宮原誠一の神社見聞牒(034)
平成29年(2017年)11月16日

 

No.34 桂川町土師の老松神社の羊の石造⑩

 

1.桂川町土師の老松神社
土師の地域は広い行政区を持ち、老松神社は下土師に鎮座する。主祭神は大国主、追祀祭神・大物主、事代主、菅原神、吉祥女と神社案内板は紹介する。当初は大国主を祀る古宮があったと云う。その地を「御所原」といっていた。大国主が留まった地である。

老松神社 福岡県嘉穂郡桂川町土師3161

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拝殿に上がって見ると、神殿の神額は、中「大国主神」、右「事代主神」、左「天満宮」である。大物主(大山咋)が祭神から外れている。神社由来記と少々異なっているようだ。
 

 主祭神 大国主神
 祭 神 大物主神、事代主神、菅原道真神、吉祥女
 境内社 菅原神社、大山祇神社、興玉神社、福部神社、貴船宮

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参道の左に境内社として菅原神社が鎮座する。その向かい右に、臥牛と羊の石造が置いてある。

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2.「ひつじ」の石造
菅原神を祀る天満神社であるから、臥牛の石造が置いてあるのはよく見慣れた光景である。
ここ大国主を祀る土師の老松神社の境内には、珍しく「ひつじ」の石造が置いてある。大国主を祀る神社には「ひきがえる」の石造が置いてあることもある。「羊」も「ひきがえる」も「馬」も大国主に因むものである。
大国主・大山祗のご先祖はトルコ系匈奴であり、西アジアからやって来た。途中、モンゴル草原を経由し、朝鮮半島で金海伽耶(きめかや)を建設し、九州にやって来る越智族・諸氏である。九州の倭国で匈奴物部の祖となる氏族でもある。モンゴル草原は古里であり、古代氏神は「天御中主」「宇麻志阿斯詞備比古遅 うましあしかびひこち 金越智」であり、その子が月読命(大山祗)、大市姫(おちひめ)であり、次の世代が罔象女神、大国主、木花咲耶姫となっている。

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モンゴル草原と羊と馬について、江田船山古墳の鏡(神人車馬画像鏡)に刻まれた銘文がある。仁徳天皇の御子・尚盛王(くさかおう 草香皇子)について記述された銘文であり、「君羊神宇孫子尚盛此作鏡四」で始まる。
これに関して、百嶋由一郎先生の手書きメモに残されている。

 


3.江田船山古墳と神人車馬画像鏡
江田船山古墳(えたふなやまこふん)は、熊本県玉名郡和水町(なごみまち旧菊水町)江田にある清原(せいばる)古墳群の中で最古・最大の前方後円墳で、日本最古の75文字の銀象嵌銘(ぎんぞうがんめい)をもつ大刀が出土したことで著名。
明治6年(1873)、地元住民・池田佐十が「夢のお告げ」を受けて古墳を掘ったことが、江田船山古墳出土品発見の端緒となった。明治政府は白川県(現:熊本県)と交渉の上、発掘品を佐十から当時の金額90円で買取り、博覧会事務局(現:東京国立博物館)に移した。
大刀の銀象嵌銘は、銘に「獲□□□鹵大王」とある。
埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した金錯銘(きんさくめい)鉄剣に、1978年「獲加多支鹵大王」という文字が発見されたことから、この文言は「ワカタケル大王」と読むことが分かった。

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4.百嶋先生の「神人車馬画像鏡」銘文の解読
古墳から出土した6面の鏡の内の1面で、面径22.3cm、円鈕を中心に内区には4個の乳、その間には車馬・騎馬の図を相対的な位置に配した図柄が配置されている。
百嶋先生は調査業務と兼ねて、西鉄旅行社(西鉄歴史の旅)の添乗員として旅行案内をされていたが、昭和54年頃、「神人車馬画像鏡」銘文の解読をされ、参加旅行者に提供されている。
「君羊(むれ)神宇(かみう)孫子、尚盛(くさか)此作(これをつくる)鏡四(面)」で始まる銘文であるが、仁徳天皇の御子・尚盛王(くさかおう 草香皇子)について記述された銘文である。

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「神人車馬画像鏡」銘文の資料が、百嶋由一郎先生の手書きメモで残されている。

 
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「君羊(むれ)神宇(かみう)孫子、尚盛(くさか)此作(これをつくる)鏡四(面)」で始まっている。これを現代文に読みやすく直した。

 

モンゴル草原神々の大山祗、大市姫(おちひめ)の孫子である仁徳天皇の御子・尚盛王(草香皇子)が四面の鏡を作る。東多賀国(滋賀県多賀)人民安んじ息す。胡慮、殊(こと)に減じ、天下復す。風雨、時に節(かな)い五穀塾す。長保(長命)に、二親、天の力を得、吉を得て、後世は楽なり。簡無く雲に乗り、馳(は)せ駆(き)たりて参賀し、四馬(四頭立ての馬車)遵従す。

 

君羊(むれ)はモンゴル草原を意味し、羊と馬は大国主に因んだ動物である。このメモの次に、さらに次のようなメモが残されている。

 

江田船山古墳出土の鏡の銘文です。当時、私は51歳。まだ・・・小僧時代の中間でしたので、解読に難儀しました。仁徳の御子・尚盛王は橘一族です。倭国が大乱の折、大率家の方々を諸(もろ 室、村、群・・・ 日向国諸縣)へお迎えしたのは尚盛王の御母(日向髪長姫)の先祖、諸氏(金越智・大山祗)の御一族でした。諸一族の住する所は、即ち、後世の俗称・ヤマタイ・・・です

 

これからすると、ヤマタイコクは馬見山を中心とする広域一帯(朝倉嘉穂)ととるか、または宮崎県高原町を中心とする広域一帯(日向国諸縣)となる。日向国諸縣は南熊襲の国とされる。
尚盛王(草香皇子)は仁徳天皇と日向髪長姫(諸氏)の御子であり、その氏族の流れは、月読命(大山祗)に始まるトルコ系匈奴物部族である。

 

百嶋由一郎先生講演 久留米地名研究会にて 2011年2月5日
魏志倭人伝読んでいらして、全く気付いておられないこと、トウマの国とは阿蘇家の頭領、春日様(天忍穂耳命)が長髄彦の家来だった頃、与えられていた統治地が当麻の国です。場所は奈良県葛城です。あっちの当麻とこっちの投馬をごっちゃにしていますが、倭人伝の投馬は大分県宇佐です。邪馬台国の中心地は今盛んに噴火を繰り返している所、宮崎県の高原町(たかはるちょう)あたりです。もとは姫原(ひめはる)でした。ところが、高木の大神の一派が盗み取りして、名前を勝手に姫原から高原(たかはる)に変えています。本当の神武天皇のゆかりの地です。姫城(ひめぎ宮崎県都城市姫城町)は都城市市役所付近の地名です。もとの鹿児島県の国分市及び隼人町(はやと)あの付近一帯を姫城という。それから熊本県の八代のちょっと上に九州王朝のどえらい集落があります(宮原三神宮がある氷川町宮原、以前は「宮原町」その前は「火の村」といった。北東の山手に姫城あり)。そこにも姫の城が残っている。そして、ここから余り遠くない福岡県浮羽町千足の小高いところの姫治(ひめはる)も神武天皇ゆかりの地です。現在はそういう伝説は残らないで浮羽島伝説が残っている。

 
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宮原誠一の神社見聞牒(033)
平成29年(2017年)11月13日

 

No.33 大国主を祀る桂川町土師の老松神社⑨

 

1.福岡県嘉穂郡桂川町土師
土師の老松神社がある桂川町は平成の市町村合併で隣接市町、飯塚(いいづか)市とも、嘉麻(かま)市とも合併していない。嘉穂(かほ)郡に一町取り残された形になっている。合併しなかった理由は、地域柄が違う、人柄の気風が合わないとか色々あるようです。私が住む三井郡でも、浮羽郡でも同じような話を聞く。
ここ桂川町は遠賀川の上流域にあり、奥筑豊にあたり、南には古処山、屏山、馬見山を仰ぐ。この町一帯周辺には、地名に「出雲」があり、王塚古墳(物部氏の色濃い傾向)があり、大国主、事代主を祀る神社がみられ、古代の大国主王国あるいは「ヤマタイ・・・」を思わせる趣がある。
しかし、BLOG「地図を楽しむ・古代史の謎」によると、「古墳時代の集落跡がほとんど見つかっていないのです。僅かに古墳時代の遺跡が土師(はじ)地区で発掘されています。」といわれる。大国主が国譲り交渉後、関東に進出されて、空白が生まれたのであろうか。
その前の時代に、大国主、事代主が居住されていたのではないかと思わせる由緒を持った神社がある。桂川町土師の老松神社である。

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1.碓井村 2.千手村 3.足白村 4.宮野村 5.熊田村 6.大隈町 7.稲築村
8.庄内村 9.頴田村 10.笠松村
11.飯塚町 12.二瀬村 13.大谷村 14.鎮西村 15.穂波村 16.大分村 17.上穂波村
18.桂川村 19.内野村
(現在 紫:飯塚市 桃:嘉麻市 青:桂川町)


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2.桂川町土師の老松神社
土師の地域は広く、上土師、下土師、土師1~7と多くの行政区を持ち、老松神社は下土師に鎮座する。主祭神は大国主、追祀神・大物主、事代主、菅原神、吉祥女で、当初は大国主を祀る古宮があったと云う。

老松神社 福岡県嘉穂郡桂川町土師3161

 
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主祭神 大国主神
祭 神 大物主神、事代主神、菅原道真神、吉祥女
境内社 菅原神社、大山祇神社、興玉神社、福部神社、貴船宮
由 緒(案内石碑)
創建年代詳かならず。社の記録に依れば遠く神代の昔、大己貴命、少彦名命と戮力一心、天下を経営給いし折り、吾西海下り蹕(ひつ)を此の土師の地に暫く駐(とど)め給いしと云う。
後、人皇11代垂仁天皇の御宇、出雲の國の造、野見宿禰埴輪を造りて、殉死の者に易ゆるの功を賞して、土師臣の姓を賜い、又諸国に於て鍛地(かじち)を賜うや、当庄をも其の一つに加え宿禰に賜う。
されば、出雲より土師連来たりて当庄を領し、出雲杵築の大社に鎮座の大国主命(大己貴命)を神代の時、暫く蹕(ひつ)を駐(とど)め給いし地に勧請して、土師宮と称し齊き祀る。これ当社の濫觴(らんしょう・初め)なりと。
その後、大物主神、事代主神を合祀せし処なるも年代詳かならずと云う。
後一条天皇、万寿元年(1024)土師庄を太宰府天満宮に寄附せられ、神領となし給うに及び土師宮の相殿に菅公、吉祥女を勧請して、御社号を老松大明神と改め、土師庄12ヶ村の総鎮守と定め給う。されば、世々武将武家の崇敬篤く、社領も多く、祭礼も賑々しく、御繁栄の神社なりしと云う。降りて、天正年間、豊臣秀吉公九州征伐の折、当神社秋月種寶に属せしに依り、神領を没収せられ、御繁栄の当神社も祭礼の多くが頽廃するに至る。その後、土師のみの氏神として幾度かの再建を経ながら四季の祭礼は継承されて今日に至る。


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出雲より土師連来たりて当庄を領し、出雲杵築の大社に鎮座の大国主命(大己貴命)を神代の時、暫く蹕(ひつ)を駐(とど)め給いし地に勧請

 

土師連が出雲より来たりて当庄を領した。その土師の地は、往古、「大国主が暫(しばらく)く蹕(ひつ)を駐(とど)め給いし地」であるという。つまり、天皇が幸行の時、大国主が先払いし、しばらく留まった地であると云う。そこに、出雲大社の大国主を勧請したと云う。
大国主が仕えた主人は、ヒミコ、懿徳天皇、孝霊天皇である。その頃、天皇の幸行先の地ならしをしたのであろうか。その地が土師の地である。そこに、後に、大国主を祀る祠が建立されたのであろう。出雲大社の大国主を勧請する必要もない。もともと、大国主は九州北部の人であるから。
それをほのめかす由緒が福岡県神社誌に記載されている。

 

往古、出雲国より土師氏の人来たりて、初めて、隣村、平塚村に居住し、後、ここに移住して近村を取り込み、村名を土師といい、その地を「御所原」といっていた。

 

出雲国から来た土師氏は隣村、平塚村にしばらく居住している。平塚村は八大龍王・豊玉彦を祀る橘族の村である。その村に土師族は厄介になっている。もともと、土師族のご先祖は豊玉彦(橘族)であるから、もっともである。後に移り住んだのが、今の土師村であり、往古は「御所原」といっていた、と云う。
そこに宮があり、大国主を祀っている。由来記は「大国主を祀るのが不思議であるから、出雲大社の大国主を勧請したのであろう」と云っている。
もしそうであれば、土師族が移ってきた時期は、出雲大社が出来た後のこととなる。時期が合わず、移住してきた時期が遅すぎる。

その後、大物主、事代主を合祀したが、年代は詳かでないと云う。
また、その後、万寿元年(1024)大宰府天満宮領となった時、菅原神と吉祥女を境内合祀し、社号を老松神社と称した、とある。それまで、土師族は古宮の「大国主○○神社」を祭祀していたことになる。「大国主を祀っている不思議な宮があった」と云っているが、何という宮と称していたか、興味のあるところである。

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また、神社案内由来記で、

 

垂仁天皇の御宇、出雲の國の造、野見宿禰埴輪を造りて、殉死の者に易ゆるの功を賞して、土師臣の姓を賜い、又諸国に於ける鍛地(かじち)を賜うや、当庄をも其の一つに加え宿禰に賜う。

 

とある。
垂仁天皇の御代、野見宿禰(土部壹佰人)が、被葬者を古墳に埋葬する時、民を殉死者として、体半分を立った状態で埋め込むが、これを取りやめ、人形の埴輪(土物)を代わりすることを提案して犠牲者を無くしている。この功により、諸国の鍛地(かじち)を賜うとある。そして、本姓を改め「土師臣」となり、土師連の祖となっている。
この鍛地が、後の天満宮領が増える下地となったのであろう。製鉄により鍛地が多いのが熊本県である。熊本県では菅原神社が多いが、この理由からきているのであろうか。

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「大物主、事代主を合祀したが、年代は詳かでない」と云う。
この地域はよく、大国主、大物主、事代主の三人が揃ってよく祀られている。大物主、事代主は大国主の義理の息子である。土師の南の弥山の内山田には、事代主を祀る天(てん)神社が鎮座する。
市杵嶋姫は天忍穂耳命と離縁され、大山咋を連れ子に大国主の妃となられ、大山咋は大国主の義理の息子となられる。
事代主も同様に、豊玉姫は彦火々出見尊と離婚され、少名彦(すくなひこ)を連れ子に大国主と再婚される。そして、名前を田心姫と改められる。大国主とその義理の子・少名彦は共に筑豊一帯(豊葦原国)の国造りに尽力される。少名彦は後の事代主(ことしろぬし)である。
大山咋、事代主は共に連れ子であり、大国主の義理の息子達といえる。
ここに三人の大物主が誕生する。
一般に言われるような大国主は大物主ではなく、大物主は大山咋である。
百嶋神代系図では、この三人の関係を次のようにいっている。
大国主を「義理の大物主」、大山咋を「真の大物主」、事代主を「代理の大物主」と。

 

 1.大国主 大己貴・八千矛神 義理の大物主 武蔵大國魂神・大神(おおが)大明神
 2.大物主 大山咋・天葺根命 真の大物主  大神(おおが)大明神
 3.事代主 一言主・恵比須神 代理の大物主 大神(おおみわ)大明神

 


3.平塚・八大龍王宮 福岡県飯塚市平塚(嘉穂郡上穂波村大字平塚字本村)
祭神 豊玉彦

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福岡県神社誌には水祖神社と記載されており、現地にいってみると「八大龍王宮」であった。八大龍王宮は公的には秘密にされた神社であった。平塚村は八大龍王・豊玉彦を祀る橘族の村であると言える。

 

4.土師・老松神社の秋祭り
福岡県嘉穂郡桂川町土師3161  2017年(平成29年)9月23日

獅子舞組出発

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土師の獅子舞
約680年前(嘉暦3年1328)から受け継がれてきた獅子舞が4月と9月の大祭で奉納される。五穀豊穣と家内安全を祈願したのが始まりといわれ、雄と雌の2頭の獅子が中国大陸を出発して荒れ狂う東シナ海の荒波を越え日本に渡り、老松神社にたどり着く様子を大胆かつ優雅な舞いで表現している、という。また、上土師地区と下土師地区が1年ごとに交代で受け持つ。
土師の老松神社の獅子舞は「雄雌2頭の獅子が中国大陸を出発し、東シナ海の荒波を越え日本に渡り着く様子」を表現しているという。まるで、呉人あるいは大幡主ご一統が東シナ海を渡り、九州の熊本苓北或いは八代に着いた故事を、豊玉彦を祀る八大龍王宮が鎮座する平塚村の橘族村民から伝承したのであろうか。

 
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宮原誠一の神社見聞牒(032)
平成29年(2017年)11月06日

 

No.32 林田と寺内の二つの美奈宜神社

 

1.二つの美奈宜神社
寺内の美奈宜神社と朝倉市には、もう一つの美奈宜神社が朝倉市林田210 に同名の神社として鎮座する。
林田の美奈宜神社も、「延喜式」神名帳の筑前国下座郡の「美奈宜神社三座」と記載されている。祭神は大己貴命(中)、素戔嗚尊(右)、事代主命(左)で主祭神は大己貴命(大国主)である。
寺内の美奈宜神社は主祭神が「天照大神」、林田の美奈宜神社は主祭神が「大己貴(大国主)」である。寺内の神社は勝者関係「天津神」を祀り、林田の神社は敗者関係「非天津神」を祀る。
美奈宜神社の社号の起源についてみてみると、羽白熊鷲戦争によって、寺内の美奈宜神社と林田の美奈宜神社は共に、大国主と羽白熊鷲が基底にあり、同じ起源を持っている。
地名からの起源は林田の「蜷城」の地名から来ている。
地名の読み方が、蜷城(になしろ) → ニナキ → ミナキ と訛っている。この「ミナキ」が漢字で「三奈木」「美奈宜」が当てられた。社伝に「蜷ミナ」を「美奈」と訓(よ)む、とあり、好字が使用されている。
「三奈木」は寺内の地名として残り、「蜷城」は林田の地名として残っている。
「美奈宜」は神社名として両神社に使用された。

 

「蜷城(ひなしろ)の名の由来」蜷城地区振興会 福岡県朝倉市林田
皇后、九州の悪者退治の時、潮干玉を使って川の水を枯らし、川蜷に頼んで一晩のうちに城を作り、今度は潮満玉を使って一度に水を入れ、水攻めにて滅ぼすようにと、神告を受られる。川蜷が守った里をニナシロと呼び、ニナシロがなまってヒナシロとなった、と云う。

「九州の悪者退治」とは羽白熊鷲の残党軍であろう。
「蜷」は「杭・柵」の置き換えであり、「蜷城」は「柵の城」という意味である。
残党軍との戦いの伝承が、新羅征討の時の「干珠満珠」の伝説話と似通っている。この掃討の時期は新羅征討後ととれるが、新羅征討は羽白熊鷲戦争終結以後と考えられるので、新羅征討時の干珠満珠の説話と残党軍征討の話が混合されている。
蜷城地区は筑後川近くの平坦地である。距離も寺内から約10Kmと相当に離れている。ということは、羽白熊鷲の匈奴熊襲領域は旧朝倉郡一帯となり、平野部、山間部とかなり広い領域を支配していたことになる。

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2.林田の美奈宜神社
林田の美奈宜神社の福岡県神社誌中巻の記述は9段に及ぶ。全ての記載を紹介するのは、ここでは割愛させていただき、神社の案内神社略記から紹介。

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 所在地  福岡県朝倉市林田210
      福岡県旧朝倉郡蜷城村大字林田字大蜷城
 祭 神  大己貴命(中)、素戔嗚尊(右)、事代主命(左)

由緒の前半には羽白熊鷲の件は記載されていない。その後の神功皇后の新羅征討の話しから展開している。福岡県神社誌の由来記には羽白熊鷲の件は記載されている。
神社由来記では、皇后は航海中、船中で大己貴命、素戔嗚尊、事代主命の三神に戦勝を祈願された。海上つつがなく船は新羅に着き・・(中略)・・勝利を収め高橋の津に凱旋された。その後、戦争に勝利を祈られた三神を祭られた。その神が美奈宜神社の三神である。

この林田の美奈宜神社の由緒では、新羅征討軍船は勝利し、有明海廻りで一時、肥前武雄の高橋の津に寄港している。新羅征討軍船は有明海に入り、武雄の高橋に寄り、ここで軍卒の傷病の温泉湯治を行っている。その後、大川の後の風浪宮がある榎津に上陸。その後、大善寺に戻っている。
注目すべきは、神社由緒で、新羅征討軍船が有明海に帰ってきた、ということだ。香椎宮のある博多湾ではないのだ。このような由緒を具体的に記述した神社は、林田の美奈宜神社のみであろう。(風浪宮、大善寺玉垂宮の寄港・帰港は別にして)

戦勝を祈願された三神が、大己貴命、素戔嗚尊、事代主命であること。大己貴・事代主と素戔嗚尊の組み合わせは相性が良くない。大己貴と事代主の二神であれば匈奴熊襲の祖神と納得するのだが、素戔嗚尊は神功皇后の祖先神でもあるということに起因しているのであろう。
林田蜷城は風浪宮、大善寺玉垂宮から筑後川を上流にはるか上った所にあり、更に、神功皇后を祀っている柳瀬・玉垂神社の4Km上流にある。その離れた神社に神功皇后と新羅征討の由緒が残っていると云うことは、林田の美奈宜神社に風浪宮・大善寺玉垂宮・高良玉垂宮の神官が由緒を伝承したのではなかろうか。
「蜷 にな」の付く地名は新羅征討後の神功皇后に関係したことが多い。
福岡県田主丸町の旧蜷川村には、神功皇后を祀る黒島神社があり、その東隣の旧三井郡大橋町の蜷川村には、創起566年の片淵神社(荒霊宮)と八幡神社がある。八幡神社の古宮は玉垂神社であり、玉垂命、若宮・大鷦鷯尊を祀り、皇后ゆかりの神社とみる。そして、ここ旧下座郡蜷城村の美奈宜神社である。「蜷」の付く地名を見かけたら、新羅征討後の神功皇后がからんでいると見たほうがよい。

次に、福岡県神社誌中巻の林田の美奈宜神社の由緒記述は9段に及ぶが、私なりに解釈省略した略記を紹介。

 

神功皇后摂政二年(202)下座郡官郷林田の宮地に新祠を創る。
神功皇后、新羅を征し給う時、三神(大己貴命、素戔嗚尊、事代主命)の宣助あり。凱旋の後、三神を蜷城大明神と称して祀り給う。
「蜷」の訓みを「美奈」とす。故に、美奈宜とするは蜷城の和称なり。
皇后の御船、肥前国の高橋に着き給う時、三神垂迹の地を定める。下座郡宗廟として祭祀す。

皇后、新羅征討の折、船中にて、三神に将軍の治要を祈られ、異族を討平げ、肥前杵島郡高橋の津に上陸の時、三神の宣助により、山中に薬湯を見出し給い、軍兵の創傷を癒し疲れを直したり。

宗像神社縁起、文安元年副本に曰く。皇后、熊襲討殺は筑前蜷城と申す所、これなり。

神庫に蔵める美奈宜神社考証に曰く。
下座郡林田村に祀る神、中殿・大己貴命、東殿・素戔嗚尊、西殿・事代主命なり。
同郡荷原村に栗尾大明神社あり。その祭る神、神功皇后、住吉大神、武内宿禰なり。あるいは、春日大明神、天照大神なり。

皇后、蜷を集めて城となし、熊襲を城誘い、熊襲を討つ故、蜷城の和称なり。

末永虚船著、筑前早鑑に述ぶ。栗尾社を式内美奈宜神とするは偶々失考せるものなり。

明治の初期、三奈木喰那尾神社の社号を美奈宜神社と変更せり。

 

「皇后、蜷を集めて城となし、熊襲を城誘い、熊襲を討つ故、蜷城の和称なり。」とあり、羽白熊鷲の残党軍と戦い、掃討したことが記されている。

また、「末永虚船著、筑前早鑑に述ぶ。栗尾社を式内美奈宜神とするは偶々失考せるものなり。」「明治の初期、三奈木喰那尾神社の社号を美奈宜神社と変更せり。」とあり、栗尾神社を式内美奈宜神社とするは失考だと言っている。そして、三奈木の喰那尾神社の社号を美奈宜神社と変更したのは明治の初期とも言ってる。

しかし、寺内の美奈宜神社「延喜式」神名帳には筑前国下座郡の「美奈宜神社三座」と記載されていて、神社名は喰那尾神社あるいは栗尾神社とも書かれていなくて、美奈宜神社と記載されている。
時間の流れが合っていない。明治の初期に「延喜式」神名帳を書き換えたとでもいうのであろうか。

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式内社
延喜式神名帳に記載された神社、「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)といい、一種の社格となっている。朝廷から官社として認識されていた神社をいう。また、延喜式神名帳には祭神名や由緒などの記載はない。
神名帳に記載がない神社を式外社(しきげしゃ)という。式外社には、朝廷の勢力範囲外の神社や独自性を持った神社(大国主、素戔嗚系、熊襲系など)が多い。
その他に、「式内社を受け継いでいる可能性がある神社」という意味での「論社」がある。

 

3.大国主の神霊流を遮断する寺内の美奈宜神社
馬見山→羽白熊鷲の墓(水の文化村)→寺内の美奈宜神社→林田の美奈宜神社が、地図上でラインがつながっている。(伊藤まさ子管理人「地図を楽しむ・古代史の謎」の「12羽白熊鷲と古処山」2011-10-03)
寺内の美奈宜神社は主祭神が「天照大神」、林田の美奈宜神社は主祭神が「大己貴(大国主)」で、寺内の神社は勝者関係「天津神」を祀り、林田の神社は敗者関係「非天津神」を祀る。そして、寺内の神社は戦勝記念神社の性格を持つ。林田の神社は匈奴熊襲、熊鷲の鎮魂の神社の性格を持つ。そして、新羅征討後の皇后関係に重点を置く。
林田の神社と馬見山(大国主)の間に建つのが、寺内の美奈宜神社である。間に立ち入って、大国主の神霊流を遮断している。と言って、「いじわる」と取られそうだが、寺内の美奈宜神社が良くないという訳ではない。そういう位置にあるというだけの解釈。
そもそも、神社がどうして、その位置に建つのか、深く考えたことがない。歴史的出来事があり、その近辺に建立されるのは理解できる。しかし、最終的に、その狭い範囲の位置に選定される経緯がわからない。

神社を見て、すぐに気づく場合もある。例えば、福岡県北野町石崎区の日吉神社の参道は本殿からみて、鳥居を通り、高良山の高良大社の神殿に向っている。これにより、古宮は玉垂神社であることが想定できる。石崎の氏子さん達は高良大社と結びつく過去の経緯があり、高良大社の50年越しの御神幸祭の行列には、要員として手伝いを要請されるという。(もともと50年に1度、御神幸祭が開催されていたが「継承が困難」との理由で規模を短縮。前回は20年ぶりに2012年10月に開催された。改修工事が終わり、改修記念として来年2018年10月14日に開催が決定されている)

寺内の美奈宜神社の場合、3回の遷座で、現在の社殿がある。当初は「池辺」、次に「喰那尾山」、次に「大宮谷」と移り、現在の荷原字寺屋敷2421に位置する。そして、ライン上に乗る。偶然とは思われない。何か強い意図が働いていると思う。

余談になるが、九州の式内社(しきないしゃ)の性格として(全ての式内社を指すものではないが)、式内社は式外社間の神霊流を遮断する隠れた役目がある、と聞いたことがある。寺内の美奈宜神社はその関係にあるのであろうか。
馬見山→寺内の美奈宜神社→林田の美奈宜神社が、地図上でラインがつながっている。
余りにも乗りすぎである。
ただし、平面地図は球面座標の位置を変換して作られる。よって、平面地図上のラインと地球面上のラインはきれいに一致しないことに注意。

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平面地図の作成方式
平面地図は球面座標の位置を変換して作られる。今使用している国土地理院の地図はUTM座標変換である。UTM変換は距離の正確さに重点が置かれる。よって、平面地図上の直線と地球面上の直線はきれいに一致しない。
その他に、海図に使用され、方位の正確さに重点を置くメルカトール変換地図。
天気図等に使用され、図形の正確さに重点を置くステレオ変換地図が有名である。


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