ルターの問題点
ルターはカトリックのキリスト教からプロテスタントを作り上げた
キリスト教における最大の功労者のはずなのに、キリスト教プロテスタントでそれほど
取り上げられていないのはかねがね不思議に思っていた。
どうやら最大の理由は
ルターが異教徒とりわけユダヤ人への憎悪をもち実践していたことに理由がある
ようだ。
カトリックも信者以外への弾圧も恐ろしいものだったがプロテスタントでさえ
類似の問題を抱えていたのだった。
神の国と義をまず第一に求めなさい2
Matthew 6:33 New International Version (NIV)
33 But seek first his kingdom and his righteousness, and all these things will be given to you as well.
”神の国と義をまず第一に求めなさい”をそのまま国家のキリスト教の国にするようにという
意味では政治的になってしまうので、誰もが戸惑ってしまう。
そこでその求める場所を心に中にと考えるのは自然な解釈となる。
”
「神の国とその義」は霊的な奥義として信仰者の中に実現される神の支配という側面もあります。イエス様はここでは二つを区別されておられないように感じられます。
”
区別しているかどうかは別として、信仰者の(心の)中に実現することなら誰もが依存はない。国家の政治を
変えると革命を起こすと一大事なことだ。例えばイスラムの国々を否定することにもなる。
しかし、それさえも本当のところは難しい場合がある。それは聖霊を受け入れてイエスは私の主であると告白しても
その先が素直にいく場合とそうでない場合があるのだ。
それは理性は聖霊によっても変えることができそうもないからだ。
一部の創造論者は変えることができているようだが、創造論者は強引に論を進めているという
様子は否めない。
偽教師か?
メガチャーチのトップにランクされるテキサスの大教会の
牧師Joel Osteen の説教。贅沢三昧のこの牧師は偽教師か?
<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/blzydAg86vw" frameborder="0" allow="autoplay; encrypted-media" allowfullscreen></iframe>
神の国とその義とをまず第一に求めなさい
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6章33節)
祈りに際して、差し迫った祈りではなく、その前に神の国とその義を求めなさいという。
抽象的でわかりにくい。一体これを理解できるものがいるのだろうか?
一例としてこのサイトではかなり真剣に解読しようとしているが論理的整合性にかけていて説得力に欠けている。
ネットにも色々な解説が多いが、どれもマトを得たものは見当たらない。難問もひとつだ。
パウロとは何者か?
新約聖書で最も多作の著者のパウロはイエス様に1.5回しかあっていない。
1回目は最初のダマスコでの顕現、0.5回目は布教をイエス様から聖霊によって激励されたとき。
そのほかにはマルコなどの弟子から間接的に生前の話を聞いただろうがこれだけで
最も多弁な布教者になれることは考えにくい。
そういう事実を顧みることない?パウロ神学の研究者は一体何を研究してきたのだろう。
神学を聖霊の働きを無視して論じることなど全く意味がない。
信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
これは著者が不明確なヘブル書の11章1節からの引用だ。
祈りが聞き入れられていないのではないかという怖れに対する新訳聖書の教えだ。
ここでは数々の旧約聖書の事例を上げて信仰とはどんなものであったかを示している。
現代でも盲目の信仰を持った信者はこの言葉を信じている人たちが少なくない。
しかし、神を求めてなお祈りが聞かれたことが見えないクリスチャンで苦しむ人々は多い。
まだ見ていない事実をどうやって確認できるのだろう。
ただ見ていない祈りが実現することを祈るしかできないのが多数であろう。
かくも信仰を保つことは難しい。並大抵では信仰は持てない。
とりなしの祈り
執りなしの祈りをするのに特別な恵みをえてイエス様と一緒に生活をする人に頼む必要はないという
人がいる。
一部転載:
聖書は、すべてのクリスチャンがとりなしの祈りをささげるように召されていると、はっきり教えています。すべてのクリスチャンのうちには聖霊が宿っておられます。聖霊が御心によって私たちのためにとりなしてくださる(ローマ8章26-27節)のと同じように、私たちも互いのためにとりなすべきなのです。これは、専門的なエリートのクリスチャンに限られた特権ではないのです。これはすべてのクリスチャンに対する命令 なのです。事実、他の人のためにとりなしをしないのは罪になるのです。「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて、主に罪を犯すなど、とてもできない。」(第1サムエル12章23節)
確かに、ペテロもパウロも他の人にとりなしを頼んだとき、特別にとりなしの祈りをするのに召された人だけに限って頼んだわけではありません。「こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」(使徒12章5節)彼のために祈っていたのは、単に、特別な祈りの賜物のある人だけではなく教会全体が祈っていたと言うことに注目してください。エペソ6章16-18節で、パウロはエペソの信者たち―すべての信者たちに、クリスチャン生活の 原則について勧めていますが、その原則の中にとりなしの祈りも含まれています。「すべての祈りと願いとを用いて、」とあります。明らかに、とりなしの祈りは、すべての信者のクリスチャン生活のための一部に入っているのです。
というのがその骨子。
それは理想論ではないだろうか?
というのはいくら求めても祈りが聞き入れられないケースというのは少なくない。
その原因をイエス様にたづねても回答を得られない。
それならばいつも神と共に歩んで生活をしていると主張している
牧師や牧師志望者、神学生
に執りなしの祈り、
を頼んでもらおうと考えるのは自然なことではなかろうか?
ところがそうすると現実に現実に何が起きるか?
彼らはこうこたえる。
”それはできない、なぜならあなたの信仰に問題があるから”
”あなたは信仰に疑問を抱いているから、それはできない”
こういう答えが返ってくる。
なんの答えにもならず、ただ孤独になるばかりとなる。
普段の理想論を唱えてはいるが、これでは信仰宗教の回答と似ている一般的な欺瞞の対応に思えてくる。
プロテスタントとカトリックの十戒の違い
プロテスタントとカトリックの十戒には違いがあるようでネットでもあちこちで
議論されている。
カトリックの十戒には偶像礼拝が抜けているようなのだ。
カトリックではマリア像や聖人の像があり偶像を使っているようだから
意図的に変えた印象がある。
このことを指摘するサイトがありカトリックの十戒は聖書に反するとはっきりといっている。
その理由は
:
箴言30:6(新共同訳)
御言葉に付け加えようとするな。責められて 偽る者と断罪されることのないように。
だからだ。その通りで理屈が通っている。
葦の海2
モーザが割った海は葦の海と呼ばれている潟だったというが
アメリカ大気研究センターのカール・ドレウス氏だ。彼によれば強い風が海を分けたという。
一部転載:
その上でドレウス氏は、様々なデータを用いて当時の地形状況や気候をコンピュータモデルで再現。東から強烈な風を吹かせると、嵐のようにラグーンの水面が波立ち、海水が西へと追いやられることを確認した。時間にして4時間程度だったという。また19世紀後半、エジプトに軍事介入した英国軍の記録にも、現地で強風が吹きラグーンの水が完全に無くなっていたとの記述が見られるという。さらに同様の現象は、エリー湖(北米大陸五大湖のひとつ)などでも観測されているとした。
<iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/XZqIZqDh1ns" frameborder="0" allow="autoplay; encrypted-media" allowfullscreen></iframe>
葦の海
モーセがカナンの地に行くのに海を割ったとあるがこの海は紅海と聞いていたが地図を見るとエジプトからカナンに行くのに南の方に位置する紅海を通るのはおかしいと思っていた。陸地を通る方が自然だからである。
と思っていたら、モーゼらが通ったのは葦の海だったようだ。この葦の海がどこだったかは
大ビーター湖あるいはバルダビル湖と二説あるらしい。湖というか潟らしい。つまり干潟で潮の満ち引きがあった
ということであればモーセが海を割ったというのは潮が引いことを海を割ったと表現した可能性が出てくる。
