とりなしの祈り
執りなしの祈りをするのに特別な恵みをえてイエス様と一緒に生活をする人に頼む必要はないという
人がいる。
一部転載:
聖書は、すべてのクリスチャンがとりなしの祈りをささげるように召されていると、はっきり教えています。すべてのクリスチャンのうちには聖霊が宿っておられます。聖霊が御心によって私たちのためにとりなしてくださる(ローマ8章26-27節)のと同じように、私たちも互いのためにとりなすべきなのです。これは、専門的なエリートのクリスチャンに限られた特権ではないのです。これはすべてのクリスチャンに対する命令 なのです。事実、他の人のためにとりなしをしないのは罪になるのです。「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて、主に罪を犯すなど、とてもできない。」(第1サムエル12章23節)
確かに、ペテロもパウロも他の人にとりなしを頼んだとき、特別にとりなしの祈りをするのに召された人だけに限って頼んだわけではありません。「こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」(使徒12章5節)彼のために祈っていたのは、単に、特別な祈りの賜物のある人だけではなく教会全体が祈っていたと言うことに注目してください。エペソ6章16-18節で、パウロはエペソの信者たち―すべての信者たちに、クリスチャン生活の 原則について勧めていますが、その原則の中にとりなしの祈りも含まれています。「すべての祈りと願いとを用いて、」とあります。明らかに、とりなしの祈りは、すべての信者のクリスチャン生活のための一部に入っているのです。
というのがその骨子。
それは理想論ではないだろうか?
というのはいくら求めても祈りが聞き入れられないケースというのは少なくない。
その原因をイエス様にたづねても回答を得られない。
それならばいつも神と共に歩んで生活をしていると主張している
牧師や牧師志望者、神学生
に執りなしの祈り、
を頼んでもらおうと考えるのは自然なことではなかろうか?
ところがそうすると現実に現実に何が起きるか?
彼らはこうこたえる。
”それはできない、なぜならあなたの信仰に問題があるから”
”あなたは信仰に疑問を抱いているから、それはできない”
こういう答えが返ってくる。
なんの答えにもならず、ただ孤独になるばかりとなる。
普段の理想論を唱えてはいるが、これでは信仰宗教の回答と似ている一般的な欺瞞の対応に思えてくる。