘調査が必要のようです。
2枚目は、この場所に建てられていた古代橘樹郡衙(役所)の建物イメージです。
道なりに5分ほど歩くと、橘樹郡衙とほぼ同じ頃に建てられた「影向寺」に着きます。
影向寺には、創建当時の建造物は無く、遺物もほとんど残されていませんが、「関東の正倉院」とも言われる関東地方屈指の古刹と言われています。
縁起によれば、創建は天平12年(740年)、開基は行基とされています。近年の発掘調査により創建は7世紀後半にまで遡ることが確実とされています。
正面に建つ影向寺薬師堂 (江戸時代)は、神奈川県指定重要文化財です。
木造薬師如来両脇侍像 3躯 (平安時代)は、国指定の重要文化財となっています。普段は公開されていません。
「影向石」と呼ばれる巨大な塔心礎石と基壇の痕跡より、境内には、三重塔も建設されていたと推定されています。
影向寺の門前の坂を下って行くと、「能満寺」があります。
能満寺は、星王山寶蔵院と称する天台宗の寺院で、行基菩薩によって創建され、正徳4年(1714)に没した観空によって中興されたと伝えられています。
現在の本堂は、影向寺薬師堂建立の際に棟梁を務めた木嶋長右衛門などによって元文4年(1739年)に建立され、内部には当寺の本尊である木造虚空蔵菩薩立像(県指定重要文化財)や木造聖観世音菩薩立像(市重要歴史記念物)が祀られています。
改めて、中原街道が古代の道であったことを実感する旅となりました。
(続く)