人と違うことをする【その1】
小さい時から「人と違うことをする」ことを意識してました。
なぜか皆と同じことをしていると違和感を覚え、進んで人と違うことをしてました。
その結果、小学生の時はいじめにあったり、成績が優秀でもないのに、中学受験をし私立中学に進学したり、大学の時は友人が誘うパッケージツアーの卒業旅行を断り、格安航空券とヨーロッパの時刻表を片手にヨーロッパ一周をしたり、とにかく人と違うことをすることを意識的にしてました。
幼少のときは、もしかしたら目立ちたかっただけかもしれないのですが、今となるとそのことが自分の財産になっており、皆と異なる意見を出すことで、違った角度で物事を見ることができるようになりました。
一人ぼっちになることも苦痛ではないですし、「皆がやっているんだから僕もそうしなければ」ということもなくなりました。
一人ぼっちになることも苦痛ではないですし、「皆がやっているんだから僕もそうしなければ」ということもなくなりました。
全ての事象に対して、自分の価値基準を基に判断し、また物事を洞察するようになりました。
このようになったのは父が異端経営者だったということも影響したのだと思います。
父のことをここで少し触れますと、風貌はいわゆる「その筋の方」。手には金の時計をし、メガネにはグラデーションのレンズが装着されていて、服装は普段はアースカラーのアロハ。完全にその筋の方。。。 この続きは次回。
止庸という考え方
私がビジネスを進めて行く上で努めていることが、この止庸という考え方です。
父が経営をしていたころは、切ったはった、食うか食われるか、という経営環境で、油断をすると全て奪われる、つまりwin or loseという中で経営を進めていたようです。今のようにwin winという考えはなく、win winをしたくても、そのようなことを考えていたら、上手く騙され奪われる。確かに今でも如何に相手から奪うかという考えで、ビジネスをしている人がいるようですが、私はそのような父の背中を見ながら育ったので、そのようなことを考えている人に会うと直感でわかるのです。
ありがたいことに、私のビジネスパートナーには、そのような人がおらず、皆さん新たな価値を作りたいと考えて、一緒に仕事をさせていただいております。
私は大学のメジャーが経済学の社会思想史でした。担当教授の専門がヘーゲルだったので、この止庸(アウフヘーベン)ということに、興味を持ち、卒業後も頭の片隅に置いてました。アウフヘーベンはヘーゲルが伝えたかった最大の思想で、新たな価値を生み出す唯一の方法だと私は考えてます。そして、自分が経営に携わることになったとき、この止庸ということを信念として、第三の選択肢を意識し、模索するようになりました。
止庸とは、意見(価値)と意見(価値)のぶつかり合いの末にある新たな境地(価値)で、両者の価値を抱擁する新たな境地に至る道のことと私は理解してます。
既存の価値やお金という価値の中で解決を求めようとするから、限界があり、同じパイの食い合いになり、取るか取られるかという考えになるのであって、その上に行かないとダメなのです。
言い方を換えると、清濁合わせもった先に新たな境地があると考えます。辛い物がなければ、甘い物はない。暗い物がなければ、明るい物はない。夜がなければ、朝がない。どちらか一方が無くなると、もう一方も存在しないということです。
その両方の価値(辛いけど甘いものとか、暗いけど明るいことのようによく分からないもの)を持つ物はぼやーっとし輪郭に欠けるのですが、この両方の価値を持ったものに真実がある、そしてこれを求める時代になったと私は思ってます。
そのように考えると、新たな価値を作ろうという目標をもつと、そこに人は集まるのです。なぜなら、志しある人は、新たな価値を作り、誰かの役に立ちたいと考えているからです。
既存の枠組みに囚われず、新たな枠組みを創り、社会発展のために貢献できれば、これ以上の幸せはないと考えてます。
父が経営をしていたころは、切ったはった、食うか食われるか、という経営環境で、油断をすると全て奪われる、つまりwin or loseという中で経営を進めていたようです。今のようにwin winという考えはなく、win winをしたくても、そのようなことを考えていたら、上手く騙され奪われる。確かに今でも如何に相手から奪うかという考えで、ビジネスをしている人がいるようですが、私はそのような父の背中を見ながら育ったので、そのようなことを考えている人に会うと直感でわかるのです。
ありがたいことに、私のビジネスパートナーには、そのような人がおらず、皆さん新たな価値を作りたいと考えて、一緒に仕事をさせていただいております。
私は大学のメジャーが経済学の社会思想史でした。担当教授の専門がヘーゲルだったので、この止庸(アウフヘーベン)ということに、興味を持ち、卒業後も頭の片隅に置いてました。アウフヘーベンはヘーゲルが伝えたかった最大の思想で、新たな価値を生み出す唯一の方法だと私は考えてます。そして、自分が経営に携わることになったとき、この止庸ということを信念として、第三の選択肢を意識し、模索するようになりました。
止庸とは、意見(価値)と意見(価値)のぶつかり合いの末にある新たな境地(価値)で、両者の価値を抱擁する新たな境地に至る道のことと私は理解してます。
既存の価値やお金という価値の中で解決を求めようとするから、限界があり、同じパイの食い合いになり、取るか取られるかという考えになるのであって、その上に行かないとダメなのです。
言い方を換えると、清濁合わせもった先に新たな境地があると考えます。辛い物がなければ、甘い物はない。暗い物がなければ、明るい物はない。夜がなければ、朝がない。どちらか一方が無くなると、もう一方も存在しないということです。
その両方の価値(辛いけど甘いものとか、暗いけど明るいことのようによく分からないもの)を持つ物はぼやーっとし輪郭に欠けるのですが、この両方の価値を持ったものに真実がある、そしてこれを求める時代になったと私は思ってます。
そのように考えると、新たな価値を作ろうという目標をもつと、そこに人は集まるのです。なぜなら、志しある人は、新たな価値を作り、誰かの役に立ちたいと考えているからです。
既存の枠組みに囚われず、新たな枠組みを創り、社会発展のために貢献できれば、これ以上の幸せはないと考えてます。
カンパチの西京漬け(じゃなくて、味噌漬け)
先週末、某出版社編集長と乗合船でジギングという釣りをしに行きました。(釣りは今年1月に行った以来です。。。)
お目当ての獲物はゲットできなかったのですが、非常に綺麗なカンパチを釣り上げることができました。
帰宅後、半身を塩焼き用として塩を振り、寝かせ、もう半身を西京漬けにしようと思い、漬け味噌をこしらえました。
西京味噌が無くなっていたので、普通の味噌で代用。つまりただの味噌漬けになってしまいました。
西京漬けよりも塩分の濃い普通の味噌は、味醂を西京漬けに使用する倍量入れ、それと日本酒で漬けていきます。
折角漬け味噌をこしらえたので、冷蔵庫にあった牛肉も漬けました。
そして翌朝漬けすぎないように取り出そうと思っていたのですが忘れてしまい、帰宅後すぐに漬け味噌から取り出し、綺麗にキッチンタオルで味噌をぬぐい再び冷蔵庫に入れました。
他の保存方法としては、知り合いの寿司職人から教えてもらったのですが、味噌のまま冷凍庫に入れると魚だけ凍り味噌は凍らないので良いとのことです。魚が凍るのでそれ以上味が浸み込まないそうです。
そして、昨晩、漬けたカンパチと牛肉を食しました。(ちなみに、塩焼きにしたカンパチは最高でした!)
牛肉は漬かり過ぎてしまったようで濃いめの味でしたが、カンパチは若干濃いものの非常に楽しめました。
西京味噌を昨日帰宅時に購入したので、今度は私の大好きなキンキで作ってみようと思います。
そろそろ魚のおいしい季節になってきたので、楽しみです。
お目当ての獲物はゲットできなかったのですが、非常に綺麗なカンパチを釣り上げることができました。
帰宅後、半身を塩焼き用として塩を振り、寝かせ、もう半身を西京漬けにしようと思い、漬け味噌をこしらえました。
西京味噌が無くなっていたので、普通の味噌で代用。つまりただの味噌漬けになってしまいました。
西京漬けよりも塩分の濃い普通の味噌は、味醂を西京漬けに使用する倍量入れ、それと日本酒で漬けていきます。
折角漬け味噌をこしらえたので、冷蔵庫にあった牛肉も漬けました。
そして翌朝漬けすぎないように取り出そうと思っていたのですが忘れてしまい、帰宅後すぐに漬け味噌から取り出し、綺麗にキッチンタオルで味噌をぬぐい再び冷蔵庫に入れました。
他の保存方法としては、知り合いの寿司職人から教えてもらったのですが、味噌のまま冷凍庫に入れると魚だけ凍り味噌は凍らないので良いとのことです。魚が凍るのでそれ以上味が浸み込まないそうです。
そして、昨晩、漬けたカンパチと牛肉を食しました。(ちなみに、塩焼きにしたカンパチは最高でした!)
牛肉は漬かり過ぎてしまったようで濃いめの味でしたが、カンパチは若干濃いものの非常に楽しめました。
西京味噌を昨日帰宅時に購入したので、今度は私の大好きなキンキで作ってみようと思います。
そろそろ魚のおいしい季節になってきたので、楽しみです。