海蔵寺 広島藩家老 浅野高平の墓 | 墓守たちが夢のあと

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海蔵寺へ向かう石段

 
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海蔵寺山門
 
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海蔵寺本堂
 
 広島電鉄の草津駅を降りて山側に向かうと曹洞宗の寺院「久遠山・海蔵寺」があります。
 海蔵寺は応永年間(1394~1434)に中国の僧、慈眼禅師が創建したと言われ、弘治元年(1555)に毛利元就と陶晴賢が戦った厳島合戦では毛利方の陣所が置かれています。
 また、天正16年(1588)に毛利輝元が上京した際には、海蔵寺に一泊した後に草津から船で京都へ向かったそうです。
 浅野氏が広島藩主となると、家老を務める東城浅野家が海蔵寺を菩提寺としたため、墓所には東城浅野家代々の墓が残されています。
 幕末の元治元年(1864)に「禁門の変」が勃発すると、広島藩の仲裁により海蔵寺にて幕府と長州の話し合いが行われています。
 
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広島藩家老 浅野高平の墓
 
 海蔵寺の墓所で珍しい円墳を見つけました。「浅野高平」という人物のお墓のようです。調べてみると東城浅野家の初代・浅野高勝から11代目の当主で広島藩の家老であった人物という事が分かりました。
 東城浅野家の初代・浅野高勝は、元は堀田高勝といい明智光秀の家臣で福知山城(京都市福知山市)の城代を務めていました。「本能寺の変」の後、「山崎の戦い」で光秀が羽柴秀吉に敗れ亡くなると、高勝は浅野長政に仕え、嫡男の幸長の守役となっています。
 長年、浅野家に仕え、その発展に貢献した高勝は浅野姓を許され浅野孫左ヱ門高勝を名乗ります。高勝は朝鮮出兵や「関ケ原の戦い」でも活躍し5千石に加増されています。
 慶長18年(1608)に浅野高勝と主君の浅野幸長が亡くなり、元和5年(1619)に幸長の子・長晟(ながあきら)が広島藩へ移封となると高勝の子・高英も広島へ移ります。
 高英は寛永14年(1641)に備後東城領1万石(現在の庄原市東城町)を所領し広島藩家老東城浅野家が誕生しています。
 
 
 海蔵寺:広島市西区田方1丁目1-3