076 相良家当主引継ぎ式へ行ってきました

                        2025.4.20

                        宮原秀範(福岡県居住)

3月31日(月曜日)に人吉市前市長の田中信孝氏より引継ぎ式の案内状が届きました。

 

案内文:桜花満開の季節となり、皆様方にはお健やかにお過ごしのことと存じます。

    さて、この度、相良家三十九代相良知重様ご夫婦がご隠居なされまして、

    相良家第四十代をご長女の相良綾乃様にお引継ぎになられます。

    その式典を以下のとおり挙行なされますので、この百年ぶりの歴史的行事で

    あるお引継ぎ式を皆様方とともにお見届けいたし、第一部式典の儀、第二部

    祝宴と盛大にお祝いを申し上げたく、下記の通り、発起人一同、ご案内を申

    し上げる次第でございます。

    このお目出度き日に、皆様方には、ご来臨の栄を賜りたく存じ、是非、万障

    お繰り合わせの上、ご出席くださいますようお願い申し上げます。

 

第一部 日時:令和7年4月16日午後3時より   第二部 時間:午後6時より

    場所:願成寺本堂                場所:人吉温泉 鍋屋

    発起人:田中信孝他4名              発起人:岐部他2名

 

早速返信はがきで、夫婦で出席の連絡を出して、この機会にビデオ撮影や写真を撮ろうと準備をしました。

4/16朝5時に起床して、7:30出発、途中燃料や朝食(基山パーキング)を食べ、人吉へ11:00時頃到着、時間が有る為、墓参りや調べものをして願成寺へ向かいました。

13:30頃到着して本堂へ行くと、ビデオ撮影機4台やカメラマン・後から新聞社が来られました。

14:00に成ると田中氏が来られ、私たちだけ本堂裏の控え室え通され、しばらくしてお殿様もお見えに成ました。以前より面識が有り、年賀状もいつも頂いていましたのでお礼をいい、挨拶をしました。

14:30頃受付を終え、後日写真やDVDが頂ける事が解り、写真やビデオ撮影は今回中止する事にしました。15:00時より式典が始まり、指定の席に着き、引継ぎ式が始まりました。

 

 

式次第 ご導師、脇導師 ご入堂(3名)

  1.  開式の辞

  2.  読経

  3.  焼香

  4.  引継ぎ式

  5.  祝辞

  6.  第三十九代並びに第四十代ご当主ご挨拶

  7.  祝吟

  8.  乾杯

  9.  お開きの辞

    ご導師 脇導師 ご退堂 その後記念写真撮影

 

読経が始まりしばらくして、焼香がお殿様御家族で始まりました。

次に相良家親族代表として、私たち夫婦で焼香を致しました。思わぬ事で、他にも大勢の先輩方がいらしたのに、おどろくばかりでした。

1時間弱でお式は終わりました。知り合いの益田氏・相藤氏と少しお話しして、一時ホテルへチェックイン。

 

     引継ぎ式の出席者は約40名の方々がお見えになりました。

 

 

 

 

相良家家族と田中氏他発起人の方々

 

 

第二部の宴会は午後6時より、人吉で有名な鍋屋で行われ、式参列者約20人と地元政界人約30人(議員・医者・会社社長様他)合計50人程で円卓形式の宴会が開かれました。

 

会式式第

   1.  開会の辞

   2.  発起人代表挨拶

   3.  祝辞 相良家第三十九代 相良知重様

         元人吉市市議会議員

         青年会議所OB

         香花堂共栄会

         人吉市議会議員

   4.祝舞

   5.田中信孝氏 お礼の言葉

   6.乾杯

   7.慶徳次郎ショー

   8.福島竹峰一座 民謡民舞の祭典

   9.万歳三唱

   10.お開き 21時頃

 

最初は、挨拶ばかりでしたが、宴会が始まると各テーブルで話しが盛り上り、踊りや慶徳次郎ショーでにぎわい、最後はみんなで盆踊り見たいになり、盛大な宴となりました。

 

              人吉旅館 鍋屋本館

 

※相良家とは

相良家は藤原鎌足を祖とする14代後胤の周頼が、天永3(1112)年遠江国榛原郡相良庄(現牧之原市)の領主になり相良姓を名乗ったことに始まる。人吉初代相良長頼が建久9(1198)年、鎌倉幕府源頼朝から地頭の命を受け人吉庄(現人吉市)にやって来、室町時代の球磨郡内統一後は戦国大名に名を連ね領土を拡大した。豊臣秀吉の朝鮮出兵にも出陣し、関ヶ原の戦(1600)後は徳川幕藩体制下の大名として明治4(1871)年廃藩置県までの長きにわたる一氏領主を務めた。平成27年4月、人吉球磨「相良700年」の歴史に育まれた独自の文化が日本遺産に認定された。国宝青井阿蘇神社ほか、多種多様の文化遺産がいまだに、沢山存在しています。

(相良知重様の名刺より記載する)

 

宴会の挨拶で田中氏が、以前知重様(39代)が相良家も私の代で終りますと言われたので、昔は男子一系でしたが、現在の天皇家も愛子様の女性天皇でもいいのではと、言われる時代に成りましたので、長女の綾乃様を40代当主に向かえられたらいいのではと助言され、今回引継ぎ式の運びとなった事を報告されました。

 

せっかく現在760年間続いた相良家を単に男性がいないだけで終わらせては、誠に忍び難いです。廃藩置県後、頼綱公(37代)は人吉名誉市民1号に成られて、沢山の遺産を人吉市へ寄付されました。

今後も綾乃姫(40代当主)を中心に、相良家の存続、発展とその歴史・文化遺産の継承に力をお貸しくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

 

私の先祖の事も少し話します。

※人吉宮原家(元橘一族)とは

系図によると敏達天皇から始まり、橘諸兄(757没)公を始祖とする家柄で、楠正成も同族の一族です。

橘公長その子橘公成(1237)は、源頼朝の家臣で伊予國宇和郡(愛媛県伊予)に領土を持っていたが、幕府の指示で球磨郡久米郷東方下分宮原(現あさぎり町宮原)に替地として領土をもらう

橘公員(15代)は公業の末子で地頭職を得る(1288年)

初代宮原公忠(橘公忠20代)が八代郡宮原に相良氏家臣(地頭)として移動する(1517年頃)

第21代宮原公久(縫殿助)初めに人吉へ移住する(1673年)

第32代宮原公命(代々浅右衛門)作事奉行十余年(1846年卒)

第34代宮原公継勘定方のちに県会議員となる(1895年卒)最後の家臣

第38代現当主宮原秀範(67歳)

我が一族も相良家と同じく、源頼朝の家臣で1200年頃に人吉に有力国人として入部する

相良氏が球磨郡を統一した時も一緒に戦い、領土拡大の時も八代郡宮原町の城主となり戦った

その後人吉に戻り、代々浅右衛門と名乗り相良家に最後まで家臣として使える

 

※今回歴史的な行事に立ち会わせて下さった事、大変ありがたく思います。尚、田中信孝氏に感謝申し上げます。