2部作の後編にあたる、「IT/イット THE END ”それ”が見えたら、終わり。」については、6本に渡る詳細なネタバレ解説記事を書いたんですよ。

前編に関しては、ちょうどブログを始めてすぐだったこともあって、そこまで細かい記事は書いていないんですが。

若干片手落ちな気もしてきたし、ちょうど新作記事が書けない、旧作記事を書ける時期というのもあるので、前編の方についてもネタバレ解説記事を書いておきたいと思います。

 

「IT/イット "それ"が見えたら終わり。」レビュー記事はこちら。

「IT/イット "それ"が見えたら終わり。」原作との違いについての記事はこちら。

「IT/イット THE END "それ"が見えたら終わり。」レビュー記事はこちら。

「IT/イット THE END "それ"が見えたら終わり。」ネタバレ解説その1はこちら。

 

というわけで、これは1本目の方「IT/イット ”それ”が見えたら、終わり。」について、映画の時系列に沿って、細かい枝葉の部分をあれこれ検証する記事です。したがって、結末までネタバレしています。未見の方はくれぐれもご注意。

 

それにしても、この識別しにくい邦題はどうにかならないもんでしょうか。

「IT CHAPTER ONE」「IT CHAPTER TWO」というオリジナルタイトルは極めてわかりやすいんですが。

どういうわけか日本独自の副題に当たる「”それ”が見えたら、終わり。」という部分まで同じで、「THE END」が間に挟まってるかどうかで識別しないといけないという、ものすごい見分けにくいタイトルです。

 

宣伝的に煽りみたいな邦題をつけるにしても、なんで後編に同じのをつけるんだ!というのは本気でよくわからない。

「ロッキー4/炎の友情」「ロッキー5/炎の友情」みたいなもんですよ。意味がわからない。

2回目は考えるのが面倒臭かったの? なら「IT/イット 完結編」でいいやん。まぎらわしいんだよ!

 

だいたい、イットは別に見えても終わりにならないんですよ。そういうお化けじゃない。

観た人が、「見えても終わらへんやん」って思っちゃうじゃないか…。映画の本編を貶めるような、間違った邦題はつけないで欲しい。

…って、愚痴が長くなりました。どこかで書いておきたかったので…。

とりあえず、この邦題考えた奴はアホだと思います。映画の足を引っ張らないで欲しい。

1988年10月

ある雨の日に、兄に作ってもらった紙の船を追いかけたジョージーが、排水溝に潜むピエロに捕まって、闇の中に引き込まれて死ぬ。

この、恐怖と詩情に満ちたオープニングシーンは「イット」のもっとも印象深いシーンの一つです。それを忠実に、映像化している。それだけで、素晴らしいことだと思います。

 

ずっと流れているピアノの音のBGMは、ビルとジョージーのお母さんが弾いているピアノの音。お母さんはピアノが趣味なんですね。

原作ではお母さんは「エリーゼのために」を弾いていて、その旋律はビルにとって、「弟が殺された日のBGM」として刻み込まれることになります。

映画で「エリーゼのために」が使われなかったのは、やはりあまりにも有名すぎて、特定の印象を与えてしまうからでしょうか。

映画では、弾いているのはベンジャミン・ウォルフィッシュによるオリジナル・スコア"Every 27 Years"です。サティの「グノシエンヌ」に似た、不吉な響きの音楽です。

 

大雨に降り込められた休日。

ビルは風邪をひいて寝込んでいて、弟ジョージーの遊びに付き合ってやることができません。その代わりに、ビルはジョージーのために折り紙の船を作ってやります。

ビルは「死にかけだ」とか言ってるけど、実はこれ仮病なんですね。後編で初めて明かされることなんですが、ビルはちょっと弟に付き合うのが気が進まなくて、病気のふりをしてしまっています。

仲のいい兄弟でも、時にめんどくさくなる。よくあることだと思います。

でも、よりによってそんな時に、一人で出かけた弟が殺されてしまったら…。

ビルの後悔と罪悪感は、とてつもないことになるだろうと思います。

「実は病気じゃなかった」というこの事実は、原作にはない映画だけの要素です。これによって、ビルがジョージーの復讐に取り憑かれたように打ち込むことがより強調されています。

 

船に防水処置を施すためのワックスを取りに行くようにビルに言われて、ジョージーは地下室へ行きます。

後に、ビルにとっての恐怖の場所になる地下室ですが、小さいジョージーにとっては日常的に「とても怖い場所」です。小さい子供にとって納屋とか物置とか地下室とかが怖いのは、全国共通でよくあることですね。

小さい子供にとっての「ごく普通の日常の中の恐怖」を鮮烈に描き出すのは、スティーヴン・キングの得意とするところです。「クージョ」では、「クローゼットに潜む怪物」が日常に潜む理不尽な恐怖の象徴として描かれていました。

小さい子供は大人にない感受性を持っているから、大人には見えない不気味な怪物の気配も感じ取る。それが、小さな子供が闇に怯える理由かもしれない…。

キングの描く「日常の中の異次元」の真骨頂です。

 

トランシーバーでジョージーと通信するビル。兄弟が遊びに使うトランシーバーは、二人の親密な絆を象徴するものです。

このトランシーバーはジョージーが持って出て、彼と一緒に失われることになります。

イットの巣窟で、ビルがこのトランシーバーを見つけるシーンも撮影されているのですが、完成した映画からはカットされてしまいました。

 

ビルの寝室には、映画「グレムリンのポスターが貼られてますね。「グレムリン」は1984年公開です。

 

ビルとジョージーの家

船は「彼女」と呼ぶ

ビルの作った船には「SS Georgie」と書かれています。

「SS」は一般的に船の鮮明につけられる接頭辞です。

「SS」はSteamshipの略で蒸気船の意味

「USS」ならアメリカ海軍の意味になります。「スター・トレック」の宇宙船も「USSエンタープライズ号」ですね。

ビルが作った船は、「蒸気船ジョージー号」ということになります。

 

船ができあがると、ビルはジョージーに「彼女は完了だ」と言います。

訝しがるジョージーに、ビルは「船は女性名詞で呼ぶ」ことを教えてやります。

一般的に、英語圏では船は女性であり、女性名詞”She"で呼びます。昔から船乗りといえば男性で、その頼れるパートナーとして船を女性に見立てたのだろうと思います。

これは伝統的なもので、今も守られています。欧米の船の名前は大抵女性名で、「クイーン・エリザベス」とかありますね。そういえば、最近話題になったクルーズ船も「ダイヤモンドプリンセス」でした。

 

ものをどんな代名詞で呼ぶかということは、「イット」の重要なキーワードになっています。

英語では船も女性名詞で呼ぶわけですが、動物や乗り物など、人間以外のものであっても、"He"や"She"で呼ぶことで、生命や愛着を感じさせるという伝統的な慣習があります。

だから、生きているものであるにもかかわらず"It(それ)"で呼ぶというのは、そのものが我々の知る「生き物」であることや、愛着の持てる存在であることを否定しているということなんですよね。

そんな、通常の生き物と隔絶された異質な存在であるということ。"It(それ)"としか呼びようのないものである、ということ。

だから、本作の怪物は一貫して"It(それ)"と呼ばれているわけです。

 

そして、船の性別についてのこの会話は、本作のクライマックスにおいて最大のポイントになります。

 

出かける際に、ジョージーはビルに抱きつき、キスをします。やんちゃ盛りの男同士の兄弟では、仲が良くても普段はそんなにしないことで、これはビルにとって強い後悔を伴う記憶として残ることになります。

ペニーワイズの登場

お兄ちゃんに作ってもらった船を嬉しそうに走らせる、黄色いレインコートを着たジョージー。

黄色いレインコートと、赤い風船のコントラストは、ポスターなどのビジュアルでも強調されている、「イット」の魅力的な色彩です。

ジョージーがペニーワイズに捕まるのは「ジャクソン・ストリートとウィッチャム・ストリートの交差点」にある側溝。

 

原作によれば、1741年、デリーに入植したばかりの340人の住人すべてが消え失せる事件が起こりました。その時に丸焼けになった家が、ジャクソン・ストリートとウィッチャム・ストリートの交差点に建っていました。

 

下水溝の中に潜んでいたピエロ、ペニーワイズは船と赤い風船を餌に、ジョージーの気をひきます。

それに、サーカスの音楽、ピーナッツやポップコーンの匂いといったものによっても。

手を伸ばしたジョージーの腕にペニーワイズは噛みつきます。腕を食いちぎられたジョージーは悲鳴をあげながら這って逃げようとしますが、排水溝から伸びてきたピエロの手によって捕まれ、下水道に引きずり込まれます。

現場の前の家の老婦人が見たのは、排水溝から水たまりに広がる赤い血だけ…。

 

原作ではジョージーの死体は現場に残され、近くの家から現場にかけつけたデイヴ・ガードナーによって発見されることになります。

映画では、ジョージーの死体も、紙の船もトランシーバーも、現場には残りませんでした。そのため、ビルはジョージーが生きているというはかない望みを持ち続けることになります。

映画では後にビルは紙の船を取り戻すのですが、原作では船はそのまま下水道を流れていき、イットの手からも逃れて消えてしまうことになります。

「舟が最後にどこにたどり着いたのか私は知らない。いずれ海に出て、おとぎ話の魔法の舟のように永遠の航海を続けているのかもしれない。私が知っていることといえば、小舟は、洪水の先頭を走ってメイン州デリーの市境を越えていき、この物語から永遠に姿を消したということだけだ。」

小尾芙佐訳 文藝春秋刊

 

下水道を抜けて川へ向かう船を暗示するように、下水道のトンネルから荒れ地へ抜けていく様子が映し出され、タイトル"IT"が表示されます。

現在と過去を交錯しながら進んでいく原作では、この間に「エイドリアン・メロン殺害事件」のシーンと、「マイクがかける6つの電話」のシーンが挟まれます。

1989年6月/夏休みの始まり

農場で働くマイク・ハンロンの様子から始まります。マイクは屠殺銃を羊の頭に向けていますが、どうしても引き鉄を引くことができません。

マイクの祖父のリロイ・ハンロンは「この世界には2つの場所がある。こっち側(屠殺する人間の側)と、あっち側(屠殺される羊の側)だ」「自分で選ばないなら、いずれ眉間にボルトを撃ち込まれることになる」とマイクを諭しますが、マイクは羊を殺すのに気が進みません。

祖父が諭しているのは、差別されることの多い黒人がアメリカで生き抜く上の信条として、彼が長年かけて掴んだことなのでしょう。

 

原作ではマイクの両親は健在で、マイクは父親ウィル・ハンロンが経営するハンロン農場で暮らしているのですが、映画では両親は火事で死亡していて、マイクは祖父と暮らしていることになっています。

原作では、マイクが屠殺銃を使う描写もありません。この屠殺銃は後で、イットとの戦いで重要なアイテムになります。

 

アメリカの学校は6月下旬から8月下旬までが夏休み。9月から新学期になります。

学校が終わって、開放感いっぱいの子供たち。ビル、リッチー、エディ、スタンが連れ立って歩いて行きます。映画ではこの4人が最初から友達で、残りのメンツは徐々に揃っていくことになります。

 

ビル・デンブロウどもりに悩んでいて、「どもりのビル」と呼ばれています。

冒頭のシーンからビルはどもっているので、ジョージーの死がその原因というわけではない。劇中では、ビルがどもるようになったきっかけについては語られていません。

ビルは1976年生まれで、1989年時点で13歳

原作小説では1946年生まれなので、実に30歳も若返っていることになります。ビルたちルーザーズ・クラブの7人は全員同い年で、映画の時点で13歳(誕生日の来ていない子は12歳)です。

ちなみにジョージーは1981年生まれで、殺害された1988年10月の時点で7歳です。

 

リッチー・トージアは大きなメガネをかけていて、常に冗談をまくしたてる口が止まらない。そのおかげでいつも痛い目にあっています。

 

エディ・カスプブラクは過保護な母ソニアと二人暮らし。

息子を病弱と決めつける母親のせいで、エディはいつも病気にビクビクしています。ぜんそく持ちで、薬の吸入器が手放せません。

 

スタンリー・ユリスはユダヤ人で、父親はユダヤ教のラビ。敬虔なユダヤ教徒の家庭に生まれ育っています。

 

子供達は、スタンが受けることになっているユダヤ教の儀式「バルミツバ(Bar Mitzvah)」について話題にしています。

バルミツバはユダヤ教徒の成人式。男児が13歳になった後の安息日に、トーラーを朗読し、スピーチを行います。

リッチーたちが夢中になっている「あそこの先を切る」というのは割礼のことで、旧約聖書に基づいてユダヤ人は伝統的に割礼を行います。

スタンのバルミツバは本作の後半に少しだけ出てくる他、後編であらためて本格的に描かれることになります。

 

トイレでは、べバリー・マーシュが喫煙中。

原作で描かれるべバリーの特徴…赤毛、そばかすのある顔…は、今回の映画ではかなり忠実に再現されています。

べバリーは学校の女子の間で「あばずれ」扱いされています。実際の彼女はそんな子ではないのに、「誰とでも寝る女の子」の烙印を押されているのです。

今日も、グレッタがトイレの中のべバリーに汚水を浴びせる嫌がらせ。グレッタは原作ではグレッタ・ボウイーという名前ですが、映画ではキーン薬局の娘グレッタ・キーンになっています。

このトイレは、べバリーのトラウマの場所として、あらためて後編に登場してきます。

ベティ・リプサムとヘンリー・バワーズ

学校の外には、「午後7時以降の外出禁止を忘れるな」という大きな注意書きが掲げられています。連続する子供の行方不明事件を受けて、子供への夜間外出禁止令が出されています。ジョージー以外にも、既に多くの子供が行方不明になっていることがここからわかります。

警官たちに付き添われて校門の前に来ているのは、ベティ・リプサムの母親。ベティは何週間か前に、家庭科の時間に突然消えて、それっきりになってしまっています。

ベティの母親は、学期の終わりとともに娘が学校から出てくる…というはかない望みをかけて来ていますが、子供達はベティは殺されたものと考えています。

 

ヘンリー・バワーズと彼の取り巻きたちが、リッチーに絡み、ビルと一触即発になります。

ヘンリー・バワーズは1973年生まれの16歳。ビルたちより3つも年上ですが、落第していまだに近くにいて、自分より小さなルーザーズ・クラブに執拗ないじめを仕掛けてきます。

ヘンリーといつも一緒に行動する悪ガキたちは、パトリック・ホックステッターレジナルド・"ベルチ”・ハギンズBelchはゲップの意味で、原作では「ゲップ・ハギンズ」と呼ばれています。映画でも、登場するなりビルらにゲップを浴びせかけていますね。

ビルが恐れず立ち向かったので、ヘンリーは彼に狙いを定めます。「ジョージーのことでこれまでは手加減していたが…」とヘンリーは言います。「今年はキツイ夏になるぞ」

ヘンリーのこの言葉は、ルーザーズ・クラブにとっては正しい予言になったわけですが。

ヘンリーを止めたのは、ベティの母親に付き添っていた警官でした。この警官はブッチ・バワーズで、ヘンリーの父親です。ヘンリーはこの父親に虐待を受けていて、いつもは強面の彼も父親だけには一切反抗できません。

というか、ヘンリーの性根を歪ませてしまった張本人がこの父親ですね。

 

父親に睨まれてすごすごと引き下がり、ヘンリーたちは青い1981年型ポンティアック・ファイアバードで走り去ります。

リッチーらは、ベティら子供達の行方不明の犯人は、ヘンリーかもしれないと考えています。

ベンとべバリーの出会い

ベン給水塔の工作を両手に抱えて、裏口からコソコソと出てきます。そこでベンはべバリーと出会って、「ヘンリー・バワーズなら表に行ったよ」と教えてもらうことになります。

原作では、ベンはヘンリーにカンニングさせなかったことで恨みを買っていて、夏休みの始めを逃げ回ることになります。

ベン・ハンスコムは原作ではただ太っていて友達のいない孤独な少年なんですが、映画では転校生に設定されていて、そのことはファンであるニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックで強調されています。The New Kids On The Blockとは新参者、新入りという意味です。

 

ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックは1984年結成、1994年解散のアメリカの5人組アイドル・ポップ・グループです。1990年の"Step By Step"は日本でも大ヒットしました。

このアイドル・グループに夢中になっているのがベンは恥ずかしいのか、ポスターは部屋のドアの裏だとかロッカーの中だとか、隠れる場所に貼っています。

でも、何を聴いているかがべバリーにバレたことで、ベンは彼女と親しくなるきっかけを得ました。

 

べバリーはベンのアルバムにサインをしますが、それが誰のサインもなく真っ白であるのに気づいて、複雑な表情を見せます。

ベンは恥ずかしそうにしますが、べバリーが感じたのは同情とか軽蔑ではなくて、仲間意識でした。女の子たちに嫌われ、友達のいないべバリーのアルバムもおそらくベンと同じく真っ白だったのでは…と思います。

このアルバムはYear Bookというもので、生徒たちの写真を掲載した卒業アルバムみたいなものですが、アメリカの学校では毎年1冊ずつ配られます。

毎年学年末に配られ、表紙の裏の白いページに友達のサインを集めるのが習わしになっています。リア充ほど多くのサインで埋まっていき、陰キャは真っ白なまま…って、日本もアメリカも一緒ですね。

サインするシーンでわかりますが、べバリーは左利きです。これは、ルーザーズ・クラブではべバリーだけの特徴です。

 

別れ際、べバリーはベンに「負けるなニュー・キッド」と声をかけます。

ベンは"Please Don't Go Girl"と返します。これはニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックのデビューシングル曲のタイトルです。

べバリーが書いてくれたこのサインを、ベンはその後ずっと大人になるまで、宝物として肌身離さず持ち続けることになります。

 

その2に続きます。