No-007(2/2) 田主丸町・月読神社 考 
 

旧竹野郡二田郷

 

二田月読神社がある旧竹野郡二田郷の地は、筑後物部氏の領域であり、田主丸町石垣の二田郷は二田物部の地として和名抄に出てくる。二田物部の発祥の地である。二田物部は物部二十五部族の筆頭でもある。

また、生葉郡吉井町は町名が示すように物部の地である。特に、吉井町耳納山北麓の小家郷、物部郷はその色彩が強く、「物部」姓を持つ家々が存在する。


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生葉郡の「和名抄」では、大石・山北・姫冶・物部・椿子・小家・高西の7郷があり、うち大石郷は旧大石村、山北郷は山北村に、椿子(つばこ)郷は旧千足駅中心に朝田・東隈・西隈その一帯、小家郷は小江、橘田、溝口一帯(旧小江村付近、原鶴の南西)、物部郷は浮羽町小塩、吉井町福益・富永・屋部の耳納山北麓一帯、姫冶郷は新川一帯、高西(こせ)郷は妹川一帯に想定される。
 

物部氏に関する『先代旧事本紀』の天神本紀には、ニギハヤヒの降臨に同行した面々の記載がある。その出自地と推定される地名をみると

  

五部人を副へ、従となして天降り供奉らしむ

 物部造祖     天津麻良

 笠縫部等祖    天曾蘇

 為奈部等祖    天津赤占

 十市部首等祖   富々侶  筑前鞍手郡十市郷、筑後三毛郡十市郷

 筑紫弦田物部等祖 天津赤星 筑前鞍手郡粥田郷鶴田、筑後御井郡鶴田

 

五部造を伴領となし、天物部を率ゐて、天降り供奉らしむ

 二田造 筑前鞍手郡二田郷、筑後竹野郡二田郷

 大庭造 筑前朝倉郡大庭村

 舎人造

 勇蘇造 筑前・糸島郡深江村磯崎

 坂戸造 

 

天物部ら二十五部人、おなじく兵伏を帯びて、天降り供奉らしむ

01二田物部 筑前鞍手郡二田郷、筑後竹野郡二田郷

02当麻物部 肥後益城郡当麻郷

03芹田物部

04馬見物部 筑前嘉穂郡馬見郷

05横田物部

(以下省略)  


福岡県三井郡大刀洗町本郷に郷社の高良玉垂神社がある。この神社の社殿の基礎は玉石組である。

また本郷に接する春日・平田区には坂本神社(祭神・坂本命、社紋・木瓜)があり、社殿の基礎は玉石組であり、この地区の方は多くが平田姓で物部氏である。

これら神社と社殿の基礎の玉石組をみることにより物部氏の係わりが見てとれる。

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次に、妙見神社・月読神社と物部氏の関連がみられる地域と神社を久留米、耳納山麓、浮羽郡、三井郡に限定して拾ってみた。

 

1.物部胆咋(八世当主)と高良山妙見神社、高良下宮社

2.弦田物部(天津赤星)と高良内坂口・赤星神社・妙見宮

3.久米物部と久留米市小頭・小頭神社(天手力男命、天鈿女命)境内社月読神社

  久留米市京町・日吉神社・境内社月読神社

4.山本郡草野物部と須佐能袁神社・境内社月弓神社

5.田主丸町二田物部郷と月読神社

6.御原郡本郷物部と本郷甲條神社(天照大神宮)・合祀・倉稲魂命・天御中主神

7.生葉郡物部郷と吉井町横町・高御魂神社(妙見社)、若宮月の丘古墳内・月読宮

8.浮羽姫冶物部と新川妙見宮(高御魂神社)・小塩妙見宮

 

饒速日命と天鈿女命が共に祀られている神社

1.久留米市大石町・伊勢天照御祖神社 饒速日命と佐岐神社・伊勢下宮豊受神

2.久留米市京町・日吉神社 猿田彦神と天鈿女命

3.久留米市大橋町蜷川・箱崎八幡神社 矢五郎と保食神

4.久留米市北野町仁王丸・天満神社境内社 幸神社(猿田彦神)と地神社(倉稲魂命)

         仁王丸区には香月姓(物部一族)が多い

5.うきは市吉井町若宮・八幡神社境内社 伊勢宮と猿田彦神

   

久留米一帯、三井郡、浮羽郡の耳納山麓に結構な数を拾うことができました。

 

私は考古学には詳しくないので想像の程度になるが、古代の墓制で甕棺墓制は大幡主系民族で主に用いられ、その後、大山祇系民族の九州北上と共に石組技術がもたらされ、石室(石組)の円墳が造られるようになったのではなかろうか。耳納山北麓におびただしい石室の古墳が散在する。特に、二田地区北麓、二田、石垣、平原の三角地帯に石室古墳が130以上密集する。これも二田物部と石組技術が関連していると思う。また、現代でも耳納山北麓の田主丸町では石組を用いた造園業者が多数存在する。二田物部の石組技術が古代より継承されてきたのではないかと思うのである。

 

田主丸町誌からの抜粋紹介

以前、田主丸町誌編纂室が設置されて、編集員は田主丸町二田が物部郷と確定し調査をおこなっている。しかし、結果的に日本書記以上のことを見出すことはできなかったようである。

この町誌に二田物部と二田月読神社が紹介されてから、東町月読神社と共に広く知れるようになった。

 

福岡県()浮羽郡田主丸町二田の二田物部について

竹野郡の二田郷の名義は、二田物部という物部一族が住んでいて、二田郷の名が残ったという。平安初期に作られた『新撰姓氏録』をみると、ニギハヤヒ(物部の祖)が天降りするとき、従者の二田物部が同行してその子孫が二田物部になったとしている。

竹野郡の西の郡境に近い山本郡(現 久留米市)に、矢作部(やはぎべ草野町)という所がある。矢を遣る集団として、矢作部(矢部)が置かれたところで、さらに筑後川に面した御井郡の弓削郷(現 久留米市合川町・三井郡北野町)には、弓を作ることを職とする弓削部がいた。ここで作られた弓・矢などが生葉郡の物部や竹野郡の二田物部の手に渡ったり、あるいは百済に送りこまれたりしていたのではないだろうか。筑後川の右岸に位置する肥前国三根郡(現 佐賀県三養基郡北茂安町)にも物部郷があった。これに壱岐島石田郡の物部郷を加えると、生葉郡物部郷-竹野郡二田郷-三根郡物部郷と筑後川を下り、海を渡れば壱岐島につながる。物部大連が朝鮮半島に出兵するときに、真っ先に兵士として動員される村人たちであった。二田物部の人たちも筑後川を有明海に向けて下り、朝鮮半島遠征に駆り出されたものと考えられる。

 

三夜様

田主丸町の月読神社は別名「三夜さま」と呼ばれる。

この「三夜さま」は月齢が三夜、十三夜、二十三夜の三の日がつく三夜を指していう。

月を愛でる風習は旧暦八月十五夜の満月の「中秋の名月」が有名である。その他に三夜の三日月、十三夜月がある。特に、月齢の二十三夜を「忌み籠りの日」と定め、人々が集まって月の出を待って供物を供え、無事息災を祈り飲食を共にする古い風習がある。月の出を待って月を拝む集りで、二十三夜のことを「さんやまち」といった。今では「さんやまち」は、単に仲間同士が定期的に集まり、飲食する親睦会的な機会と考えられる。旧暦の二十三夜は、満月ではなく下弦の月となり、真夜中に東の空に昇り始める。

 

十三夜(じゅうさんや)

十五夜(中秋の名月)の後に巡ってくる十三夜をさし、旧暦9月13日のお月見のことを云う。中秋の名月の後なので、「後(のち)の月」とも言われる。十三夜は、十五夜に次いで美しい月だといわれ、昔から大切にされてきた。また、十三夜には栗や枝豆を供えることから「栗名月(くりめいげつ)」「豆名月(まめめいげつ)」ともいわれる。

 

母親ともども拝んでいると、ある朝、突然母親の目が見えるようになったといいます。

それは天文3年(1534年)正月23日のこと。今日この日は、死んでも忘れんばい。

それで、今日は何日かいの?

今日は天文3年の正月23日たい。忘れんごと、祠に彫り込んでおこうない

古賀 勝氏の「筑紫次郎の伝説紀行・眼病封じのお三夜さま」より抜粋

 

田主丸町の月読神社は正月23日が例祭で「三夜さま」と呼ばれる。

上記伝承の23日から「三夜さま」が採られたわけではない。

古代人にとって、月齢二十三夜は特別な夜であったのである。

月暦を採用する「こよみ」では、新月から満月、そして新月になる29.5日を1ケ月とした。暦の1ケ月は30日と29日が原則交互に組み込まれる。実際には30日が続く月もある。すると、1年間は254日となり、1年365.25日に満たない。11.25日足りない。それを補うために約3年に一度閏月を挿入する必要があり、1年13ヶ月となる年を設けた。これによって、暦と季節の関係を調整したわけで、旧暦では閏月の入る年を閏年といい、閏月の入らない普通の年(平年)は1年が353日~355日、閏年は384385日になった。

閏月は、原則として二十四節気の「中」を含まない月とし、その前の月と同じ月名に「閏」をつけて呼び、例えば「閏五月」というように呼んでいる。  


二十四節気

旧暦は、閏月を入れることによって暦と実際の季節の関係を調整するが、それにしても、閏年の前と後では、同じ月日でも30日近く季節が異なってしまう。これでは、暦を元にして農業などを行うわけには行かなくなってしまう。そのため、暦の中に季節を表すものを入れて、この不都合を防ごうとした。これを二十四節気という。

二十四節気は、立春、雨水、啓蟄、春分・・夏至・・秋分・・冬至・・大寒と、全部で24ある。二十四節気は、太陽が一年で一回りする道筋(黄道)を24等分(太陽黄経の15度毎)し、太陽がこの点を通過する日時によって決める(定気法)。このため、二十四節気が暦に記されていれば、そこから季節を知ることが出来る。

 

旧暦で閏月を入れる機械的法則はない。ただし、「冬至は11月、春分は2月、夏至は5月、秋分は8月にする」という一条を加えて、これに反しない範囲で適当な月に閏月を配置する。そのために、どの月に入れるかで季節感がずれ、特に農業のモミの種まきの時期が季節的にずれることは避ける必要があった。また、1年の時期を正確に知るために、星の位置の観測を行なった。

 

太陽暦では、春分日を正確に定め、それを起点に何日目に何の日とした。例えば八十八夜の若葉の茶摘、210日の台風襲来というように。よって、春分日を正確に観測する必要があった。春分点は地球の歳差運動により70年に1日ずれていく。また、1年365.25日による閏日の追加が必要であった。そのために古代では春分点を正確に捉えるための春分点観測所を設ける必要があった。

 

それに対し、月暦では1年の時期位置を星の位置の観測から求めた。その星の観測に適した夜が月齢の二十三夜である。

二十三夜の月は月齢が下弦の日で、真夜中、現地時間で午前零時に東の空から月出する。この時が星の観測の時刻であった。今みたいに時計のない時代は月時計で代用したのだ。そのため東の空から月が出るのを午前零時まで待つ必要があった。それが二十三夜の月出待ちとなり、二十三夜の月待信仰が生まれたのであろう。

 

上弦の月と下弦の月はどう見える

半月は別名、弓張り月あるいは、弓月と呼ばれる。月の形を弓に見立てた。

そして、弓に見立てた場合に、月が西に沈む頃、その「弦」にあたる「欠け際」が上を向く場合を上弦の月、下を向く場合を下弦の月と呼び区別した。

 
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「暦と天文の雑学」より参照 

http://koyomi8.com/reki_doc/doc_0215.htm

 

実際に、上弦の月は夕方に南中し、西の空に没する頃は真夜中であり、没する頃の上弦を見ることが出来る。下弦の月は朝方に南中し、西の空に没する頃は真昼であり、没する頃の下弦を見ることは出来ない。下弦の月は真夜中に東の空に月出し、上弦の状態で見ることになる。

よって、現実としては、上弦の月は夕方に南中し、右半分が明るい。下弦の月は朝方に南中し、左半分が明るい、とみた方が理解しやすい。

 

南中:天体を観測している所から見て、天体が真南に来た時。  

日本標準時:太陽が春分日に東経135度にかかった時を正午とする。現在、使用されている時計の時間を言う。よって、九州では正午になっても太陽は南中せず、やや東寄りにある。  

天体時(現地時間):太陽がその地点に南中した時を正午とする。

 
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平成29(2017)0509

宮原誠一の神社見聞牒(007)


田主丸町・月読神社 考


二田・月読神社

所在地 福岡県久留米市田主丸町益生田(二田)

祭神  月夜見命


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東町・月読神社

所在地 福岡県久留米市田主丸町田主丸546-1(東町)

祭神  月読命


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由緒と奉斎氏族

福岡県内で「月読神社」と名づく神社が公開されているのは、明治初期では、田主丸町二田(ふたた)の月読神社のみである。田主丸町東町の月読神社は、明治13(1880年)二田の月読神社から勧請されている。

その神社の由来記であるが、二田月読神社には存在しない。東町月読神社の由来記が転用され、知れ渡っているのが実情である。しかし、その由来記となると信憑性が怪しい。 


東町月読神社の由来記は次の通り。


由緒(案内板)

天文3年正月(1534年)(御原郡高橋城主)三原三河守長種の弟・次郎三郎が城内の月読神社を、竹野郡二田村(現:久留米市田主丸町石垣)に創建す。明治136(1880年)篤志家により当地へ勧請す。開運眼病平癒の神様として崇敬者多く三夜様と敬稱す。


伝承

昔、竹野郡二田村(旧福岡県浮羽郡田主丸町石垣)に住む林次郎三郎の母親が目の病に罹り、いろいろな事をしても回復しませんでした。そこに村の長老から月読命を祀る祠があることを林次郎三郎は教わります。

それから毎日欠かさずお詣りしていると、ある日、大雨が降って祠が水没してしまいました。林次郎三郎は「また大水がきたら神さまも寒くて大変だろう」と祠ごと家に運び込んでお祀りし母親ともども拝んでいると、ある朝、突然母親の目が見えるようになったといいます。それは天文3(1534年)正月23日のこと。

古賀又左衛門という両目を患った者がある夜のこと、夢の中で月読尊から「両目の病を治したければ、月読の神が鎮座する二田村を訪れよ」とお告げがあり、林次郎三郎宅を毎日訪れ「目の病が治りますように」と祈願すると、わずか17日で目の病が治ったのだとか。その後、眼病平癒で訪れる人々が絶えず参拝に訪れるようになったといいます。

寛延2(1749)年のこと。娘が目を患っていることを気の毒に思っていた柳川藩(現在の福岡県柳川市)藩主が月読神社が眼病平癒にご利益があることを知り、代参者を林次郎兵衛宅へ赴かせ娘の眼病平癒を祈願したところ、37日後に娘の目が良くなったとのこと。大変喜んだ藩主は、二田村の林次郎兵衛宅の祠を現在の地に移し、社を建てたのが、現在の二田「月読神社」といわれています。


二田村の月読神社を、田主丸の町中の人達が明治13(1880)6月東町に勧請して東町「月読神社」となる。毎年123日~25日に「三夜さま」と呼ばれる祭りがあり参拝者で賑わっている。


由緒記も伝承も曖昧さが残る。

まず、由緒記であるが、「御原郡高橋城主 三原三河守長種」とあるが、「高橋三河守長種」が正しい。また「長種の弟・次郎三郎」とあるが、弟は存在しない。兄は「高橋高種」である。高橋高種(1470-1515)は筑後大蔵高橋氏の当主となるが、継母の讒言により父の不興を蒙り、その座を捨てて、文明16(1484年)母方の縁者畠山氏を頼っている。よって当主は「高橋長種」である。

「母親の目の病」を治す伝説であるが、これは古事記の「月読命は伊邪那伎命の右目を洗った際に生み成された」からきているのであろう。確かに二田村及び周辺には林家が多く存在する。

あながち否定とは行かない。

私も子供の頃、祖母から月読神社にお参りすると目が良くなると教わった。123日の「三夜さま」には寒さを押して参拝に出かけた。その人出は大宰府天満宮のように賑わっていた。東町月読神社の賑わいは本家の二田月読神社をはるかに超えていた。


これらの由緒伝承は、「古賀 勝」氏の「筑紫次郎の伝説紀行」の元となっている。 


ある朝、目覚めた母親が甲高い声を更に張り上げた。母親は、座敷の神さまに手を合わせた後、裸足のままで家を飛び出し、南の山を見上げた。

「鷹取の山(802㍍)がはっきり見えちょるたい」

母親の興奮は収まりそうにない。

「月読の神さんが、わしにもう少し生きろと言ってくれよりなさる。今日この日は、死んでも忘れんばい。それで、今日は何日かいの?」

「今日は天文3年の正月23日たい。忘れんごと、祠に彫り込んでおこうない」

それからである。話を聞いたあちこちの目を患った人々が、毎月「3」のつく日に、「お三夜さんにお詣りせにゃ」と、次郎兵衛の家を訪ねてくるようになった。


古賀 勝氏の「筑紫次郎の伝説紀行・眼病封じのお三夜さま」より抜粋


田主丸町二田は古代、二田郷と呼ばれた物部の地であった。

私は二田月読神社の由来を調べてみようと福岡県神社誌を見てみたが、記載されていなかった。また、「寛文十年(1670)久留米藩社方開基」を見てみたが、これにも記載されていなかった。あの「三夜さま」と呼ばれる田主丸町では有名な月読神社の開基由緒がどこにもないのである。

二田月読神社の社誌が昭和20年発行の福岡県神社誌にもない、久留米藩への書上げ状も提出されていない。不思議に思った。

神社の成り立ちは、二田の地に二田物部氏が奉斎する月読命の祠があり、近代に社殿を伴った神社が建立されたと見るのが自然であろう。 


寛文十年(1670)久留米藩社方開基

  二田村

一、天神宮壱体木像 社九尺に二間萱葺

一、天神宮壱体木像 社壱間四面萱葺

 右両天神 毎年十一月十一日に祭礼仕候。於神前御供・御酒奉備、祓祝詞読執行仕候。

開元之時代知不申候。縁起・記録・宝物并末社無御座候


福岡県神社誌中巻


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1670年「久留米藩社方開基」の二田村では天満神社二社と書かれて、月読神社は存在しない。

また、昭和20年の福岡県神社誌では天満神社があり、月読神社(祭神・月夜見命)は合併とあり、「天満神社」となっていて、氏子は大字増生田二田18戸となっている。

しかし、現実には田主丸町二田に天満神社は存在しなくて月読神社が存在するのである。

やはり、月読神社は表向き秘密にされたのであろう。

最新の社殿建築は建立上棟札に安永2年(1773)8月とあり、関係者26名の名前が記されている。月読神社の灯籠、鳥居、棟札に記された名前を拾うと、「岩佐家」が多く刻まれている。


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田主丸町二田区には、「岩佐家」が多く、「中島家」、「堤家」が続く。村の周りには「林家」、「中島家」、「中野家」がとり囲むように家々が存在する。


岩佐氏といえば、茨城県つくば市の筑波山神社の宮司・岩佐氏が出てくる。


筑波山神社

鎮座地  茨城県つくば市筑波1-1

宮司名  岩佐

御祭神  筑波男大神(伊弉諾尊)筑波女大神(伊弉冊尊)

摂 社  稲村神社(天照大御神)・安座常神社(素盞鳴尊)

小原木神社(月読尊)・渡神社(蛭子命)

由 緒  (抜粋) 崇神天皇の御代、筑波山を中心として、筑波、新治、茨城の三国が建置されて、物部氏の一族筑波命が筑波国造に命じられ、以来、筑波一族が祭政一致で筑波山神社に奉仕した。


筑波山神社の由緒から岩佐家が物部氏と係わっていることが見てとれる。


ひぼろぎ逍遥(管理人・古川清久) 20170205

スポット069 月読命(大山祗)の祭祀圏とは何か? から抜粋


月読命=大山祗の祭祀圏が何であるのか?

「古事記」「日本書紀」でも影が薄く、実体が見えないのが月読命=大山祗命ですが、これが隠されてきた理由が多少は見えて来ました。それは、その実体が狗奴国であり、物部氏であり(主力が二田物部=鞍手郡小竹町新多だった事を想起して下さい)、後に朝敵=熊襲とされたトルコ系匈奴を主力とする騎馬軍団だったからのようなのです。(中略)


二田の月読神社が鎮座する場所は田主丸町石垣ですが(実際には増生田から石垣にかけて)、この地名が遠くアフガニスタンまで通底していると考えています。

そして、「石」(イシ)には思い当たる事があるのです。

それは、大山祗命を追い求めていると不思議と「石」の付された地名、神社名に出くわすことを何度も経験しているからです。


179 天高く青空に誘われ日向の神社探訪 ④“西都原に大山祗命の痕跡がある!

ご紹介するのは西都市の石貫神社です。

西都原古墳群に近接(東側)して石貫神社があります。(中略)

由緒

当社は古くは日能若宮又は石貫大明神と称し、創建は天平五年(733)と伝える。

社地は創建時の記録『日能若宮元元由来記』によれば、「大山祇命(中略)阿佐久良山[木患]木原五百世山元筑波山云留彼所事、歳月遠座也」の地にして、筑波御殿の遺跡と伝える。

(中略)

石貫神社の名は、大山祇命の娘の木花咲耶媛を嫁にほしいと云って来た鬼に、一夜で石造の館を造ればと命じた。鬼は夜明けまでに造ったが、大山祇命は窟の石一個を抜き取り、東の谷に投げ、未完成とした。これで鬼の要求をはねつけたと云うことによると伝わる。


やはり、大山祗命を追求すると不思議と「石・岩」の付された地名、神社名に出くわす。

古代、筑後耳納山麓一体に展開した民族こそトルコ系匈奴を主とする物部氏族だったのです。

田主丸町二田、石垣に展開する二田物部は優れた技術を西アジアから持ってきている。石垣組等の土木技術、現代建築に採用されている軸組み木造家屋、製鉄、そして農業面では瓜等の野菜、ぶどうの持ち込みを行なっている。製鉄は浮羽町の山奥の新川地区、妹川地区で密かに製鉄と武器の製造が行なわれた。そして、奉斎する氏神が月読命=大山祇命または妙見宮だった。

筑紫弦田物部等祖・天津赤星を久留米市宗崎の鶴田村に祀る赤星神社は表向きで、神社そのものは妙見宮となっている。後に弦田物部は筑豊の若宮市鶴田に移動展開する。その妙見宮の祭神は天御中主神であり、月読命の母にあたる。この民族一団を私は「大山祇ご一行」と呼んでいる。

田主丸町二田の周辺には岩佐家、中島家、堤家、林家、中野家の家々が展開するが、ここで、久留米を中心に北筑後地方に数多く展開する「石」「岩」のつく名前の氏族を拾ってみた。

 

石井、岩井、石橋、大石、黒岩、石崎、石田、石貫、岩永、岩佐、石松、石丸

立石、岩下、岩村、岩下、岩田、岩崎


結構な数が拾えました。石井、岩井、石橋、大石、岩田、岩崎という姓がくれば、各界の有名人がそろって出てきます。また、地名もそろって出てくる。

 

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古代、九州には中国大陸、朝鮮半島から多くの民族が移住してくる。なかでも、中国南部の白族の大幡主系、トルコ系匈奴の大山祇系の民族集団は熊本から九州を北上し、久留米耳納山麓にやってくる。そして流れを二手に分け、一方は東の耳納山麓に進み、奥浮羽地区から分かれて、大山祇系は朝倉地方に、大幡主系は日田地方へと展開する。

また、一方は久留米をさらに北上し佐賀背振、筑紫野さらに福岡市へと移動していく。

耳納山麓に展開した大幡主系民族は橘集落を形成し、トルコ系匈奴の大山祇系民族は物部集落を形成する。

こうしてトルコ系匈奴の大山祇系民族集団は筑後一帯に筑後物部を形成していくのである。

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No-006(2/2) 荒神信仰の起源を探る


5.風浪宮


所在地、福岡県大川市大字酒見726-1。代々阿曇氏が祭祀を司る。


風浪宮の参道にも幸神さまが鎮座されている。寛政3(1791)という。神社の説明では由来と神格は詳しくはわからないと言われる。ご神体は大己貴神社と同様に石体に「幸神」と刻む。どこから勧請されたのか気になるところである。寛文十年(1670)「久留米藩社方開基」には末社・南酒見に荒人神社があると云う。この荒人神社が幸神社として移転されたものかもしれない。


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「幸神(さちがみ)社」江戸期寛政3(西暦1791)に祀られた幸神社は、当宮大鳥居参道に向き鎮座されている。


【参考】荒神(こうじん)


三宝荒神ともいう。竈神 (かまどがみ) および地神のこと。地主神,山の神をもいう。

屋内の神は、中世の神仏習合に際して修験者や陰陽師などの関与により、火の神や竈の神の荒神信仰に、仏教、修験道の三宝荒神信仰が結びついたものである。

地荒神は、山の神、屋敷神、氏神、村落神の性格もあり、集落や同族ごとに樹木や塚のようなものを荒神と呼んでいる場合もあり、また牛馬の守護神、牛荒神の信仰もある。


Wikipediaより



6.さんほう荒神考


荒神は仏教の神仏習合と修験者から三宝荒神と呼ばれるようになり、また、仏教の「仏、法、僧」の三宝を守護する神様ともみられた。この「三宝」の表現とは別に、神道では意味が少々異なる「さんほう」がある。元来、「さんほう」は「三方」と書き、三人を意味する。よって、三方荒神と称する。「荒」を好字の「幸」としたように、「三方」を好字と仏教用語に合わせ「三宝」としたのであろう。

()「三方」は神道では「さんぼう」と読む。


再度、寛文十年(1670)久留米藩社方開基、高良下宮社の書き上げについて。


高良大明神


下宮     府中


右は高良大明神御下宮之由申伝候。開元建立何之御代共承伝不奉候。茨葺之片原庇御座。神体無御座候。寛文九年酉ノ年より十月十三日ニ朝妻下宮ニ御幸御座候

右末社

祇園社    同村

右九尺三間茨葺。神体木像御座候。毎年六月十四日御神事御座候

右同

高礼大明神社 同村

右は茨葺片平庇御座候。神体木像三体御座候

朝妻七社 神功皇后・国長袖・古父・古母之宮・乙宮・妙見二社

右は七神之御社御座候様二承伝申候得共、只今は一社も無御座候。御神体無御座候


下宮中央殿では、「神体無御座候。寛文九年朝妻下宮ニ御幸座候」とあり、今、寛文十年(1670)神体はないが、寛文九年(1669)朝妻下宮社にあると云う。しかし、朝妻七社では、「只今は一社も無御座候」と一社もないと云う。そして、高礼大明神社(右殿)では三体の木像神体があると云う。この内容では、中央殿の主祭神は高礼社に移った、ととれる。また、神功皇后の社殿は朝妻にあったが、今はないと云う。今の高良下宮の高礼社には三人の神様がいると云う。


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ここで、下宮の高礼社の神紋は右三階松である。「三階松」は九州王朝の紋である(百嶋神社考古学)。そうすると、三人の天皇が考えられる。


1.孝霊天皇(大倭根子彦太瓊天皇)


2.孝元天皇(大倭根子彦国牽天皇)


3.開化天皇(稚倭根子彦大毘毘天皇)


何れも、「倭根子彦」の共通の名がつく。三天皇は倭国の礎を造った天皇で、倭国大乱、狗奴国の乱、新羅征討と動乱を生き抜いた天皇である。開化天皇(玉垂命)に至り倭国の体制が固まった。

この三天皇を指して、三方荒神といったのであろう。

話は逸れるが、三方は神饌の供え物を載せる膳台ともいう。仏教語では「三宝」という。


さんぼう【三方】


神前や貴人に物を供える時などに使う、儀式的な台。四角な折敷(おしき)の下に胴がついていて、胴の前と左右に穴がある。寺院でも同様のものが使われ三宝(仏・法・僧)にかけて【三宝】(さんぽう)と書かれる。


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三方と三宝、偶然の一致であろうか。

「三階松」紋は、九州王朝の紋である。三階松の意味であるが、「三代にわたって、事業が成就されていく象徴」であり、目出度い紋である。

そうすると、冒頭に戻って、高良下宮社の案内に、末社 幸神社の祭神は孝元天皇である、とあるように、あながち間違いではないようである。三祭神の一人であった。


福岡県一帯には荒神に因み、「荒人」「荒仁」「現仁」「現人」の名が付く神社が所々に出てくる。福岡県那珂川町に現人(あらひと)神社がある。住吉神社の元宮という。これらの神社は古代九州の主だった神々の名を秘めた名称ではなかろうか。

矢五郎、荒五郎はニギハヤ(猿田彦大神)、孝霊天皇の荒神名称であった。


7.三人の荒神様


福岡県筑紫野市原田の筑紫神社では主祭神として白日別神、五十猛命が祀られている。五十猛命は筑前と筑後の境の山の荒ぶる神であった。

福岡市西区西浦の白木神社の祭神は五十猛神であり、「ヒョウカリィライ」(この野郎来るなら来てみろ)といって、東の隣接地区・福岡市西区宮浦の大歳宮(祭神・大歳神こと海幸彦)と祭りでけんかをなさっている。かつての嫁さん・天鈿女命を中心とした争いである。

この五十猛命は荒ぶる神であり、別名・山幸彦、猿田彦大神という。

そして、山幸彦は九州中国四国地方を主に荒神様として祀られている。

また、宮崎県児湯郡川南町の白髭神社では荒神様として猿田彦大神が祀られている。三宝荒神を祀る神社としても有名である。この白髭大明神は山幸彦、猿田彦大神の後年の神名である。

すると、荒神様は三人おられる。これらからして、荒神様は三人で異なった形で祀られていることになる。まとめると次のように整理される。




1.荒霊大明神こと孝霊天皇     荒神名:荒五郎 社号:幸神社 こうじんしゃ


2.五十猛こと山幸彦こと白鬚大明神 荒神名:矢五郎 社号:庚申社 こうじんしゃ


3.素戔嗚尊


孝霊天皇または猿田彦大神を荒神さまとして祀る地域は、荒神さまの混同が見られる。

「幸神社の祭神・庚申」あるいは、「幸神社の祭神・猿田彦大神」というように。正確には、庚申社の祭神は「庚申」もしくは「猿田彦大神」、「矢五郎」であろう。



素戔嗚尊(建速須佐之男命)も荒ぶる神であり荒神さまである。古事記では天照大神をいたずらで困らせたり、八俣遠呂智(やまたのおろち)退治でも有名であり、凶暴な一面、一転して英雄的な性格を持ち、荒神ぶりを発揮される。


私の田舎では家を建てる(設計)とき「鬼門避け」を考慮する。北東の角が鬼門構造にならないように、また、玄関、出入り口を避ける習慣がある。しかし、町中では道路が区画されていて、思うように間取りを取ることができない。どうしても鬼門構造にならざるをえないと云う。この災いを抑えてくれるのが荒神さま、こと素戔嗚尊であると云う。よって、町中・市街地となる都市部では、この鬼門を抑えるために素戔嗚尊を祀る祇園神社があるのだという。



夏祭りで有名な神事・夏越し祓えの「茅の輪」の神事がある地域は、孝霊天皇が絡んでいる。

倭国大乱の中心地・福岡県、孝霊天皇の皇子・吉備津彦の中国平定の伝説のある地域は「茅の輪」の神事と荒神伝承が多い。これは、倭国大乱(狗奴国乱)のおり、孝霊天皇がある識別をするために「茅の輪」を腰に付けさせた故事による。詳細は別稿「孝霊天皇と三人の大物主」を参考。

この話が、荒神さま・素戔嗚尊と絡めて、蘇民将来(そみんしょうらい)伝説と変化していく。

蘇民将来伝説が多く残る地域は吉備津彦の中国平定の伝説と重なるようだ。そして、荒神信仰も多い。特に、有名な備後国風土記逸文がある岡山県を中心に広まっている。

九州(特に福岡県)では蘇民将来伝説は表に出なくて、「茅の輪」神事そのものが行なわれる。


荒神信仰は、西日本、特に瀬戸内海沿岸地方で盛んであったようである。ちなみに各県の荒神社の数を挙げると、岡山(200)、広島(140)、島根(120)、兵庫(110)、愛媛(65)、香川(35)、鳥取(30)、徳島(30)、山口(27)のように中国、四国等の瀬戸内海を中心とした地域が上位を占めている。他の県は全て10社以下である。県内に荒神社が一つもない県も多い。               Wikipediaによる


福岡県では「荒神」「幸神」「庚申」「荒人」「荒仁」「現仁」「現人」の名が付く神社を拾うと、かなりの数になる。


備後国風土記逸文(びんごこくふどきいつぶん)


備後国の風土記に曰く。疫隈の国社。昔、北海に坐しし武塔神、南海の神の女子をよばいに出でいますに、日暮れぬ。彼の所に将来二人ありき。兄の蘇民将来は甚だ貧窮。弟の将来は豊饒で屋倉一百ありき。ここに、武塔神宿る所を借りるに、おしみて借さず。兄の蘇民将来は借したてまつる。すなわち粟柄を以って座となし、粟飯等を以って饗たてまつる。ここにおえて出で坐す。のちに、年を経て、八柱の子を率いて還り来て詔りたまひしく、我は将来の報答を為す。汝の子孫、その家にありやと問いたまふ。蘇民将来、答えて申ししく。己が女子、この婦と侍りと申す。すなわち詔りたまひしく。茅の輪を以って腰の上に着けさしめよ。詔にしたがひて着けさしむ。すなわち、夜に蘇民と()女子一人を置きて、皆ことごとく殺し滅ぼしてき。すなわち、詔りたまひしく。吾は速須佐雄能神なり。後の世に、疫気あれば、汝、蘇民将来の子孫といひて、茅の輪を以って腰に付けるある人は将にのがれなむと詔たまひしき。


()上記逸文には「弟の巨旦コタン将来」の記述はなく、「弟の将来」となっている。


「巨旦将来」の記述は後世の修正追加話であろう。


8.夏越しの大祓・茅の輪


茅の輪(茅萱で作られた大きな輪)は、半年間の罪穢を祓う夏越しの大祓(6月30日)に使用され、それをくぐることにより、疫病や罪穢が祓われるといわれる。


茅の輪くぐりの由来


大祓の時に茅の輪をくぐる由来は、奈良時代に編集された備後国風土記(びんごこくふどき)によると、次のように説明される。


日本神話の中で、ヤマタノオロチを倒した素盞鳴尊(すさのおのみこと)が、南海の神の娘と結婚するために、南海で旅をしている途中、蘇民将来(そみんしょうらい)という兄弟のところで宿を求めたところ、弟の将来は裕福であったにもかかわらず宿泊を拒んだのに対し、兄の蘇民将来は貧しいながらも喜んで厚くもてなした。


その数年後、再び蘇民将来のもとを訪ねた素盞鳴尊は「もし悪い病気が流行ることがあった時には、茅で輪を作り腰につければ病気にかからない」と教えられた。そして疫病が流行した時に弟の将来の家族は病に倒れたが、蘇民将来とその家族は茅の輪で助かったという。


この言い伝えから茅の輪信仰が生まれ、茅の輪も当初は伝説のとおり小さなものを腰に付けるというものであったが、大量の茅の輪を作るのも大変で、江戸時代初期になり、大きな茅の輪をくぐって罪や災いと取り除くという神事になった。というのが由来のようです。


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茅の輪


福岡県高良大社の夏越祓えでは、6月1日に川渡祭(かわたりさい)が行なわれ、特に、男女児数え7歳、還暦や厄年の方が、厄除・長寿息災を願うお祭りと云う。高良大社社殿の前に設けられた大きな「茅の輪(ちのわ)」をくぐり、ご祈願(お祓い)を受けると、高良の神の力によって災難をのがれ、大難を小難に、わざわいを福に転ずると昔から言い伝えられている。

高良大社の神事「茅の輪」は蘇民将来伝説に基づくものでなく、川渡祭として行なわれている。大社では、従来の腰に付ける「茅の輪」が季節限定で、お守りとして販売されている。


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高良大社の6月限定の「茅の輪お守り」茅の輪守


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福岡県北野町八重亀 天満神社「夏越し祓・茅の輪くぐり」1999(平成11)74

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