075 いろいろな宮原家
2020.11.13 宮原秀範
橘や宮原家を調べてみると、いろんな宮原家があることがわかりました。
日本中に宮原と付く地名が有りますが、どんな経緯で宮原と地名が付いたのだろうか?
神社は日本中に沢山有りますが、お宮の前の原っぱで宮原と言うのは、よく聞く話しです。
宮原姓の分布状況をネット検索すると、以下の状況です。
私の故郷人吉市は、全国で29位でした。
また、姓氏家系大辞典で宮原を調べると、宮の原・宮原等が有ります。
1.平姓宮の原、2.宮原宿禰(みやはらすくね)百済族、3.湯浅(紀伊国)4.清和源氏(畠山氏族)
5.伊予の宮原氏、6.豊前の宮原氏、7.筑後の宮原氏、8.肥前の宮原氏、9.橘姓肥後の宮原氏(私の出自)
10.薩摩の宮原氏、11.日向国の宮原氏、12.安藝の宮原氏、13.備後の宮原氏、14.因幡の宮原氏、
15.伊勢の宮原氏、16.美濃の宮原氏、17.葛山氏族、18.皆岐氏族、19.清和源氏足利氏族、
20.出羽の宮原氏、21.越後の宮原氏、22.藤原姓、23.武蔵の宮原氏、24.その他有り
このように、日本中には沢山の宮原姓が有ります。
宜しければ、皆さんも自分の出自を調べて見ませんか?
ただ注意することは、家紋もセットで考える事です。表家紋(父方)・裏家紋(母方)が有りますが、代々家は男性が継ぎますので、家の家紋は父方で判断して下さい。
家紋で何系かの氏族が解り先祖の言い伝えや・除籍(戸籍)・お寺の過去帳で先祖を探すのも面白いです。
調査方法を以下に簡単に記載する。
1. 戸籍(除籍)人吉では、明治初期まで有ました。福岡市は人口が多い為、除籍を処分されています。
2. 士族で有れば、図書館・市役所で藩の分限帳・先祖附(幕末に藩に提出した)を探す。
3. お墓の調査(墓碑名、没年)・過去帳などの調査
4. 姓氏家系辞書・地名辞典・肥後国史等の古い歴史書で、先祖の記載を探す。
5. 先祖出身地の郷土氏先生、役所の学芸員などの専門科に相談してみる。
とにかく、根気強く調査すれば何か結果が出てくると思います。
1.藤原姓宮原家について
今回ご紹介したい宮原家は、大村史談に藤原姓宮原家々系図について(似田達雄氏)が有りました。
人吉宮原家と同じ様に、球磨に地頭職をもらい、相良家に仕えるとの記載が有りました。
〇藤原忠衛
天慶の乱に官軍の帥文屋朝康朝定に属し、備後の国安湊に於て朝敵平将門を討って高名す。
(この戦に朝康討死す、時に天慶四年と言う)後故あって筑紫に下る。
後肥前国高来郡泉(今野田と伝ふ)宮原の両郷を賜ひ宮原に来りて要害を構え居住す。故に宮原を以て氏とするなり。
又館の傍に一宇を建立し、薬師如来の尊像を安置す。是を宝泉庵と号す。道師空禅を以て開祖とす。
〇衛寛(宮原久右衛門)
平家敗滅の後肥後に奔り、球磨郡佃村(今豊田トイフ)鞍谷(今宮原トイフ)に住す。
此所の民を娶りて月日を送るに男子出生す。是を鞍谷加賀二郎と称す。
建久の末良太郎(内田太郎とも言う)球磨の地頭職を賜り下向の時幕下に属す。
是より世々相良家に仕う。
〇衛重(宮原百々介)
父を始め一族悉く討死す。因玆 累代の領地保ち難く、所縁を追って肥後球磨に赴き、鞍谷氏を頼り相馬家に仕ふ。后宮の原を賜ひ居住す。是より宮の原と改む。この子孫大いに繁栄す。球磨宮原と伝ふは是なり。家紋 梅鉢
宮原家の家系系中、大村家の士系録に記されていない部分を紹介する※概略記載で省略しています。
人吉相良家の家臣は、橘公忠家よりの家系と、宮原内記家の上士 二家が有り、その他 下士の数家が、相良家分限帳に見られます。
ここ人吉も、全国と同じように沢山の宮原家が、おられるようです。
名前が同じでも、系図をたどれば多くの家が、改名しながらお家を守ってこられています。
今私が存在するのも、先祖のおかけです。
2.肥前の宮原氏について
更にもう一つ、3年前にみやき町(北茂安町)出身の方から出自の質問が有りました。
佐賀県三養基郡みやき町は全国8位で宮原氏が沢山おられ、私は何も知りませんでした。
その時、北茂安町の資料を頂き、天保年間(1532~1555)に宮原大膳太夫が居城(西尾城、今は西尾八幡神社)していたとされる。との記載が有りました。(大膳太夫は役職名です)
住所:佐賀県三養基郡みやき町東尾字西尾
この方からは、八代の宮原城主の一族の方がこちらに来られたのではと思い、私に連絡されました。その方の、その後の調査は不明ですが?
宮原氏をネット検索すると日本通信百科事典に、肥前宮原氏とも呼ばれ肥前国養父郡宮原郷を拠点とした。系統不詳、と出てきました。(現在の佐賀県三養基郡みやき町宮原大字)
※現在の地名を探すが、場所は不明です。
※ネット電話帳で検索すると、みやき町東尾地区に55名の世帯が有る事が解ります。
真相は不明だが、ここも宮原の地名が有り住んだので宮原姓を名乗ったか?また宮原氏がいたので地名が残ったのでは無いかと思います。
3.橘一族とゆかりが有る、善法寺について
最近北茂安町の本を見直すと、玉林山善法寺と言うお寺が有り、親鸞上人を開祖とする浄土真宗のお寺です。
善法寺秘蔵の系図には、武雄の潮見神社の由諸記、並びに杵島郡史によってこの寺の歴史を知る事が出来ると有ります。
敏達→諸兄→奈良麿が潮見神社の祭神である。
橘諸兄から17代降って公愛(きみちか)という人がいた。この人は平宗盛を討ち取ったと伝えられる剛勇であり、孫の公辰は祖父に似て勇ましく、その上弓の達人であった。時の征夷大将軍源頼朝の側近であったが、文治2年(1186年)3月将軍が公辰に弓の腕前を披露するよう命じた。さすがは見事とほめられて豊前の国一国を賜った。そこでその国を治めるため「弓」と号してこれを司り、それ以後子孫は名字を弓と改めた。これが今の善法寺の弓姓の始まりである。
当時一族は杵島、藤津、豊前、豊後、薩摩、伊豫の国と各地を広く領有していた。弓矢の名人公辰から十一代目に弓刑部少輔という人がいた。このころ京都の本願寺は名僧蓮如上人の時代で諸国に浄土真宗が広まっていた。刑部少輔は油須原(今の大分県)に700町歩(約700ヘクタール)の田地を持っていたが、この近くにも布教師が来て熱心に布教していた。刑部少輔はこの真宗に帰依し、一族数百戸と共にこの地を去り、肥前国三根郡江口村に来て江口をはじめ近くの村々に浄土真宗の教えを開拓した。それは永正十六年(1519年)のことで、法名を浄念といった。この人が善法寺第一世の住職である。
江口に伽藍(がらん)を建て布教に専念して最初の場所は、江口の最北端で西尾上地境であったという。今は竹藪や田畑になってどこからどこまでが当時の寺の境内であったかもはっきりしないが、豊後の大分から数百戸の一族を引き連れて来たというから、その境内や屋敷は相当広かったとおもわれる。今でもここらあたりを「寺山」と呼んでいる。
善法寺と名のつく寺が豊後の臼杵にもあるが、この寺の開基は建武元年(1334年)で江口の善法寺よりも185年ほど古い。豊後の国は弓一族の領有地であったから、両善法寺の関係は浅くない。また、白石神社の祭神である鍋島山城守直弘公は、もと杵島郡大町、小田、小城郡砥川の郷を領しておったが、後白石に封じられている。この白石邑主と江口の善法寺弓家とは血縁関係にあるといわれているが、武雄の潮見神社の祭神のことや、直弘公のもとの領有地等から考えるとうなずけないこともない。
現在、善法寺の本堂は江口部落のほぼ中央にあって、元禄十年(1697年)に再建され、山門は天保年間(1830~1943年)に、鐘桜は明治十一年(1878年)に、庫裡は明治二十年(1887年)にそれぞれ改築されている。本堂の屋根は再建当時から長い間藁葺きであったが、昭和三十九年(1964年)に瓦葺きになり、天平の甍(いらか)をほうふつさせている。なお、昭和三十七年(1962年)五月には500万円に近い檀信徒から浄財で、立派な納骨堂が本堂近くに落慶し、それまで雑然としていた境内の墓地も立派に整理された。
善法寺の現在の住所:三養基郡みやき町江口1352
善法寺第一世の住職浄念が大分の地から江口に来て、寺を開基してから、四百六十余年が経過している。古くからの法灯を守り続けている現在の住職は、十八世の弓法円である。
すごく歴史が有り、橘一族にも関係していてとても興味がわきました。
今回はここまでの紹介です。弓一族は今後調査したいと思っています。
何か質問や、情報が有れば、宮原秀範まで、連絡をお願い致します。
連絡は、本ブログや、メール:m.hide@dor.bbiq.jpまで(以前のメールは廃棄しています)