ひぼろぎ逍遥

http://ameblo.jp/hiborogi-blog/

太宰府地名研究会 (神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに

すでに、綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」というブログが良く読まれ、神社への関心の高まりにまでも貢献していることは良く承知しています。
同女史は、九州大学の航空工学の助教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星拾遺」他をヒントに神功皇后を追い求めておられます。
これに対抗しようという意図はさらさらないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。
ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。
これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。
詳しくはユーチューブ等で永井正範氏の講演をお聴きください。
また、このブログには太宰府地名研究会の伊藤正子女史外からも投稿が行われますので、実質的には、複数以上のライターによる小論、短論が掲載される場合もあります。
知見豊かな方であることから、私はただの編集員になってしまいそうですが、神社考古学、民俗学、古典文学、考古学、雑学満載の企画です。
あくまでも、緋色のボロ着は古川だけの事ですので、悪しからずご容赦。

2017年03月20日㈪開催のトレッキングのご案内です。詳細は以下の画像をクリックしてリンク先をご覧ください。
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397 太宰府観世音寺北東の日吉神社 ②

 

20160909

 

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 

 

 

 日吉神社についてはふれましたが、肝心の太宰府観世音寺に関しては皆さんにお知らせしておくことがあります。

 

 これは、九州王朝論者の中では半ば常識化している事ですが、この観世音寺とは九州王朝の国寺であった可能性があり、九州王朝の消滅後(白村江戦敗戦後)に解体され筏として組み直され畿内に運ばれ法隆寺の五重塔外になったのではないかという話があるのです。


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勿論、この説を提起されたのは「法隆寺は移築された」を世に問われた米田良三氏です。

15年も前に公刊されたものですが、未だに色あせることなく九州王朝論者の間ではバイブル的な響きを保っています。

差し障りがあるといけませんので、詳しくはそちらを読まれるとして、本来の法隆寺の五重塔の芯礎は現存していますので、太宰府天満宮とか九国博ばかり足を向けずにたまにこちらにもおいでになり、古代を考えて頂きたいものです。

米田説の中には、観世音寺の裏手にある僧坊跡なる礎石についても京都の三十三間堂として移築されているというものがありましたが、その礎石もそのまま残されていますのでご確認ください。

そもそも、戒壇院の裏の高い方に僧坊が置かれるという事自体が解釈的にはおかしく、宝物庫、宝物倉といったものならばいざ知らず、僧坊として住居に使えば、穢れた水が流れ込むはずで、事実、金堂西に造られた池に汚水が落ちる事になるのです。

当時もあったかどうかは別として、清浄な僧とは言え汚水を落す事にはなり、坊は下流に置かれなければならないはずなのです。解説、解釈はトンチキ。


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当時、水はどこから流れて来ていたかと言えば、日吉神社を見れば分かります。


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戒壇院、金堂裏手に残された礎石群

 

はじめに

 第Ⅰ部:法隆寺の封印を解く

   第1章:解体修理工事報告書の内容

   第2章:解体修理工事報告書の三つの事実

  第Ⅱ部:日本文化の華・観世音寺の運命

   第3章:観世音寺はいつ・だれが造ったか

   第4章:その後の観世音寺

 第Ⅲ部:日本の原風景・たい(イ偏に妥)国の姿

   第5章:たい(イ偏に妥)国とはどのような国か

   第6章:考古学的成果の再検討

   第7章:ふたたびたい(イ偏に妥)国について

 第Ⅳ部:日本の天才・上宮王の業績

   第8章:法隆寺の仏像

   第9章:創建観世音寺金堂の仏像

   第10章:正倉院御物の検討

   第11章:たい(イ偏に妥)国の宗教

あとがき

 

建築家である著者が古田武彦氏の所説に触発されて書いた書。圧巻は第Ⅰ部の法隆寺の西院伽藍の解体修理報告書の内容を建築家の目から つぶさに検証したところ、金堂と五重塔の部材には、はっきりと一度解体して再度組みなおしたあとが数多く見られ、それが一部分の修理などでは理 解できない、建物の根幹部分にも及んでいる事を検証した部分。著者はこの検討結果をもとに、古い絵図などとの比較検討の結果、現法隆寺の西院 伽藍は太宰府観世音寺の金堂と五重塔を解体し移築したものである事。そして其の際に建物も向きは元のものとは違った向きに建てられるとともに、 内部もかなり改造された事を証明する。

太宰府観世音寺を建てたのは九州王朝の上宮法皇(隋書たい国伝のアメ ノタリシホコその人)であることは古田氏の著書に詳しい。

(なお著者は第2書である「建築から古代を解く」【新泉社・1993年刊】で京都の三十三間堂は太宰府観世音寺の三十三間堂を移築したものであることも論証している)

 

「教員のための社会科学習参考書籍集」より

 

出版当時、飛びついて読ませて頂きましたが、古田史学の会内部では賛否両論が飛び交っていました。 

 仏教が隆盛を見せた時代、九州から山陰では何故か多くの廃寺が出現します。

 しかも瓦は出るものの木片等は全く発見されず、どのように考えても奇妙でした。

 ただ、60年程度で、瓦は劣化しますので葺き替えは必要ですし、木材は解体され補修されるのが通例です。

 このタイミングで、随時、放置された寺院の建物が解体され筏で瀬戸内海を渡り、新たな首都圏に再建されたという考えはリーズナブルで、木材が発見されない事の説明も付くのです。

 有名な島根県下府廃寺、鳥取県の加上淀廃寺、岩井廃寺、行橋市の椿市廃寺、佐賀の大願寺廃寺…と十数か所の廃寺跡を見て来ましたが、これが九州王朝の資産の再建と見るか強奪と見るかは問題でしょう。  

それはともかくとして芯礎は元より、多くの礎石もそのまま放置されているのです。



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396 太宰府観世音寺北東の日吉神社 ①

 

20160908

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 

 

 

 新著「日本国の誕生」小松洋二著(不知火書房)の関係で炎天下の福岡市内を走り回っていると、静かに休憩できる観世音寺は緑に溢れコンクリートやアスファルトに覆われていない土の地面の駐車場があるためそれだけでも気温も低く、ほっとします。

 

 何度も参内している観世音寺ですが、北東には7世紀ともされる日吉神社が鎮座しています。

 

 北東に鎮座している事から、観世音寺の守護神との性格を持たされているようです。

 

 この神社も過去何度か見ていますが、少しは目も肥えてきたのではないかと増長し改めて見せて頂く事にしました。 


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日吉神社 カーナビ検索 福岡県太宰府市観世音寺5丁目11

 

 

 

 日吉神社についてはこれまで何度も取り上げて来ましたので良くお分かりだろうと思いますが、日枝山王宮、山王権現、松尾神社、佐田神社(出雲の佐田大社は断じて猿田彦などではない!)…であり、阿蘇の草部吉見神=ヒコヤイミイ(ヒコハエミミ)と宗像大社の市杵島姫との間に産れた大山咋(オオヤマクイ)神その人を祀る神社です。

 

 

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同社参拝殿の縁起縁起

 
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社殿は至って簡素で、境内摂社や末社の類も一切ないことから、縁起にある二神=大山咋、大己貴神(オオナムチ)のうち大国主=大己貴神が本来の祭神であったことが一目瞭然です。

 

最低でも7世紀初頭までは、この大国主=大己貴神こそが九州王朝の国寺とも言うべき観世音寺の鬼門を守る守護神であったことが分かるのです。

 

 社殿の神紋はと今回改めて確認すると、「日」なる文字が浮かんでいました。

 

以前はただの模様と見過ごしていたのですが、日吉=日枝の意味だったのです。

 

 

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秀吉の九州侵攻時の逸話は興味深いものがありますが、大山咋の子が贈)崇神天皇=ツヌガノアラシトになることから、権勢を誇った藤原氏も阿蘇氏を起源としている事を十分に承知していた秀吉(木下家への入婿であり紀氏の系統)はこれ幸いと領地没収へと運んだことが見て取れます。

 

 この木下家は五七桐紋を使う氏族で、入り婿となった秀吉は相当に優秀な男と見込まれて婿となった切れ者だったことがその事だけからも想像できそうです。

 

 ただ、入婿だったことから、生涯、正室の ねね には頭が上がらなかったとされています。つまり、“秀吉が卑しい百姓以下の身分”とか猿とか言った表現は後の徳川による貶めるための宣伝でしかないのです。

 

 

 
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スポット090 「すだち」と「かぼす」のうしろにはヤタガラスが見える

20170317

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 豊後での生活に慣れてくると、どうしても、「椎茸(どんこ)」や「かぼす」…と接することが多くなってきます。

 そこで、考えていたのですが、徳島の「すだち」は「酢の橘」の意味である事はあまり考えなくても理解できます。


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スダチ(酢橘、学名:Citrus sudachi)はミカン科の常緑低木ないし中高木。徳島県原産の果物で、カボスやユコウと同じ香酸柑橘類。名称の由来は食酢として使っていたことにちなんで、「酢の橘」から酢橘(すたちばな)と名付けていたが、現代の一般的な呼称はスダチである。

ウィキペディア 20170317 22:03による


 問題は大分の「かぼす」の意味で、何故、「かぼす」「カボス」…と呼ばれているのか?が分からないのです。



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カボス(臭橙、香母酢、学名:Citrus sphaerocarpa)は、ミカン科の常緑広葉樹、または、その果実で、柑橘類のひとつである。

カボスという名の由来は明らかではなく、文献で確認できるのも第二次世界大戦後のことである。

ダイダイの一種に「カブチ」、「カブス」などと呼ばれるものがある。平安時代の深根輔仁による『本草和名』に、「枸櫞」「和名加布知」などの記述があり、現代でも和歌山県から三重県にかけてダイダイを「かぶち」と呼ぶ地域がある。また、1603年ごろ発行の『日葡辞書』にはCabusuの記載があり、1709年(宝永7年)に刊行された貝原益軒の『大和本草』にも、「カブス」についての記載があって、その名の由来は、「柑子」(かむし、かむす)が訛ったものとも、乾燥した皮をいぶして蚊よけに用いるからとも記されている。さらに、愛媛県の一部で三宝柑を「かぶす」、大阪府の一部で文旦を「かぼそ」と呼ぶ地域があった。しかし、これらの柑橘類の名称と「カボス」との関連も不明である。

漢字の「臭橙」は熟字訓、「香母酢」は当て字である。

ウィキペディア 20170317 22:03による


 立派に調べておられる事は十分に分かりますし評価に値しますが、何とも分かるようで分からない説明に留まっています。

 そこまでの話ならば、当方も一つの仮説を出しておきたいと思いたちました。所謂、言うたもの勝ち!

 そう考えた背景には、阿波=徳島と言えば忌部の国=ヤタガラス(豊玉彦)の国という概念が存在していたからでした。

ではお話に入りましょう。

まずは、一例になりますが、「阿波忌部の世界」をお読みください。阿波の神社調査に関しては一通り目を通している有力サイトです。


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阿波~和歌山~奈良が、忌部というよりも、豊玉彦(ヤタガラス)の領域であった事は百嶋由一郎氏の話と併せこれまでにも何度となく触れてきました。

 その阿波に於いて、① ダイダイを「かぶち」と呼ぶ地域がある。② 『日葡辞書』にはCabusuの記載があり ③ 貝原益軒の『大和本草』にも、「カブス」についての記載があって、その名の由来は、「柑子」(かむし、かむす)が訛ったものとも…となると、消し去る事の出来ない強烈なイメージが湧いてきました。

 それは、賀茂族=加茂族=鴨族=カモ族の酢橘だったのではないか?「カモの酢」という意味です。

 まず、橘一族が、白族と呼ばれる大幡主の一族であることが理解できれば、後は自ずからすんなりと分かってくるはずです。

 勿論、賀茂族とは、京都の上賀茂、下賀茂に象徴される大幡主~ヤタガラス(豊玉彦)系の民族と言った意味です。

 その一族こそ橘一族であり、中国の白族であり、九州王朝を支えた有力豪族だったのです。


 県犬養三千代

県犬養 三千代(あがた(の)いぬかい の みちよ、天智天皇4年(665年)? - 天平5111日(73324日))は、奈良時代前期の女官。橘三千代ともいう。

生涯『新撰姓氏録』『尊卑分脈』によれば父は県犬養東人とされるが、東人の事跡は不明で、母も不詳。出生年月日も不明であるが、出仕時期から天智4年(665年)出生の可能性が考えられている。県犬養氏は屯倉を守護する伴造氏族のひとつで、壬申の乱では県犬養大侶が大海人皇子(天武天皇)に近侍し、天武天皇13年(684年)に宿禰姓を賜った中堅氏族。

三千代の出仕時期は不明であるが、天武8年(679年)には氏女の制により豪族女性の出仕年齢が15歳前後に定められ、三千代も同年に命婦として宮中に仕えたと考えられている。配属先についても不明であるが、和銅元年(708年)11月には即位直後の元明天皇から橘宿禰姓を賜っており、また養老5年(721年)5月には元明太上天皇の病平癒を祈念して仏門に入っていることから、天智天皇の娘で草壁皇子の妻となった阿閉皇女(元明天皇)に出仕した可能性が考えられている(義江 2009)。

はじめ敏達天皇系皇親である美努王に嫁し、葛城王(後の橘諸兄)をはじめ、佐為王(後の橘佐為)・牟漏女王を生む。

ウィキペディア20170322 16:32 による


 目を瞑る(ツムル)と言う言葉と目を瞑る(ツブル)と言う言葉が、発音は全く異なるものの、同じ意味を持っている事はお分かり頂けると思います。

当然、「ひもろぎ逍遥」も「ひぼろぎ逍遥」も同じ概念ですし、「カムル」も「カブル」もそうです。「カムリつく」と「カブリつく」も「湯あみ」と「湯浴び」も同様です。

このようにM音とB音とが入れ替わっても意味が全く変わらない言葉が日本語の中には驚くほどたくさんあるのです。

 とすると、「カボス」は「カモス」とも考えられそうだとお分かり頂けるのではないでしょうか?

 そうです、賀茂族か列島に持ち込んだ酢橘こそ「カモス」であり「カボス」であるという話になるのです。

 大分県が中心だったことから当然ですが、現在、ガボスは96%が大分県で生産されています。

地域的には、竹田市、豊後大野市、臼杵市といった豊後地方を中心に生産されているようです。

 最近、神社を詳しく調べて行くと、この領域も阿蘇氏、大蛇伝説の大神氏、金山彦、ヤタガラス…の領域であった事が分かって来るのですが、ここから構造線を辿って四国の脊梁山脈、徳島、和歌山、奈良と金属鉱床のラインと共に、柑橘系の橘一族のラインも通じていたように思えてきます。

 故)百嶋由一郎氏は、生前、伊勢は大幡主の領域であったと言われていました。

 その伊勢も現在三重県と呼ばれている事にも関心を持っています。

 それは、豊後大野にも三重町があり、一説には松尾芭蕉も豊後の三重辺りの出身だったと言う話まであるのです。

 この間、豊後の最奥部の神社調査を進めてきましたが、伊勢とは神武皇兄五瀬命(イツセノミコト)の伊勢ではないのか?宮崎県五ヶ瀬町、五ヶ瀬川とも関係があるのではないのか?

カボスとスダチにも関係があるのではないのか?といった話にまでイメージの暴走が止まらなくなっています。

また、阿波の神社調査にも行きたいと思っているのですが、思考の暴走を繰り返している中で、カボスの語源を考えてみただけの思い付きに過ぎませんので、その範囲でご理解いただきたいと考えているところです。


かぼす(香母酢)

かぼすと呼ばれるようになった所以は、かぼすの果皮を細かく刻み、蚊やりとしていぶして使用していたため、「蚊いぶし」から「かぶし」に転じ、そして現在の「かぼす」という名称に落ち着いたのです。



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こういった気楽な話であれば簡単なのですが、お考えは自由です。

恐らく、かぼす(香母酢)はかもす(賀茂酢)が起源であろうと考えています。

そして、持ち込まれたルートも海南島の加茂(チャマオ)からだったのではなかったかとさえ考えています。


賀茂族=博多の櫛田神社の大幡主の一族は、雲南省昆明から海南島を経由して列島に移動した白族の後裔であろうと言う話はこれまでにも何度となくお話ししています。

再度お読みになりたい方は、ひぼろぎ逍遥から以下などを参照下さい。


209 阿蘇の草部吉見と博多の大幡主の御先祖がおられた海南島について“コピーペーストも活用しよう”


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