Spider-Man: Across the Spider-Verse

監督:ホアキン・ドス・サントス、ケンプ・パワーズ、ジャスティン・K・トンプソン

脚本:デヴィッド・カラハム、フィル・ロード、クリス・ミラー

製作:フィル・ロード、クリストファー・ミラー

音楽:ダニエル・ペンバートン

出演:シャメイク・ムーア、ヘイリー・スタインフェルド、ブライアン・タイリー・ヘンリー、ルナ・ローレン・ベレス、ジェイク・ジョンソン、ジェイソン・シュワルツマン、イッサ・レイ、カラン・ソーニ、シェー・ウィガム、グレタ・リー、ダニエル・カルーヤ、マハーシャラ・アリ、オスカー・アイザック

①アニメに込められた質量の差!

前作「スパイダーマン:スパイダーバース」極めて斬新なアニメでした。映画館であんぐり口開けて、「こんなの初めて見た!」とぽかんとするくらい。

アニメ用に最適化された絵を動かすのではなく、アメコミの絵がそのまま動く

一つの画面の中に込められた、圧倒的な情報量

実写に迫ろうとするのではなく、実写ではできない、アニメでしかできない表現を追求する革新性。

キャラクターごとに絵のタッチまで変えていく、マルチバースを理屈じゃなく体現する表現。

 

アニメといえば日本!と思っていたし、ディズニーなどのアニメ映画にも(物語としての面白さはともかくとして)、斬新な表現の面白さは何も感じなかったのですが。

でもこればかりは、アメリカ映画人の底力というか、パワーというものをひしひしと感じさせられましたね。

昔々、手塚治虫が「白雪姫」や「バンビ」にノックアウトされたことの追体験…とまで思いましたよ。

 

本作「アクロス・ザ・スパイダーバース」はその続編。

前作の衝撃そのままに、アニメ表現それ自体の斬新さ、面白さは健在。今回も驚かされ、目を見開かされました。

情報量も更に倍増されていて。

今回、特に「資本力の差」みたいなものを強烈に感じましたね。

実際どうなのかはよくわかってないけど。

なんかもう、身も蓋もなく言うと、「金かかってるな!」と思ってしまいました。

 

②またマルチバースか…(本作のせいじゃないけど)

というわけで、表現は今回も素晴らしかったし、ストーリーもとても面白かった!

…で終わってもいいのだけど。

不満があるとしたら…​やっぱりマルチバースかな。

前作の時点では、まだ新鮮だったマルチバースの概念ですが。ここまでいろんな映画で乱発されると、正直辟易とした気分になるのは否めないです。

 

マルチバースを突き詰めていくとメタ要素が前に出てきて、結局のところは「楽屋落ち」になっていく…というのは、「ザ・フラッシュ」のレビューに長々と書いたところです。

本作でも、「いろんな世界のスパイダーマン大集合」のシーンでは、楽屋落ちに尽きている感じですね。

古いコミック版とか、実写版とかゲーム版とか、ファンなら知ってる小ネタとか、トリビア的な楽しさは散りばめてあって確かに楽しいのだけど。

でも、結局のところコレはいったい何なの?というのは、よくわからない。ストーリー上の設定の部分が、既に「メタ」になってしまってる。

 

まあ、この「スパイダーバース」では前作から、実写ではできないアニメならではの試みとして、「タッチを変える」という荒技でメタに踏み込むということをやってるので、そこは最初からの狙い通りではあるのだけど。

その後、実写版のスパイダーマンの映画の方が「ノー・ウェイ・ホーム」でメタに踏み込んじゃいましたからね。

同時期にそっち方向で行くところまで行った「ザ・フラッシュ」をやってるのもあって。

「スパイダーバース」の革新性が皆に真似されたわけで、本家としては割を食ってる感もあります。

③重要テーマをマルチバースの中でどう描くのか

「ザ・フラッシュ」といえば、主人公の葛藤のポイントとなる要素も、本作と「ザ・フラッシュ」は共通でした。

本作では、「スパイダーマン世界では身近な署長の死が必ず訪れることになっていて、それを無理に回避すると世界の滅亡をもたらす」ということになっていて、マイルスは「世界か、父か」の選択を迫られます。

「ザ・フラッシュ」では、主人公は母の死を回避するために過去を改変しますが、それによってどうしても滅亡する世界線を出現させてしまいます。

つまりどちらも、「肉親の命か、世界か」を迫られる。マルチバースでヒーローものを作ろうとすると、必然的にこういう話になるってことでしょうか。

 

「ザ・フラッシュ」では一応この命題に決着をつけるのだけど(いやまったく決着​つけてないやろアレ、という見方もあるけど)、本作は「つづく」で終わるので、その決着は描かれない。次作へ持ち越しとなります。

本作が、どんな決着をつけるのか…本作のストーリー面での評価は、それを待たないと何とも言えないですね。

 

「大いなる力に伴う責任」「力の代償としての自己犠牲」は、「スパイダーマン」という作品を貫く大きなテーマではあるんですよね。

いろんなバージョンの「スパイダーマン」の中で、いろんなバージョンの主人公が叔父さんや叔母さんや恋人や師匠の死という試練を乗り越えてきました。

それらは常に、「取り返しのつかないもの」だからこそ試練であったわけですが、いくつもの世界を前提にするマルチバースは「取り返しのつかなさ」をかなり変質させてしまいます。

「ザ・フラッシュ」の決着は、まさにその「世界の軽さ」の上に成り立っていたと思うので。

真っ向マルチバースを描く本シリーズが、そのメインテーマにどんな決着をつけるのか…今のところちょっと予想はつかないですね。

④日本のアニメも!

斬新な絵表現の中でも日本アニメの影響はやはり感じて、スポットの表現は「グレンラガン」を連想しました。

トリガーが手がけた「プロメア」「グリッドマン」などのアニメとは、「実写を模倣しない、アニメならではのダイナミズムの追求」という点で共通点があるように思います。

 

観ながらなんとなく思っていたのは「グリッドマン・ユニバース」のことで。

映画館で観た映画は基本すべてレビューを書いてるこのブログなんだけど、なんとなく書きそびれて書いてないのが「グリッドマン・ユニバース」なんですよね。

いや、すごく面白くてめちゃめちゃ楽しかったのだけど。

でもやはり、テレビでやってた「グリッドマン」と「ダイナゼノン」を全部観てる​前提の映画であることは否めなくて、そういうコアなファン視点だとそこまで深いことも書けないし、かと言ってテレビを未見の人に薦めるのはかなりハードルが高いし。

自分が書く視点が見出せなくて、そのままになっていたのでした。

 

すごい面白いし、クオリティの高いアニメ映画だったと思うんですよね「グリッドマン・ユニバース」。

今でもやってるところがあるくらいヒットしてるわけで、だから作品としては成功なんだと思うけど、世間の「映画が好きな人」の中での知名度は高くないわけで。

作り方によっては、「RRR」みたいな流行り方をしてもおかしくないのになあ…なんてことを思ったりしてね。

日本の深夜アニメ〜劇場版の流れが非常に狭い範囲の中に閉じたものになってるのが、なんかもどかしくて、もったいないなあ…などということを、「スパイダーバース」を観ながら思ってしまったりしたのでした。

 

観ながら、もう一つ同時期に観た「岸辺露伴ルーヴルへ行く」を思い浮かべていました。これは実写だけど。

この「岸辺露伴」にしても、「ジョジョ」にしても、この「スパイダーバース」のレベルでアニメにしたら、どんなに凄いモノになるだろう…なんてことを妄想したりしました。

要は「邦画にもっと金をかける」という話に集約してしまいそうなのだけど。

日本のアニメも、もっと金をかけられる環境であって欲しいなあ…とふと思ったのでした。(クールジャパンとか言うのであれば!)

 

 

 

メジャーなのに超実験アニメとも言える前作。

 

アニメだからやってたメタ展開を、実写でやってしまった転換点。