橘氏の末裔

私は先祖の事を調べて行くうちに、橘公業その子公員の末裔で、八代郡宮原城主の直系で有る事がわかりました。
これから橘氏の先祖の事を中心に、少しづつ記載していきます。
九州王朝の事は、初心者の為ただ今勉強中です。


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020宮原家の系図さがし

                                               2017.6.23 宮原秀範

3.もう一つの宮原城

公業の子公員が相続した。球磨郡久米郷は現在の熊本県球磨郡あさぎり町です。

 むかしの地図に宮原と言う地名が有り以前から気になっていました。

 いつも人吉に墓参りに帰省するときは、熊本県立図書館へより宮原家関係の資料をさがしていました。すると求麻郷土研究会の書籍(郷土第33号)が目に留まり中を見ると、宮原城(あさぎり町岡原、旧宮原町)の事が詳しく書かれていました。

 会報の最後のページに会員の方のお名前と住所が有りましたので、自宅に戻り早速お手紙を差し上げて、次回帰省した時にお話を聞きにまいりました。

求麻郷土研究会の宮广氏と土屋氏が出迎えてくれました。郷土史会は、月一で郷土の例会を行い、2年に1回会報を作成されているようです。

 土屋氏は、岡原の宮原城主の研究をされ詳しくまとめられていました。お城の中の宮原家のお墓も調査されていて、私の知らない事も詳しく説明してもらいました。

 宮广氏は、お城に詳しく今回宮原城の論文を作成された方で以下に簡単に概略を記載します。宮广氏と土屋氏はお隣同士の為、いつも一緒に行動され数々の発見もなされ様です。

 

 宮原城概略

中世宮原城は球磨郡あさぎり町岡原北宮麓地区南側の小高い山上にある。城というと一般的には天守閣や櫓・城門などの建築物、また高くそびえ立つ石垣、それに水をたたえる堀などを思い浮かべる。これらの城は中世後期から近世初頭に出現したもので、本格的な総石垣と五重の天守(天主)は天正六年(1578)織田信長の安土城が始めとされる。その後、豊臣秀吉、徳川へと受け継がれ、近世城郭の完成期となった。それを手本に各国有力大名が競って築造したといわれる。

 今回取り上げた宮原城は、それ以前の中世期(1500年前後)頃に完成された山城のようで、中世期初頭の石垣や櫓などは、ここ宮原城ではまだ出現しておらず、小高い山の背面を削平し、尾根の低く狭まった所を深く掘り切り、また横堀(水平方向に掘った溝)竪掘(上から下方に掘った溝)を掘り、削平した曲輪(一定の区域ぼ周囲に築いた土や石の囲い)に柵や門(冠木門)見晴らしの良い高台に物見櫓や守備兵、倉庫(当時は掘立小屋)などを作り、建物の屋根は茅葺きか檜・杉・サクラなどの樹皮が主で、時には板・竹も使用したようで、簡単な建築物であった。これらは古い中世城の絵図などで見ることができる。

 

平時の山城は見張りの兵士が交代で昼夜問わず警戒に当たり、異変が生じた時は直ちに城下の住民に知らせるようにシステム化されていたのであろう。城主や家臣たちは平常、城中では生活せず、城下に居住し、城主は城近くの居館に住み、以下の武士たちは城下周辺に居を構え、農業に従事し、食糧生産などに携わっていたであろう。

 

次に城主はとなるが『戦国相良氏の三郡支配』服部英雄(史学雑誌)によると、鎌倉時代 永仁七年(1299年)、久米郷東方下分宮原(当時は宮原も久米郷内であった)に入部した橘氏(橘薩摩左馬太夫)が初見で、後に宮原の地名を取って、宮原氏となり、代々この宮原を領有した。郡内有力国人(小領主)であったといわれている。

 

しかし弘治三年(1557)宮原筑前守は、八代郷(八代四奉行の内の一人)に名が見えるので、その頃はすでに相良氏の重臣として八代に進出活動しているので、球磨の宮原城はその頃、宮原氏の一門か相良家の一門が地頭として寛永年間まで領有したのではないか。それと関連して平成十四年三月十日に人吉市浪床町中尾墓地で、求麻郷土研究会の調査中、大発見があった。墓の内の一つに次のような刻銘があった。「寛永十二年三月二十八日、宮原城主・犬童十兵衛」とあり、それと、あさぎり町岡原北宮麓の宮原城跡西側山中にある宮原十兵衛の供養塔が同一人であろうとの見解が一致している。

 

しかし私がこの山城の周辺でワラビ狩を二十数年前より、毎年の様に来て見て、いつも思っていた事で、郡内の有名な中世城跡の上村城、岡本城、多良木町の鍋城や、先年発掘調査された山田城跡などにけっして劣らない立派な城跡で、いつか簡単な見取り図でもと、長い間おもっていた。それが丁度「郷土三十二号」発刊の計画が持ち上がった事で良い機会となり、調査の切っ掛けとなった次第である。

城跡見取図は正確ではないが、そのつもりで概略図として見てもらいたい。(尚、各曲輪の名称はすべて仮称で表示した)

城の全容は前文にあった様に、黒原山(標高1017m)山系の北西方面末端部に位置する山で、宮麓集落方向へ階段状に斜面を削平し、各曲輪や堀切などを構築した山城である。城山は町有地と私有地に分かれ、私有地は雑木が繁茂し、人が立ち入り難く、調査は困難を極めた。城下集落には今でも城跡より見て東側に表(旧名城の表)その東に射手馬場があり、北側に横馬場、西方向に門前など、城にまつわる地名が残っており、それと本丸東側麓に室町時代の作風を残す宮原観音堂(県有形文化財)もある。

 

最後にもうひとつ注目しているのが、宮原城北側(約470m先)に地元ではやはり城山(ジョウヤマ)と言っている、小規模な切畑城がある。切畑地区は明治初年まで湯前の飛地であったが、明治十二年に住民七戸は岡原村に編入されたとある(『湯前町史』より)。

 

なぜ湯前領であったかは現在不明であるが、それ以前切畑は宮原領内であったのではないか。橘氏が宮原に入部し、最初に築城したのがここ切畑城かもしれない。後年橘氏は勢力を拡大し、有力国人に成長し、今までの切畑城では手狭になり、南側直ぐ近くの宮麓の山上に今の宮原城全身の新城を築き、ここを本城とし切畑城は出城としていたのではないか。その後南北朝動乱により橘氏は須惠氏、永里氏、岡本氏、奥野氏とともに、南朝方である上相良氏に組し、北朝方の下相良氏と郡内各所で合戦となり、興国三年(1342)久米郷木原合戦で大打撃をうけた。上相良経頼は本領安堵を条件に北朝側に転じたので、郡内の戦乱は一応収まったとある(『球磨郡史』より)その際国人の中には一部領地を失ったものもいたと思われる。この時に橘氏は切畑城を失ったのかもしれない。

 

以上が宮广氏の論文で当時は、先祖も領地を守る為に大変な苦労をして、生活していた事がしのばれます。

次回は、4.本物の系図(松橋町の宮原氏)を掲載します。

 

 

 

 

 

 

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