昔、初めて原理講義を聞き、その「堕落論」に進んだとき、講義を聞きながら、ふと思ったことがありました。
「おや、おや、この人たちは、本気で天使がいると信じているんだ。あーあ‥‥‥」
この疑問はその後、自然消滅しました。食口の中に、こんな疑問を持つ人はいないと思いますし、疑問に思ったという人も少ないかもしれませんね。
次の御言をお読み下さい。
「男性は外向的で女性は内向的です。ですから、女性は日差しのよい春になれば、太陽の下でおもちゃを持って遊ぶのが好きです。ところが、男性は闊達なので、春になれば東西南北を巡りながら、すべてのものを主管しようとする意欲が生じるのです。ですから、エバは座って遊ぶことを望み、アダムは山に登って跳び回って遊ぶことを望むのです。それで、エバはいつもうるさく『おにいちゃん、私と一緒に行こう。私を連れていって』と言いながら、アダムを困らせたのです。
男性は山に行って野ウサギや、タヌキ、鹿を捕まえ、熊がいれば熊に乗って回り、虎がいれば虎とキスして友達にしたいのです。ところが、女性はこれらを見るだけでびっくりして、引っ繰り返るようになっているのです。ですから、男性と女性は合わないのです。男性であるアダムは蛇を捕まえ、うるさく騒ぐエバの前に蛇を突き出せば、女性であるエバは驚いてどれほど寂しい涙を流したでしょうか? 一度考えてみてください。毎日、生活の歩調が互いにぶつかるのです。このようにエバが多く涙を流し、多くの不平をいう立場にいたので、裸で天使長がおぶってもあげ、だっこもしてあげたのです。」 (ファミリー 94年8月 P13 第32回「真の万物の日」)
最後の
「裸で天使長がおぶってもあげ、だっこもしてあげたのです」
に着目してください。食口であれば、特に違和感はないと思いますが、これに関連して、次①~⑩の選択肢を用意しましたので、該当するものがあれば選んでみてください。複数回答も可とします。
① 天使長はエバをおんぶすることもだっこすることもできた
② 人間は堕落し、霊的な感性がなくなったので、今はそれは不可能である
③ いや、今でも霊的な感性のある人間に対してなら、その人を天使長はおんぶしたり、だっこしたりすることができる
④ 天使長は人間をその霊的力でおんぶもだっこもできる。ただ、今はそれをする必要がないからしないだけだ
⑤ おんぶしたり、だっこしたりしたのはエバの霊人体のことであって、肉身のことではない
⑥ 天使長が人間をおんぶ・だっこするなんてことは現実的にはありえない。「おんぶ、だっこ」とは何かを比喩したものだ
⑦ いや、むしろ「天使長」自体が何かを比喩したものだ
⑧ いや、いや、上の御言全体が何かを比喩しているはずだ
⑨ 天使なんかいない!
⑩ その他
いかがでしょうか?
①、②、③、④の場合、信じるかどうかという問題です。「ただ信じなさい」というセリフには、最近少々うんざりしています。信じるにしてもある程度根拠が欲しいです。
また、⑤の場合、「えっ! じゃ、その間エバは幽体離脱してたってこと?」というように新たな疑問が出てきます。
さらに、⑥の場合、「おんぶやだっこで比喩されるもの」といっても今のところ何も浮かびません。思い当たることがあればお教え下さい。
残りそうなのは、⑦、⑧、そして一応⑨も。あとは、今のところ絞りきれません。
ただ、最近は、記事冒頭で申し上げた疑問、つまり
「本気で天使がいると信じているのか?‥‥‥」
が、再び息を吹き返し始めています。
(「信仰を失いつつある兆しだ!」VS「信じない=不信仰と決めつけるな!」)
文先生が天使・天使長の話をされたとき、それは、メシアを迎えるために準備された人々や、私達食口が何をすべきかという観点で語られた場合がほとんどだと言っても過言ではありません。
ただ、聖書に登場するみ使いとしてのいわゆる天使が実際に存在するのかどうかということは、霊的感性の乏しい私には、直接確認することはできません。また、御言も見当たりません。あったと思っても、よく読んでみると、やはりメシアの基台になる人々が何をすべきかという意味で語っておられるように思えてきます。
家庭連合や聖書を信じる人々の間では、当たり前だとされている「天使の存在」、それに異を唱えるなんてばかじゃないかと言われそうです。他の宗教でも、天使のことを指しているのではないかと思われる霊的存在についての説明があったりする場合もあります。ですが、今回私が問題にしたいのは、実は、そこではありません。
私の論点を改めて明確にしておきたいと思います。そうしないと違う方向に議論が進んでいってしまいそうです。
私は、聖書に出てくるみ使いとしての「天使」が存在するかどうかを確認したいわけではありません。文先生が「天使」、「天使長」というとき、それは、ほとんどの場合、どうも人間を指しているように思えるということです。未完成のままの状態にとどまっている人間を指して天使と言っておられることがほとんどのように思えるということです。
そして、特に、メシアと直接かかわるような人々に対しては「天使長家庭」という概念を適用しておられたようです。ここが、今後の話の展開のために、今回私が指摘しておきたいところです。
天使には男性しかいないとか、天使には相対理念がないとかいう御言がある一方で、それと矛盾する「天使長家庭」という言葉を使っておられます。なぜ矛盾したことを言われるのだろうと思うのですが、矛盾に気づくことにより、その意図するところをたずねなさいと言っておられるように感じられます。
文先生の御言の中に「天使、天使長、天使長家庭」という言葉が出てきたら、ほとんどの場合、未完成のままの状態にとどまっている人間を指して言っておられるということを念頭において、御言を読むことが大切だと考えています。
そして、今後、私の記事の中では、このような観点に立って話を展開していくことになると思います。
なお、「天使は絶対にいます。私は見ました。」という証を、今の私は必要としていません。そのような話は今までたくさん見聞きしてきました。何度も言いますが、関心事はそこではありません。ですからその意味のコメントを頂いても返信はできないと思います。あしからずご了承ください。
ですが、もし、「100パーセント天使の説明以外の何物でもない」ととれる御言がありましたら、お教え頂けるとありがいです。
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