※平氏追討
橘氏一族が到着した翌日、頼朝の家臣三浦義澄が頼朝の御亭で御祝いの膳を献ずる儀式があり、その時行われる御弓始めに、橘公忠・公業の兄弟に対し特別出場するよう頼朝から命令がくだった。公業らが弓馬にすぐれていたことは、加々美から頼朝の耳に入っていたのである。このようにして橘氏一族は、鎌倉に到着した翌日から重臣扱いされ、頼朝の側近として鎌倉に新しい屋敷を構えることになり、一応順調なスタートを切った。なお長子公忠は、このあと「吾妻鏡」の記載から姿を消し、次子公業が橘氏の家督を嗣ぎ活躍していくことになる。
やがて源平合戦は終盤をむかえるが、頼朝の配下に入った橘氏は、かっての主人である平氏追討のため義経に従って西国に向かうことになった。先ず公業は元暦元年(1184)2月、一の谷の戦いに参加した。そしてこの戦いでは、皮肉にも公業らが京都にいたとき従うことを命じられた平重衡が捕らえられた。
一方、一の谷の合戦で敗れた平氏は九州の国々を奪いとっていたため、これを攻撃する必要が生じ、義経は公業を先陣に命じ讃岐(香川県)に上陸させた。源氏方の武士団は関東地方を基盤とするものが多いため陸戦には強いが海戦に弱く、そのため伊予国宇和郡に本拠をもつ橘氏は、平氏追討をすすめるうえで重要な存在であったのである。公業が一方の先陣にえらばれたのは当然で、このあと公業は海戦になれた武士
を配下に、平氏追討戦で功をつくした。
※平氏一族処刑
平氏追討戦で先陣を果たしたまではよかったが、こんどは橘氏にとってまったく思いがけない役が廻ってきた、それは京都時代仕えた平氏一族の処刑である。
義経は源平合戦で捕らえた平宗盛を伴って京都から鎌倉に向かっていた。しかし義経と不仲になっていた頼朝は、鎌倉に入ることを禁じ、再び京都に戻るよう命ずるとともに、壇ノ浦の戦いのあと一足先に鎌倉に帰っていた橘氏に対し、義経と同道して京都に行くよう命じた。そこで橘公長らも義経に追いつき西に向かった。ところが京都目前の近江篠原に着いたとき異変がおこった。それは、義経から公長に対して出された宗盛・清宗父子斬首の命令である。平宗盛は橘氏が京都で生活していたころ仕えていた知盛の兄で、もちろん顔身知りである。頼朝家臣が数多くいるにもかかわらず、なぜ自分が義経と同道することを命じられたのか、またこの場で、なぜ昔仕えていた平氏一門の父子を自分が斬首しなければならないのか、無情このうえない話ではないか、などと考えているうちに浄土教の僧大原上人の祈祷が始まった。宗盛父子は初め処刑されることをしきりに怨んでいたが、最後は大原上人の教化に安心したようである。公長は祈祷が続けられるなか、宗盛父子を斬首した。
※奥州征伐
平宗盛父子を処刑したあと、義経と別れた橘氏は鎌倉に帰り、処刑の経緯を頼朝に報告、後味の悪い仕事に終止符をうった。そのあとの橘氏は、鎌倉でしばし平穏な生活を送った。鎌倉での武士の生活は小笠懸や流鏑馬であるが、橘公業は主な弓場の行事には必ず出場を命じられ、腕前を発揮している。
しかし当時は平安から鎌倉、換言すれば貴族中心の時代から武士中心に変わりつつある変動極まりない時代である。けっして平和なわけではない。そして、壇ノ浦の戦いのころから生じていた頼朝・義経兄弟の不仲な関係はその極に達し、ついに義経は山伏姿に身を変え、北陸を経て日本海側から奥羽山脈をこえて平泉に入った。1187年のことであった。秀衡存命中の平泉は義経にとって一応平穏であったが、秀衡が死亡し泰衡があとを嗣ぐと事情はかわってくる。泰衡は父秀衡とくらべると周囲の人びとの人望もうすく、そのため藤原氏一族の団結もゆるんだ。「義経を差し出せ」という頼朝の圧力は日増しに強くなっていく。結局、泰衡は頼朝の圧力に屈し、衣河館を急襲して義経を殺さざるを得なかった。頼朝の態度は強引そのものであるが、「今まで義経をかくまっていたことは犯罪であり、しかも自分に対する反逆にあたる。よって貴殿を攻撃する」というのが泰衡に対する頼朝の最後通牒であった。
かくして1189年7月中旬、奥羽征伐が開始された。頼朝は三軍に分け、三方から東北地方に攻め入ったが、中央道(白川口)を進んだ頼朝本隊のなかに橘公業が含まれていた。また、この中央軍のなかには、後に頼朝から雄勝郡を与えられた小野寺道綱や、比内郡(大館・北秋)を与えられ浅利義遠らも含まれていた。
3/4へつづく