<2021年3月11日>
=旧暦1月28日
早速「128」が出てきました!
なぜか「行こう!」と直感で動けるのは、意味深い日が多いですね。
この日訪れたのは、山形県鶴岡市にある戦国大名『武藤義氏』の居城となった尾浦城址で、現在は大山公園として親しまれている場所です。
地元では有名な桜の名所でもあり、遊歩道が整備されていて、ラムサール条約に登録された公園北側の湿地の散策も楽しめます。
一年を通じて200種類近くの野鳥が確認されるのだそうです。
私たちの場合、アタマの中に急に地名や誰かの名前が浮かんだり、その場所に繋がるような言葉が浮かぶことがあります。
それをメッセージとして受け取ることもあれば、今回もそうなのですが、身の回りで起きた複数の出来事が、ある同じモノ・コトを指し示す場合があって、今回は少し前にある方から届いた「鏡の写真」が決めてとなりました。
そして直感的に、「あ、今日行ける!」となり、行動に移すことになります。
現在はほぼ直感で動いているのですが、後々振り返ると、意図せずとも「あっ!ぴったりな日にちだ!」ということが多いのです。
宇宙にすべておまかせしているので、当然と言えば当然ですね!
尾浦城主武藤家遺蹟塔
大山の地は古来尾浦と云い、武藤家の城市である。武藤家は初め大宝寺に居住し、羽黒別当を兼ねて威を荘内に振ったが、天文元年1532年、砂越氏の攻略に遭い高館山麓の要害大平山に当るを求めて尾浦城に移り、大宝寺には城代を置いた。以来武藤家はここを本拠として領内を統一し、荘内文化発展の一役を担いつつ、19代義氏の全盛期に至る。義氏は性豪勇にして乱行も多く、戦止むことを知らず、土民疎んで悪屋形と呼んだという。彼は少しも反省の色なく領内を威圧すると共に、天正元年1573年には最上由利の地に進出した暴政日に加わって遂に城代前森蔵人等迫られて、城浦山の新山森に自尽くし果てたのである。」しかしかのような不道の中にも領内の寺社に寺社料を安堵寄進するなど人心の安定に努めたと言われるが、当時戦国の世に於いて、近代大名の道を進もうとする義氏にとっては古い体制を壊し、集権的体制を必要とし、従って強引な式断政策も已むをえなかったものと史家は評している。尾浦城下はこの頃から家臣団の集住や町人の定着が徐々に行われて街づくりの基が築かれたのである。その後義興を経て義勝に至り、秀吉のために大和国に配流されてから荘内は、上杉氏に或いは最上氏に隷属し、武藤家の遺蹟はまったく煙滅した。僅か正法寺浦山に義氏60年忌の供養塔が残るのみで、星霧機百年変化した今日、城跡の形見さえなく由来を顧みるよすがもないのを遺憾とするものである。
ここに写るのは、左手が出羽三山の一つ、霊峰月山、右手が金峰山です。
実際の距離は60㎞弱、車で1時間程度離れているのですが、ここに立つと、ぐ~っと距離が縮まって見えます。
紙に書いたA地点とB地点の端と端をぐにゅ~っと重ねたらワープできるよね~なんて、月山と金峰山の頂上をA地点とB地点にするんですね。
ちょうど、ワープができるという話を聞いたり、『インターステラー』という映画を見た後でしたので、ワームホールに想いを馳せてみました^^
次に訪れたのは、公園の一部になっている、「三吉神社」と「古峰神社」です。
ここでも面白い数に出会いましたので続きます!