ひぼろぎ逍遥

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久留米地名研究会 (神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに

すでに、綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」というブログが良く読まれ、神社への関心の高まりにまでも貢献していることは良く承知しています。
同女史は、九州大学の航空工学の助教授であった故真鍋大覚氏による「那の国の星」他をヒントに神功皇后を追い求めておられます。
これに対抗しようという意図はさらさらないのですが、華麗なひもろぎ逍遥に対して、緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。
ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。
これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。
詳しくは久留米地名研究会のHPで永井正範氏の講演をお聴きください。
ただ、緋色のボロ着は古川だけの事ですので、悪しからずご容赦。
5月からは久留米大学公開講座(九州王朝論)が始まります。詳細については久留米大学の公開講座の案内をご覧ください。

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299 北北東に進路を取れ! ⑲ 西舞鶴の朝代神社

201601012

久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


西舞鶴の笶原神社を見た後、直ぐ隣の朝代神社に向かいました。

ここには、神宮寺だったと考えられる真言宗御室派の円隆寺が境内を連続させています。

境内の規模と言い風格と言い東舞鶴の大森神社と並び、まずは、舞鶴を代表する神社のようです。


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春の網代(アジロ)の置き換えかと思ったところ、正面にお住いのお爺さんにお尋ねしたところ「アッショ」神社だそうで、やはり、現地での確認は必要です。

ただ、複数の聴き取りも必要なので地元のお知り合いにお尋ねしたら「アサシロ」と言われているそうで、当面、保留します。


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同社「社記」

「社記」をそのまま読めば、イザナギが単独で祀られている神社になりそうです。

この点、イザナギ、イザナミを祀る多賀神社などとは異なります。

これも、注目するところで、百嶋神社考古学では、イザナミはイザナギとさっさと別れ、博多の櫛田神社の主神である大幡主と一緒になり、ヤタガラス=豊玉彦が生まれている事を知っている訳で、その痕跡とも見たいのです。

それほど珍しいものではないのですが、この社記にも天武朝の「白鳳」元年が出ています。

この「白鳳」自体が近畿大和朝廷の年号ではないもので、通常私年号として貶められていますが、六世紀初頭から連綿と繋がる九州王朝の俗称「九州年号」(513713)なのです。

さて、境内正面にある駐車場に車を止めましたが、直ちに目に飛び込んできたのは「塩釜神社」でした。



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境内社としては少し大き過ぎるこの摂社からは、最良の地に置かれているだけに、元々はこの神様こそが、鎮座されていたのではないかとさえ思わせるものです。

しかも、五七桐の神紋が鮮明で、この神紋を使う神様を奉る有力者こそがこの摂社のご主人なのです。

塩槌翁のことはご存じでしょうが、この神様こそ塩釜神社の本体で、博多の櫛田神社の大幡主なのであり、ヤタガラスのお父上なのです。

元より、初見の神社をどうこうコメントする立場にはありませんので、「丹後の地名地理・歴史資料集」などを軸に勝手に舞鶴一帯の神社を概括させて頂いていますが、どうみても博多と一直線で繋がっている地というイメージを拂拭できません。

「丹後の地名地理・歴史資料集」氏も「こんなごたいそな社を祀ったのであろうか。かなり眉唾物の縁起であるが、…」とされていますが、ここでは一応イザナギを奉斎する神社であることを受入れ、まずは、静かに境内を見せて頂くことにしました。

そもそも、イザナギだけを主神とすること自体が、イザナミを排除したと見るべきで、百嶋神社考古学ではそのイザナミは後に博多の大幡主(正面の境内社塩釜神社の神様)のお妃になっているとしますので、大幡主の勢力を貶め門番扱い=番犬にしたようにさえ見えるのです。

そ もそも、多賀神社(境内社にも同社が あるがイザナミは排除されています)にしても、イザナギ、イザナミを祀るのですから、その子はスサノウでしかなく、そのスサノウが天照大御神に逆らったこ とから当たり障りの少ないイザナギ、イザナミにしている可能性が高く、この神社でもスサノウは主神の座から滑り落ちているのかも知れないのです。

初見ながら、この神社は大幡主系と伊勢神宮の外宮系の神々が本来の神であったものが、かなり古い時代に境内社に落とされていると考えるべきではないかと思います。

蛇足ながら、境内社の工匠神社のタ(テ)オキホオヒの神とはちなみに、タオキホオヒのタ(テ)は「手」であり、天岩戸神話の手力男命の事なのです。

稲荷神社(祭神 保食神)は、山幸彦のお妃であり、伊勢の外宮の豊受大神なのです。

このことはあまりお分かりいただけないのですが、この朝代神社に隣接する円隆寺側にその痕跡らしきものを見出しました。


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縁起担ぎに出世(シュッセ)稲荷と呼ばせているようですが、出世は伊勢(イセ)の置き換えであり、出でるの「イ」であり伊勢神宮外宮の豊受大神が稲荷様であることを暗示しているようです。


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舞鶴市の中央部。西舞鶴市街地の西に位置する愛宕山の東麓にある。江戸期田辺城下の総産土社として尊崇され現在に到る。下の挿図を見れば当時とそう大きくは変化がないようである。

朝代大明神(田辺府志より)

「田辺府志」に「朝代大明神は日之少宮なり、日本紀に伊奘諾尊と称し奉る」とあり、日之少宮(伊奘諾尊)を祭神としている。

草創については「加佐郡誌」は、「天武天皇白鳳(私年号)元年九月三日(卯ノ日)淡路国日之少宮伊奘諾大神を当国田造郷へ請遷したものである。其後の年代は詳でないけれども現地に遷し奉った」としている。

さてさて、どこの村人が自らの氏神として、こんなごたいそな社を祀ったのであろうか。かなり眉唾物の縁起であるが、そうなっているからとりあえずそのままの引用である。

残 欠になく、式内社でもなく、「室尾山観音寺神 名帳」にもなく、「田辺府志」以前の記録にはどうやら見えない社である。あるいは江戸期になってから作られた偽作っぽいものではなかろうか。当社は代々、 玖津見氏が神主職を継いだが、その任免は吉田家によっていたとされる。その玖津見氏がどこの村の誰ともわからない。どこかの星から落ちてきたような神主さ んで、何で遠く何の関係もない京都の吉田家に任免されねばならないのか。もうぜんぜん村の鎮守ではない。

「朝社登茂書也」と記した「朝代大明神縁起」が伝わる所から推理すれば、朝代はアサヤシロのヤが脱落したもので、アサ神社ということであり、アサとは古くは砂鉄をそう呼び、元々はそうした産鉄系の神社かと思われる。詳しくは「朝代神社と朝禰神社」参照。

元々 は田造にあっ た神社であったが、何かのきっかけで田辺城下の総産土とまで崇敬されるようになり、その途上で「縁起」もそれらしく書き換えていったものなのではなかろう か。田舎町には不似合いななかなかの策士殿がござったのであるが、カッコつけすぎでこの地の歴史にあわずかえって破綻が出ているようなところである。

…中略…

《加佐郡誌》

祭神  伊奘諾命

由緒  天武天皇白鳳(但し私年号)元年九月三日(卯ノ日)淡路国日之少宮伊奘諾大神を当国田造郷へ請遷したものである。其後の年代は詳でないけれども現地に遷し奉った。東の大華表を潜って南に西に石燈を迂曲して北の方の社殿の前に出る。之れは陰陽流行の理を象ったものであると云ふことである。

境内神社 天満神社(祭神 菅原道真公) 稲荷神社(祭神 保食神) 松尾神社(祭神 大山咋神)

祇園神社(祭神 素盞鳴尊) 疫神神社(祭神 少名彦神 煩宇須神ワズラヒノウス)

多賀神社(祭神 伊奘諾尊) 大国神社(祭神 大国主神 龍蛇神)

工匠神社(祭神 手置帆負命テオキホオヒ彦狭知命ヒコサシリ)

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298 北北東に進路を取れ! ⑱ 西舞鶴の謎の古社 雨引神社

201601010

久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


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西舞鶴には水銀朱採取者を思わせる女布(ニョウ)という地名がありますが、そこから由良川領域に移動しようと京都丹後鉄道宮舞線に沿って西に向かう道すがら、千石山の麓に雨引神社があることに気付きました。

まず、千石、千束、千塚…八田、八木、八屋…は、物部氏の中でも瀛氏=忌部の匂いのする地名です。

 その山裾にある神社ですから、この、あまり聞かない雨引神社もその系統の神社ではないかとの思いが走ります。

 狭い道を潜り抜け、神社を見つけましたが、由緒書もなく主神が誰かも分かりません。

このような神社を見るには、帰納演繹的に多くの神社の例から判断するしかありません。

 遠来の神社である上に、土地勘がない以上、軽々に判断はできないのですが、まず、「雨引」の「引」は疋、比企、日置(もしかしたら豊前、豊後の大神比義も)…で置き換えではないかとの思いが走ります。

 ただ、以前どこかで雨引神社を見たことがあるとの意識が僅かながら残っていました。

 これについては後で気づいたのですが、確かに宇佐神宮の東隣国東半島の付け根に今に残る中世荘園田渋荘(豊後高田市)の中心部の小崎に静かに鎮座する雨引神社があり訪問していたのでした。ただ、何の表示もなくそれっきりにしていたものでした。まさか、舞鶴でお目に掛かるとは不思議な感覚です。

やはり、訪問した神社のデータ・ベースを作る時期が来ているようです。

 では、長文ですが、地元の研究者による雨引神社の記述をお読みください(強調は当方)。


雨引神社の主な歴史記録 

《雨引神社の概要》雨引神社の揚松明神事

雨引神社は西舞鶴の南部。高野川上流の城屋じょうやに位置する。毎年814日に行われる「揚松明あげだいまつ」の神事で有名な神社である。別名というか、本名というのか地元では「蛇神様じゃがみさんと呼んでいる。

普通は祭神は水分みくまり神とされ、雨乞いしたのが神社のはじまりとも言われるが、実はもっともっととてつもなく古い歴史があると思われる。

森脇宗坡そうはの大蛇退治伝説でも有名である。その退治されたはずの大蛇こそがこの神社の本来の祭神であろうと思われる。

 ここから高野川を三キロばかり遡った上流に「雨引神社奥の院」がある。さらにその奥に伝説の「蛇が池」もある。

《地図》

雨引神社の主な歴史記録 《室尾山観音寺神名帳》正三位雨引明神

《丹後国加佐郡旧語集》天曳明神 六月九日祭。大松明ノ祭、珍鋪祭ニテ年ノ豊凶ヲ試。

《丹哥府志》【天引大明神】(祭六月九日)

《加佐郡誌》 祭神 水分神 『丹後史料叢書五』所収「丹後国式内神社取調書」

日原神社 ○【古事記】天日腹大科度美神 旧印本目原トカキテヒハラト訓ヲツケタリ

【覈】田辺郷朝代町朝代大明神ト称ス【明細】女布村【道】女布村【式考】同上社傳祭神天日腹大科度美神ト云ヘリ【豊】同上七月廿四日)

(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)

《舞鶴市史》

雨引神社 神社の祭礼で催される神賑のほかに、特殊な神事を伴う場合がある。城屋の雨引神社には、揚松明で名のある卜占神事が特殊神事として継承されてきている。社名は「天曳」(旧語集)「天引」(丹後旧事記)とも表記していた。祭神は社名が象徴するように農耕水利を司る水分神である。この揚松明は「旧語集」に「大松明ノ祭 珍鋪祭ニテ年の豊凶を試」(城屋村の項)すとあり、早くからその名があがっていた。

 揚松明の起源については二説あるが、一般に流布されているのは大蛇退治説で あり、他は雨乞い説である。因みに雨乞い説については、明治三十九年の「神社明細書」 に天保のころを起源としている。同種の神事は小倉に近年まで継承されていたほか、京都市左京区花脊広河原地区などでも継承されていて、揚げ松、松上げ、柱 松と称して盆の精霊火の一つであるともいわれている(民俗学辞典)。

  同社の社頭を流れる高野川の上流を日浦ヶ谷に入ると、大蛇退治で有名な森脇宗坡(巴) が弘治年間(一五五五-一五五八)に娘の仇を討つために騎乗した馬が残したと伝承される馬蹄の跡と称するものを、岩の窪みに見ることができる。この岩は影 向石と同じであり、神の憑り代で、恐らく雨引神社の原型をなしたものではなかったかと考えられる。伝承に従えば、娘を呑んだ大蛇を討ったあと、これを三断にして頭部を肥ったのが城屋の雨引、胴部は野村寺の中ノ森、尾部は高野由里の尾の森の各神社となったといわれる。

 揚松明はこの大蛇の供養、または大蛇の物凄さを象徴したものとされるが、この起源説は揚松明に付会したものと思われる

  一方、雨乞い説は、旱天が続き農民が困窮していたところ「一偉人(中略)辛シテー神池ヲ発見ス 又神ノ告ヲ得テー松明ヲ点シ大ニ神ヲ祭り以テ雨ヲ祈ル 是ヨリ風雨順ニ五穀豊熟ス 村民依テ其神霊ヲ祭リシト云フ」(各神社明細書)とあり、これが起源説となっている。なお雨乞いのために火を焚く習俗は全国各地に見られる。

  大蛇退治と類似の伝承は全国に分布しているが、当市では布敷の池姫神社の創祁、与保呂 の日尾神社にまつわる蛇切石の伝承、地理的には二社の中間に位する上根の船繋岩の伝承などがある。これらの伝承は大蛇(竜)がモチーフになっていて、大蛇 の威を鎮めることにより農耕が進捗する様子を伝えている。そして、ともに岩が大きな役割を果たしていることが注目される。

 先の雨引神社の祭神は水分神といい、非人格神の性格が強く、池姫神社は市杵比売命とするが、「旧名千滝雨引神と号之(中略)祭神は竜神」(加佐郡誌)とし、「丹哥府志」(布鋪村の項)にも同様のことを伝えている。この神もまた明治以前には固有の名を持たなかったと考えられる。そして伝承内容はやはり雨水に関係している。

『舞鶴市内神社資料集』所収(神社旧辞録)


雨引神社 祭神 水分神  (祭 新八月十四日) 同市字城屋

城屋の揚松明で古来より有名なお社様。宮司の話として記された物を見るに起源は有名な大蛇退治(弘治年間1554-1558の由)より数百年も古く水を制する水神を祀ったが後隣村の豪士森脇宗坡の武勇伝が加はった由。また一説には牧野侯の初世(寛文延宝頃か)のころ旱魃の節近郷の農民同社に祈願し大松火の行事を行ったに因るともある。この雨引社の裏山に愛宕社が鎮座(火気極って水気を生ずと云)。ちなみにこの奇祭との神縁を探る鍵ともなるので蛇足ながら附記。

北桑田郡鶴岡村愛宕大祭。

陰 暦七月廿四日村民の斎戒沐浴して?暮から各家炬火を投げあげる。その法は長サ十二、三 間ある材木の上端に麻稈オガラを以て大きな茶筌形の火受を造り中に枯竹・松枝等の燃料を充たし、これを川原の清浄な所に直立し、各自数十の炬火を投げ上 げ、炬火が火受けに入れば火炎天に冲する。そうして燃料が尽きれば引倒し云々、(当庄屋と軌を一にする?)

又鞍馬の火祭竹伐会式(左義長)

六月二十一日本堂前近江方、観音堂前丹波方として、各一丈許りの青竹を大蛇に見立て?声と共に三断し、その早きを勝とし、その年の農作物の豊凶を占ふという。

なお与保呂池姫社に関しても同村奥谷の大蛇洪水で巨岩に当り三断し此処に首は留り池姫社に祀られ胴は行永に留まり胴の宮となり尾は大森に至り尾ノ森也と(丹哥府志)

『火祭りの里 城屋』

『舞鶴市内神社資料集』所収(神社旧辞録)

●境内建物

・雨引神社  棟上・安政六年(一八五九年)九月十一日 改築 大工棟梁 堀田亦左衛門(五良作家)

・境内十一社 多賀神社 今刀比羅神社 兵主神社 熊野神社 大川神社 八幡神社 神宮神社

春日神社 稲荷神社 正勝神社 若宮神社

・嘉永二年(一八四八年)改築 ・昭和五十五年(一九八○年)再建

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これだけでも粗方の見当が付きますが、それは後述するとして、愕いたのは境内に居並ぶ摂社でした。


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この手の神社を考える時は、本来の祭神と新たな支配者となった氏族の奉斎する神との入れ替わり、つまり祭神の入替、合祀を絶えず考えておく必要があります。

特に「大蛇退治伝説」とか「青竹を大蛇に見立て?声と共に三断し」などとある時には尚更です。

この11社の中に一際大きな二摂社があるのです。左が若宮神社であり、右が大川神社なのです。

大川神社については、既に、297 北北東に進路を取れ! ⑰ 西舞鶴の大川神社 として書いていますが、ヘブライ系瀛氏の金山彦であり、それと同等扱いされている若宮神社となると高良皇子としか考えようがないのです。

ただ、この辺りが藤原氏が最も隠したかった日本の古代史の闇の部分であり、通説に尾を振り、通説への精通を持って権威付けする方々には所詮理解できない事かも知れません。

一目見て、若宮神社は久留米高良大社の膝元に鎮座する高良皇子神の若宮、つまり、高良玉垂命=開化天皇と神功皇后との間に生まれた長男 斯礼賀志命(シレカシノミコト)=仁徳天皇である可能性が非常に高いと思います。

この若宮神社に関しては最近新たに二社を但馬で確認しており、福知山市にも高良神社(京都府福知山市鋳物師601 高良厄除神社)を確認しており舞鶴市にもあっても決しておかしくはないのです。

 ただ、この二社が本来の祭神だったとするとバランスが悪く、もしかしたら、高良玉垂命そのものか、市杵島姫が祀られ一社三殿三神だった可能性はあるのではないでしょうか?

水配神=水分神として良く混同される女神に、①天御中主命=久留米水天宮、②罔象女神(弥都波能売神)=神太市姫=スサノウのお妃、③市杵島姫=弁財天…がありますが、ここでは③ということで保留しておきたいと思います。

 神殿の垂幕には高良玉垂命の神紋である五七の桐が使われており、現在、尚、神殿に留まることを許された神は摂社との関係から豊受大神と見たいのですが、当面は決め手がありません。今後の課題です。

いずれにせよ、直ぐ南の大江山には大江山の酒呑童子退治の話があり、南(近畿大和朝廷)から侵入した勢力が、この九州系の氏族、特にヘブライ系氏族=鬼を廃した事と連動した話に思えてなりません。

 雨引神社は国東半島の田渋荘、岡山県赤磐市沢原、同県総社市の境内社の他、茨城県桜川市に認められる事から、今後、関連を調べたいと思います。


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「写真旅紀行」田染荘(たしぶのしょう)-国東半島を訪ねて(11より


多少悔しさが残るため、これら11摂社 多賀神社(別れる前のイザナギ、イザナミ) 今刀比羅神社(大国主ではなく大山咋) 兵主神社(大国主) 熊野神社 大川神社(金山彦) 八幡神社(大幡主) 神宮神社(天照大御神=オオヒルメムチ=卑弥呼) 春日神社(阿蘇草部吉見ではなく罔象女神) 稲荷神社(豊受大神) 正勝神社(阿蘇草部吉見) 若宮神社(仁徳天皇) の神々を簡単に解読しておきたいと思います。

どうも摂社の神々を見ても、春日神社と正勝神社が分離されているように、天照を中心として初期九州王朝の臣下が揃い踏みしているように見えますね。


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スポット037 東 瀛 遊(トオエイユウ)

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20150514

久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


研究会のスケジュールの合間を縫って、鹿児島市の城山観光ホテルで行われた第74期将棋名人戦第三局(羽生善治名人VS佐藤天彦挑戦者)の大盤解説会に行ってきました。

一応、地元佐賀県の某将棋連盟に参加していましたが、最近は将棋を指すよりも見る方が楽しく、もっぱら大盤解説会に参加するだけになっています。

このため、一セット35万円也(歩一駒一万円相当)の虎斑入りの八丈柘植の駒も仕舞い込んで冬眠状態にあります。


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タイトルを読まれた上に、場違いな将棋の話が飛び出して来て、冒頭から驚かれたでしょうが、勿論、将棋の話をする訳ではありません。

 ここで、見掛けたポスターに「東 遊」(トオインユウ)という文字を見たと言うだけの至って単純な話です。


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話には聴いていましたが、城山観光ホテルは車中泊族にとっては高嶺の花の超高級ホテルです。

 30年も前の昔は、鹿児島なら妙見温泉の石原山荘とか指宿温泉の白水館といったハイクラスのホテルや旅館を利用していたこともあったのですが、今や民俗学徒を気取り地べたを這いつくばるような旅をするのが当たり前になっています。

 将棋の方は、もう20年も遠ざかっており、刺さない将棋ファンですが(相撲や歌舞伎ファンはそんなもの)、結果だけは申し上げておきます。第三局は28歳の挑戦者佐藤天彦の勝ち(二勝一敗)となりました。

どうやら、26日に広島県福山市で行われる第四局二日目の大盤解説会にも行き、また広島県の山中に入り込み未踏の神社を見て回る事になりそうです。

 さて、本題に入りましょう。ロビーを徘徊していると、非常に面白いポスターに目が留まりました。


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ご覧のとおり、中国からの旅行団を熱烈歓迎するというポスターですが、この「東瀛遊」とはイースタン・グローバル・ツアーなのか?イースタン・エイ(Gはサイレンス?)・レジャーなのか不明ですが、中国の旅行会社の名称なのです(これもネット検索でエバーグロスツアーズの意味と判明)。

始めは「体験温泉」が旧字の「體」と書かれていることから(日本も戦前は體操と書いていたのです)、今でも難しい漢字を使い続ける台湾の代理店かと思ったのですが、後で分かったのですが香港の旅行会社だったのです。

これだけなら、何を言っているのだろうと思われるでしょうが、当ブログを丹念にお読みの方は思い当たられると思います。お読みでない方はこれらをご覧ください。


ひぼろぎ逍遥 230 白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

 159 秦の始皇帝と市杵島姫

同(跡宮)   106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

054 秦の始皇帝と市杵島姫

「臝」(エイ)は秦の始皇帝の姓であり、臝政(エイセイ)と呼ばれていました。

対して、「瀛」(イン)は、始皇帝の一族と姻戚関係を結び列島に移動したヘブライ(イスラエル)系氏族を意味し、具体的には博多の櫛田神社の大幡主の一族、スサノウのお妃の櫛稲田姫の父親に当たる金山彦、飯塚市鹿馬毛馬の厳島神社の一族などの事なのです。

 彼らは秦が滅びる前に海を渡り列島に入っていることから、さんずい偏を加え臝+水=「瀛」を姓としたのです。

 これらの事は後で触れるとして、この「東瀛」とは大陸から見た東の夷どころか、東の秦王朝の一族そのものを意味しており、恐らく、その事を認識している一族によって創られた会社が、この「東瀛遊」であろうとの発想が走ったのでした。

 してみると、香港もいつでも東南アジアに移動できる亡命地のような場所であり、列島に逃れた中国ナンバー・ワン秦帝国の始皇帝と姻戚関係を結び列島に移動した一族の一部である可能性があるのです。

 列島では、瀛(イン)氏、忌部(インベ)、卜部、陰陽師、そして役(エン)=役 小角の一族がそれに当たるのです。

 そこまで考えれば、「東瀛遊」の社長が袁(エン)文英氏(清末期の袁世凱の一族なのでしょうか?)

であることは、今もその法則性が二〇〇〇年を越え働いていることに感動をすら抱くのです。

宗像大社の市杵島姫も本来の表記は「瀛津嶋比売」ですね。



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文句なく瀛津嶋比賣命=市杵島姫命ですね(朝倉市佐田町の高木神社の境内摂社)


ひぼろぎ逍遥(跡宮) 178 参照


朝倉市佐田の山奥深く瀛津嶋(イツクシマ)比賣命を発見した!”安倍貞任後裔の秘密集落の高木神社“


  名人戦は終局が夜ふけに及ぶ事が多々あります。翌日が久留米大学の公開講座の初日のため、局面も逆転の可能性がなさそうでしたので、終局を待たず早い段階 で引き揚げましたが、今回は二日目の封じ手以降、つまり観戦の最初から最後まで羽生名人に良さそうな局面はなく、ある意味で一方的な一曲でそれほど面白く はありませんでした。

 唯一、面白かったのは、副立会人の木村一基八段と偶然トイレで隣り合わせの連れ○○○になった程度で、終局も確認せず足早に駐車場に向かいました。

 すると、正面に「東瀛遊」社のツアー・バスが駐車していたのです。


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運転手さんがおられましたので、「これは普通の方はなかなか読めないと思いますが、実際には“トウインユウ”か“トンエイユン”…と呼んでいるんではありませんか?とお尋ねすると、“「トウエイユウ」で良いようです”とのお答えを頂きました。

 しばらくお話をしましたが、一つだけ非常に面白いことを言われていました。

 それは、“「東瀛」けで日本を意味していると聞いています”と言われた事でした。

 私がにやりとした事は言うまでもありません。

瀛州(えいしゅう)は、

古代中国において、仙人の住むという東方の三神山(蓬莱•方丈)の一つ。

転じて、日本を指す。「東瀛(とうえい)」ともいう。日本の雅称である。

魏晋南北朝時代の487年から隋の時代にかけての、行政区分のひとつ(後述)。

ネット上の某辞書から


 まさに、二千年を越えた大陸の歴史を見た思いがしたのです。

 将棋より面白い発見に遭遇して何か得したような気分で、一路、無料の南九州自動車道を通り悲惨な状態に陥っている熊本方面に向かい戻ることになりました。

 翌日は昼から古田武彦亡き後ナンバー・ワン研究者の佃 収先生の講演を聴くことになるのです。


秦の始皇帝と市杵島姫



奇妙な題名に見えるかも知れませんが、だんだんとお分かりになってくる事と思います。

秦の始皇帝と言えば古代史どころか歴史一般に関心を持たれない方でもご存じの中国古代史上最大のスーパー・スターですが、その名前はと言えば答えに窮する方が続出するのではないでしょうか?しかし、


1. 【始皇帝(しこうてい)】秦朝の皇帝。姓は(えい)、諱は政(せい)。現代中国語では、始皇
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(シーフアンティ) または秦始皇(チンシーフアン) と称される。 元来は秦王として紀元前246年に即位した。前221年には史上初めて中国を統一し、中国史上はじめて皇帝を称した


と、ネット上の「Weblio辞書」は極めて簡潔明瞭に書いてくれています。

ところが、この秦の始皇帝(えい)政(せい)氏と似た文字を使った名を持つ古代史のスーパー・スターがいるのです。

宗像大社の瀛津嶋姫命(オキツシマヒメノミコト)=市杵島姫命です。

そんなことは初めて聞いた…といった方のために、敬愛する「玄松子」氏のHPから引用させて頂きます。


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市寸島比売命
いちきしまひめのみこと
別名
狭依毘売命:さよりびめのみこと
瀛津嶋姫命:おきつしまひめのみこと
市杵島姫命:いちきしまひめのみこと
市岐嶋毘賣命:いちきしまひめのみこと
中津島姫命:なかつしまひめのみこと

筑前地方の海人豪族である宗像氏(胸形)らが奉齋する航海の守護神、宗像三女神の一柱。


一方、ウィキペディアによれば、隋の行政単位として瀛州があるとしています。


瀛州(えいしゅう)は、

古代中国において、仙人の住むという東方の三神山(蓬莱方丈)の一つ[1]

転じて、日本を指す[2]。「東瀛(とうえい)」ともいう[3]。日本の雅称である[4]

魏晋南北朝時代487から隋の時代にかけての、行政区分のひとつ(後述)。


では、なぜ、市杵島姫命はこの用例がほぼ存在しない「瀛」という文字を使っていたのでしょうか。

これについても百嶋先生はお話をされていました。


古い古い歴史を有するお宮さん、菊池川流域を連想してください。金金賛(かなさ)大神このかたのことを意味しています。菊池川の水源、阿蘇外輪山ですね、そして菊池川の終点は目の前に雲仙嶽の見える場所、玉名市大浜です。その間における一番古いお宮さんというのは、来民地方に ある円天角地に十字剣の紋章の神社さんが、最も古い歴史をもったこの地区に鎮座しているお宮さんです。この紋章はどこから持ってきた紋章かというと地中海 から持ってきた紋章です。民族的にはヘブライ人です。ヘブライであっても、最も格式の高いイスラエル人です。イスラエル人の家来がユダヤ人です。ごっちゃ まぜになさるでしょう、イスラエルとユダヤ、全く違います、元々は。ともかく、一番格式の高いのはモーゼ、それを連想なさったら、それに縁のある人はイス ラエル人です、それが一番格式が高い。それに次のがユダヤ人です。ユダヤ12部族といいますね。いくつもの部族が存在した。それが、日本にごっそり着たというわけではありませんが、たくさんやってきております。ついでヘブライのことをもう少しお話しておきます。ヘブライ人が最初に日本に到達したのは5000年 昔とお考え下さい。これはヘブライ人と言ってましたが別の表現がございます。それはですね、皆様もご存知と思いますが、ついこないだまで、お祭りの夜店に 行かれましたら神農様の御札を置いていました。私は神農様の農場まで行ってきました。場所は天山山脈です。天山山脈のもうそこはパキスタンだよというとこ ろです。この方が、ある時期のヘブライの頭領として金金賛(かなさ)大神がおられます。ある時期という意味は、この方の場合新しいほうの渡来人であって、 アレキサンダー大王に追われて逃げてこられた、現在から2300何年か前を年表でご覧になってください、アレキサンダー大王のことが書いてあります。アレ キサンダー大王に追われて逃げてこられたかたの内に、また、この方々がでてきます。『氵嬴』、日本発音“えい”ですね、音は“いん”です。そして、これはからくりがありまして、これ《氵(さんずい)》を消しますと、秦の始皇帝の苗字『嬴』になります。ところでこの方は、中国に逃げてこられた時に秦の始皇帝と縁組をなさっています。天下の名門、秦の始皇帝以上の天下の名門、モーゼを思い出してください。ともかくモーゼというのは、紀元前においては天下のモーゼだったんです。あの始皇帝がモーゼの系統と縁組をやっているのです。そして自分の苗字である『嬴(いん)』を縁組をした彼等に与えているのです。そしてこの人たちは海を渡りましたから《氵(さんずい)》がついているのです。これ以上、『氵嬴イン』について述べますと時間がかかるので、ここでストップします。

相 良観音におまいりされた方はいらっしゃいますか?さっきの『氵嬴イン』の頭領の金山彦、ここでは金金賛(かなさ)大神、この人の本当のご職業は、九州王朝 第1期親衛隊長でした。最初の九州王朝はこのヘブライ人によって守られていました。どこに住んでいたかというと福岡市の隣の糸島市にソネ丘陵地がありま す。ともかく、昔も今も住むのには一等地です。いかなる洪水が押し寄せてもへっちゃらです。それからといって下に近いのですよ。まさに、殿様御殿。ここに 住んで居られたアマテラスオオミカミ及び神武天皇のお姉弟を守っておられた九州王朝親衛隊長だったんです。それがある程度の年齢になってから、嫁さんをも らって、どこで誰が生まれたかを申し上げます。この金金賛大神ですよ、この土地では金山彦になっています。紋章はこれ“円天角地に十字剣”ですよ。相良観 音、当時は相良観音はありませんよ。相良の土地でアイラツ姫をお生みになりました。そして今度はお后が変わりまして、おんなじ近くの、清浦圭吾が生まれた うちの近くに、これ“円天角地に十字剣”が残っていまして、ここではクシナダ姫をお生みになりました。この金金賛大神の下にアイラツ姫がのっています。右 下にクシナダ姫がのっています。現地をわざわざ訪問なされなくとも、地図をご覧になれば現在も稲田村が印刷されています。そして、稲田村のそばには、皆さ んも全く気づかなかったよととおっしゃる宮地嶽教団がございます。ご覧になったことがありますか?近くにありながら皆さん全くご存じない。宮地嶽というの は日本最大の秘密のお宮さんです。日本最高の格式のお宮さんでありながら、蓋をされたお宮さんです。九州全土をお回りになったら、あっちにこっちに宮地嶽 神社、宮地嶽神社ってのがあります。しかも、高いところにあります。それなのに秘密になっています。そういう独特の天皇をお祭りした神社です。天皇のお名 前で申しますと開化天皇です。この開化天皇が宮地嶽神社の本当の神様です。ところが福岡の宮地嶽神社は現在それを隠しております。それはどうしてそうなっ たかというと、神社庁自体が、神社庁の内部が喧嘩しているのです。神社庁の、そこに勤めている連中同士が喧嘩しあいまして、全く、意見が対立して合わない のですよ。要するに、ヘブライ人系の神主と中国人系の神主、全く話が合いませんよ。それで、今は、開化天皇を消す方向の勢力が強いのです。

以上、元菊池(川流域)地名研究会メンバー牛島稔太のHPより


お分かりいただけたでしょうか?

百嶋先生は、漢籍は文句なく読め、中国語も分かられたため、中国、朝鮮でのフィールド・ワークからこの嬴(えい)と瀛(えい)の問題に気付かれたのだと思います。

紀元前、西方から製鉄などハイテク技術を持ったヘブライ系氏族が中原に移動してきたのです。彼らはその支配者であった始皇帝の一族と通婚し、彼らの姓を名乗ることを許されたのだと考えられます。

その後、その嬴の姓を許された人々は列島に移動し、自ら区別するためか、嬴を憚ってか、それとも渡海したからか?三水偏を付し瀛」を姓としたのでしょう。

ツングース系の満州族の満州(マンチュリア)は、かつて、満洲と表記されていました。それは、彼らが漁労の民でもあったからとされています。なにやらそれに似た話ですが。

この「瀛」の文字(姓)を許された瀛氏の一族、金山彦、イザナミ(イザナギは新羅系の昔氏)の一族(百嶋先生が言う新ヘブライ)が列島に入って来ているのです。


ところが、市杵島姫(スセリ姫)はこのイン族ではありません。天御中主(白山姫)、白川伯王の流れを汲む中国大陸にいたヘブライ系白(ペイ)族の大幡主の子豊玉(ヤタガラス)の姉アカル姫の子なのです。

 ただ、氏の金山彦は白族の埴安姫と通婚し櫛稲田姫(クシナダヒメ)が生まれ、その櫛稲田姫はさらに白族の豊玉姫(ヤタガラス)と通婚し関係を深めますので、その姉のアカル姫の子である市杵島姫も瀛津嶋姫命との表記ができたのだと考えられます。

 一般には、宗像三女神は三姉妹などと楽しい話がされていますが、例えば豊玉姫(タゴリヒメ)は白族の豊玉彦と許氏の高木大神の系娘の豊秋ツ姫の間の政略結婚によって生まれており、年齢も5、6歳しか離れていないのですが、民族を越えた関係で姉妹などではないのです。

 日本は中国大陸と異なる島国である上に、なおかつ、襞の多い山に囲まれた地形であったことから互いの民族が干渉しあわずに共存できた平和な環境だったのです。

 政略結婚は戦国時代にも行われましたが、各々異なった民族の属性もなお残されていたように思います。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


純粋な目的により百嶋神社考古学を研究されたい方は09062983254までご連絡下さい

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