The Flash(2023 アメリカ)

監督:アンディ・ムスキエティ

脚本:クリスティーナ・ホドソン

製作:バーバラ・ムスキエティ マイケル・ディスコ

製作総指揮:トビー・エメリッヒ、ウォルター・ハマダ、ゲイレン・ベイスマン、マリアンヌ・ジェンキンス

原案:ジョン・フランシス・デイリー、ジョナサン・ゴールドスタイン、ジョビー・ハロルド

撮影:ヘンリー・ブラハム

美術:ポール・デナム・オースタベリー

編集:ジェイソン・バランタイン、ポール・マクリス

音楽:ベンジャミン・ウォルフィッシュ

出演:エズラ・ミラー、サッシャ・カジェ、マイケル・シャノン、ロン・リビングスト、マリベル・ベルドゥカーシー・クレモンズ、アンチュ・トラウェ、マイケル・キートン、ベン・アフレック

①ヒーローは共演に至るもの!

昔から、ヒーローものはシリーズが進むと、ヒーローを共演させたくなるものです。

たぶん日本においてのその元祖は、「キングコング対ゴジラ」じゃないでしょうか。

「モスラ対ゴジラ」も単独映画主演同士の対決だし。

その路線がより刺激を求めていって、オールスターバトルロイヤルになっていく。「怪獣総進撃」になっていきます。

 

テレビにおいては、「帰ってきたウルトラマン」にウルトラセブンがゲスト出演した瞬間が最初でしょうか。

それ以降、ウルトラ兄弟客演、歴代仮面ライダー客演など、ヒーローものには欠かせないイベントになっていきます。

「ゴジラ」にしても「ウルトラマン」にしても「仮面ライダー」にしても、人気が出るとやっぱり乱発されていくので、当たり前のお約束になって、興奮度は下がっていくんですよね。

 

アメコミで、単独作品のヒーローがだんだんと共演し、チームになり、アベンジャーズやジャスティス・リーグになっていく…というのは、だからゴジラやウルトラ兄弟や仮面ライダーと同じ心理で、ヒーローものの必然ではあるのでしょうね。別にそれがすごい革新というわけでもなく。

基本にあるのは、「あのヒーローとあのヒーローが共闘(or対決)したら…」という、ヒーローごっこ遊びに興じる子供の誰もが思う夢。その実現。

 

アメリカ映画におけるクロスオーバーのルーツは、ユニバーサルのモンスター映画における、ドラキュラや狼男、フランケンシュタインなどの共演でしょうか。

その後、「エイリアンVSプレデター」「フレディVSジェイソン」などを経て、いよいよ「アイアンマン」からのMCUで、本格的な「クロスオーバーを前提とした作品作り」がスタートすることになります。

 

こういう「VS」もしくは「大集合」系の作品。もちろん素直に興奮して楽しむ面もありつつ、複雑に思うところもあるんですよね。

「怪獣大戦争」や「怪獣総進撃」に興奮しつつも、「オール怪獣大進撃」まで行くと白けるなあ…とか。お腹いっぱいにはなるけど、単体の迫力は薄れちゃうなあ…とか。

やり過ぎるとだんだん食傷気味になってきて、「やっぱり映画としては初期作品がいいよね!」などと言いたくなります。

エスカレートしていくと、往々にして「もういいよ」という気にもなってくる…という、両面あるのは昔から否めないところだと思うのです。

②その先にあるメタ要素

これらはいずれも同一世界観の中の出来事ということになっていたけど、こうなると「世界観をまたいだ共演」も求めてしまうのが人の常…ですかね。

「マジンガーZ対デビルマン」とか「グレートマジンガー対ゲッターロボ」とかは、世界観をまたいだ共演と言えるんじゃないかと思います。

こういうのは…まあ、あくまでも一時的なお遊びというか。ファンサービスのイベントという色合いが強かったんじゃないでしょうか。

ある種のパラレルワールドというか。それを通常の物語の世界観の中に含めるのは、やはりいろいろと無理がある。

 

だから、クロスオーバーをどんどん拡張して、世界観をまたいだ共演を導入していくと、そこには「マルチバース」の要素が生じてきます。

世界観の異なる作品に言及するために、その作品世界そのものを「劇中におけるパラレルワールド」として提示する。

「仮面ライダー」でいうと、ストロンガーまでの昭和ライダーにおけるライダー客演は「同じ世界観内の共演」だけど、「平成ライダーに昭和ライダーが出る」ところまでいくと、マルチバース要素、パラレルワールド要素が前に出ていたように思います。

 

で、「他作品の世界そのものを作品内で扱う」ようになると、必然的に前に出てくるのが「メタ要素」です。

フィクションとしての作品内世界だけで完結するのではなく、それを作った人、演じた役者、ファンの中でのその作品の位置付けといったものが、やんわりと言及されていく。

「藤岡弘、の演じる1号ライダーがレジェンド」みたいな扱われ方ですね。長い歴史のあるシリーズならではのことだと思うけど。

 

アメコミは長いこと続いていく中で、主要登場人物が死んだり、生き返ったり、能力を変えたり、年齢を設定し直したり…といった必要が生じてきて、それに対応するためにマルチバースという考え方自体は割と早くから導入してきた…のだと思います。

だから、クロスオーバーが進んだ映画シリーズにマルチバースを導入するのも、それほど無理はない​ものではあ​った。

最初はアニメの「スパイダーマン:スパイダーバース」だったでしょうか。

「世界ごとに画風を変える」という、アニメならではの実験的な手法が使われていて、いわば「究極のメタ」なんだけど。

なにしろ斬新なアニメとしてのクオリティが超絶に高かったので、メタ的な手法も実験の一環として見事に消化されていた印象です。

 

「エンドゲーム」におけるマルチバースは、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」的なタイムパラドックスとしての使われ方が主になっていて、あまりメタ要素を感じるものではありませんでした。

メタ的に一線を超えたのは、やはり「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」ですね。

ここでトビー・マグワイアとアンドリュー・ガーフィールドのスパイダーマンを登場させて、「リブート前」の作品シリーズを「マルチバース」と言い張ることで、「やってもいい範囲」を大幅に拡張した。あるいはメタの領域に完全に踏み込んだ、ということが言えると思います。

 

この手法…もしかしたらそれまでも、誰か構想したことがあるかもしれないけど。

何しろ多くの「主役級」の役者を担ぎ出して、複雑な権利関係もクリアしなくちゃならないので、そう簡単には実現できない。

この時期のマーベルの強靭な体力があってこそ実現できたことではありますね。

これ、観客の視聴体験という「記憶」に直接アクセスしてくるので、そりゃ「心を震わす力」がめちゃ強い。

ずっと観てきた思い入れの強い人ほどノックアウトされてしまう。クロスオーバー路線の、ある種究極の手法と言えるんじゃないかと思います。

 

③ストーリーはさておき!という割り切り

この「やってもいいんだ!」に素直に乗っかって、やりたい放題徹底的にやり尽くした作品が、本作「ザ・フラッシュ」ということになるのだと思います。やっと来た。

過去を変えたら、過去から更に遡って現実が変更される…という本作のスパゲッティ理論は「わかったようなわからないような」ものですが、でもまあ、そんなことはどうでもいいんだ!という。

いやどうせメタなんだから!というね。「マイケル・キートンのレジェンド・バットマンを活躍させる」という大正義の前には、フィクションとしての説得力はほどほどでよし!という潔さ。

 

そしてね。もう隠さないというか。ストーリーなんてどうでもいいということを、遂に隠さなくなってしまった。

皆が見たくて、激しくアガるのは「メタな言及」なのだから、大事なのはあくまでもそこであって。

いわゆる、ヒーロー映画としてのストーリー…なんらかの悪がやって来て、なんらかの地球の危機が訪れて、それに対してヒーローがなんらかの頑張りをして、苦戦もして、逆転してやっつけて地球を救う…なんてことは、そもそも全然重要ではないんだ!ということを言い切っちゃった。

 

それ、みんなうっすら思ってても、遠慮してちょっと言えなかったことだと思うんですよ。

たぶんそうなんだけど、でも「それを言っちゃあ…」なのでは?というね。

それを、潔く切っちゃった。本作の敵ゾッド将軍は「マン・オブ・スティール」からの借り物だし、その詳しいことは「マン・オブ・スティール」を見てね!だし、そもそも戦いに決着さえつけない! 負けたまんまで放りっぱなし!

「いや、そこ別にどうでもいいから」という。「どうせ頑張って逆転して勝つだけだし、そんな予定調和もっかい見なくていいでしょ?」という。

 

これ、僕はかなりびっくりしました。遂にそこまで割り切っちゃうんだ…と。

④お祭りとしてはこれもアリ!…?

でも、更に自分でもびっくりしたのが、それに対して意外なくらい、反感も抵抗も感じなかったことですね。

まあそうだな、と思っちゃった。ゾッド将軍に勝つところなら「マン・オブ・スティール」で観たし、それをもう一回なぞってもしょうがない。

バットマンやスーパーガールが負けて終わり、この世界の地球はどうやら滅亡して終わり。何十億という人類が死亡。

なのでそれをなかったことにする。ということは、どっちにしろこの時空の何十億という人類は消滅。初めから存在しなかったことになる。

こともあろうに、それを主人公がやってしまう!…という、乱暴きわまる作劇なのに。

でも、そこまで否定的に感じなかった。

 

なんか普通に受け入れてる自分がいたのは、この映画におけるキャラクターが記号でしかないからだと思います。

マイケル・キートンのバットマンは「懐かしい記号」だし、サッシャ・カジェのスーパーガールにしても、2分ほどで背景紹介されただけの「スーパーマンのいとこ」という記号でしかなくて、この世界で死んだとて、人気があればどうせまた登場するんだろうなあ…と思うだけ。

何十億人かの人々が暮らしているはずの「この世界」にしても、設定上の無数のマルチバースの一つとして、いつでも消したり出したりできる程度のものでしかない。

実のところ、ドラマとして感情移入して観ていない。これまでも割とそうだったのだと思うけど、今回それをあからさまに表に出しちゃった。

 

ドラマはまるっきり重要ではない。大事なのは、ファンが記憶を喚起され、知ってる知ってる!とニヤニヤすることができるための、記号としてのキャラクターたち。

その後の「歴代スーパーマン」大行進、更には頓挫した「ティム・バートン版スーパーマン」のリベンジを見事に果たしたあの男まで…と畳みかけられて、普通にめっちゃニヤけて楽しんでしまいました。

「スーパーマン」を映画館で観たのは確か「スター・ウォーズ」「さらば宇宙戦艦ヤマト」に続いて生涯3本目くらいで、母親に連れられて観に行ったなあ…とか。

ヘレン・スレイターの「スーパーガール」は今思うと傑作目白押しの1984年に公開されて、当時にしても微妙な反応だったけど、個人的には好きだったんだよなあ…とか。

いろいろと思い出が蘇って、ちょっと胸が熱くなったりしましたよ。

 

だから本当に、これまでかろうじてあった1本の映画としての最低限の建て前さえ投げ捨ててしまって、「ファンがニヤニヤする」ことだけに全振りした映画。

観てる間は楽しかったのは確かなのだけど、でもこれでいいのか?というのは常に頭によぎるし。

これを映画あまり観たことのない人にオススメするかと言えば、絶対しないなあ…と思ったのでした。

⑤最後の打ち上げ花火…かな?

…と、構造的な問題についてばかり書いてますが。

特に前半から中盤にかけては、1本のヒーロー映画としても楽しいものになっていたのも確かです。そこはさすが「イット」のムスキエティ監督。

 

主人公のバリー・アレン、魅力的ですね。コミュ障ぽくて、付き合いにくそうだけど、正義感があっていい奴でもある。

フラッシュの能力がただ「めちゃ速い」というだけで、かなり限定的なのもいい。スーパーパワーがないので、現場では「雑用係」にされがちなんだけど。

でも、「すごいスピードで走る」というシンプルな能力は大画面に映えます。視覚効果としても面白い。

また戦闘に適さないことで、「人の命を助ける」というヒーロー本来の役割に徹しているのもいいですね。

 

お母さんの死、お父さんの冤罪・投獄と、背景は非常に重いのだけど。

いろいろと忙しい中で、必要な情報を的確に伝える手際は確かなものだと思います。

序盤からジャスティス・リーグのメンバーが次々出てきて、バリーとしての人間関係、ブルース・ウェインとの友情が描かれ、タイムスリップがあって、別の世界線バージョンの家族、悲劇がないので陽キャになってる若いバリー、その人間関係、そして別バージョンのバットマンとスーパーガール、ゾッド将軍…と次々に出てくる。

これだけ忙しい中で、混乱させずにストーリーを追わせていくのも感心しました。そういえば、「イット」も相当に情報過多な物語だったので、手慣れたところなのかもしれないですね。

 

すごいなと思ったのは、これだけはちゃめちゃに時空をかき回すお話でありながら、それでも最後の「お母さんとのシーン」ではちょっとほろりとさせちゃうというところ。

いや、結構感動させられました。エズラ・ミラー、いい表情をします。

 

ちょっと思ってしまったのは…思ってもしょうがないことだけど…これがいわゆるユニバースものでなく、普通に単独ヒーローものの「ザ・フラッシュ」という作品だったら、今の派手さはないにせよ、もっと好きな映画になっていたかもしれないなあ…ということでした。

まあ、あまりにも遠過ぎるので、想像しようもないことですが。

 

本作はラストのサプライズまで楽屋落ちだったので、この先どうなるのか、ていうか続ける意味があるのやら、さっぱり読めませんね。

というか、もうこの後に続けるのは無理じゃないかな。今後、映画の中でどんなにピンチになったとしても、フラッシュがパーっと過去に行って、「なかったことにする」という手段がアリになっちゃったのだから。

 

楽しかったのは確かなんですが、正直、本作のような映画を今後も引き続き観たいか…と問われれば、僕は観たくないですね。もうお腹いっぱい。

マルチバースもそろそろ賞味期間を過ぎると思うので、そこから脱した映画を期待したいところです。