五反田駅を過ぎたところで、国道1号線から離れ、細い旧中原街道に入ります。
今回のルートはこちらです。
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二つ目の右角に古びた地蔵像があります。1727年(享保12年)に建てられた「子別れ地蔵」です。
近くに江戸時代から火葬場だった桐ヶ谷斎場がありますが、子どもに先立たれた親が見送った場所と言われています。
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その先に供養塔が立ち並んでいます。大きな地蔵像は江戸中期で、小さな観音像は17世紀末に建てられたものです。
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しばらく道なりに旧中原街道を進みます。途中で銀杏並木の美しい「星薬科大学」があります。
白亜の建物は、1924年(大正13年)に完成した名建築の大学本館です。
銅像は、星薬科大学を創設した「星一」先生です。星一とは、SF作家の星新一のお父さんです。
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その先の戸越には、周囲に点在する庚申塔や地蔵が集められた場所がありました。
年代の分かるものでは、1662年(寛文2年)の墓碑があります。
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現在の中原街道と合流するところで活気のあるアーケード街で有名な「武蔵小山商店街(武蔵小山パルム)」が見えます。
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「札場の跡」という石碑があります。幕府の法令を示す高札場があった場所です。
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しばらく歩くと、右側に「洗足池」が現れます。向かいには、東急池上線の「洗足池駅」があります。
洗足池は、江戸時代以前に湧水を堰き止めて作られた溜め池です。
折角なので、洗足池を時計と反対方向に一周(1.4㎞)します。
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洗足池図書館の隣に「妙福寺」という日蓮宗のお寺があります。
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境内には日蓮が通りかかって袈裟を掛けた(腰をかけた)という袈裟掛けの松があります。
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馬頭観世音供養塔です。天保11年(1840年)に馬込村千束の馬医者や馬を飼っている人々により馬の健康や死馬の冥福を祈って建てられたものです。
台座には、東西南北の方向のそれぞれの地名が記されています。これから進む西の方角には「丸子稲毛」と刻まれています。
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洗足池公園に入ると、右側に長い参道があります。勝海舟と夫人の墓です。
勝海舟は晩年、洗足池の手前の場所(現「大森第六中学校」)に別荘を建て住んでおり、遺言として、遺骨は洗足池の池の端に葬るように伝えていたそうです。
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さらにその隣には、「西郷隆盛留魂碑」があります。碑は西郷を尊敬していた勝海舟が1879年(明治12年)に葛飾区の木下川(きねがわ)薬師に建てましたが、寺が荒川開削工事で移転したのを機にこの地に移されました。
江戸無血開城の交渉で相対した二人がこうして隣同士で並んでいるのも縁ですね。
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自然観察の木道を渡ります。この場所には野鳥が飛来するようで、野鳥観察の愛好家の皆さんがジッとカメラを構えていました。すでに花菖蒲は終わりかけています。
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池畔を進むと小高い丘があり、そこには「名馬池月之像」があります。
源平合戦の宇治川の戦いで先陣争いに勝った佐々木高綱の愛馬「池月」は、ここで源頼朝に献上されたものだと言います。
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池を巡って再び中原街道に出たところに「中原街道改修記念碑」が建っています。かつて起伏の激しかった中原街道を1923年(大正12年)に改修したことを記念に建てられました。
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この写真には見覚えのある方もいるかもしれませんが、前回の「いにしえの東海道 池上道」でも登場した「東光院」と「六郷用水」です。
「中原街道」と「池上道」はこの場所で繋がっていたのです。
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当時、多摩川には橋がかけられていなかったので、「丸子の渡し」で多摩川を渡っていました。向こう岸に見えるのは高層マンションが立ち並ぶ武蔵小杉方面です。
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向こうに見える青い橋は「丸子橋」です。次回は、この丸子橋を渡るところからご紹介します。
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(続く)
2017.7.2  虎ノ門〜丸子の渡し 24.5キロ 32,898歩