周防大内氏の重臣 陶 晴賢 | 墓守たちが夢のあと

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洞雲寺

 

 

 

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陶 晴賢の首塚
 
 広島県廿日市市にある洞雲寺は厳島神社の神主であった藤原教親の開基により、長享元年(1487)に創建。以降、大内氏・陶氏・毛利氏と、この地の支配者の保護を受けてきました。
 境内の墓所には戦国時代の武将・陶 晴賢の首塚があります。
 陶 晴賢( 陶 隆房)は山口を拠点にして中国・九州地方に一大勢力を築いた大内氏の重臣で、大永元年(1521)に陶氏当主・陶興房の次男として生まれます。天文8年(1539)に父が亡くなり家督を相続すると、武闘派の家臣として、大内氏当主・大内義隆に仕え活躍します。武勇に秀で「西国無双の侍大将」と呼ばれる一方、美貌の持ち主で主君に重用されたと伝わっています。
 天文9年(1540)には出雲の尼子晴久が吉田郡山城の毛利元就を攻めたときは大内氏の総大将として元就を援助、尼子軍を撃退しています。
 大内軍は天文11年(1542)に、逆に尼子領へ侵攻しますが、難攻不落を誇る月山富田城攻めに失敗し、多くの犠牲者を出します。この敗北を機に大内義隆は領土拡大の野心を無くし、政治に対する興味を無くし、文治派の相良武任を重用します。
 文化面に傾倒していった義隆の影響で、この時代、京都と大陸の文化が融合した「大内文化」は全盛を迎えますが、大内家内では文治派と武闘派の勢力争いが繰り返されていきます。しかし、義隆は文治派を支持していたため武闘派である隆房は次第に追い込まれていきます。
 そして、天文20年(1551)に相良武任は大内義隆に陶隆房が謀反を企てていると訴えたのを機に、隆房はついに挙兵。山口を攻撃し、長門大寧寺において義隆を自害に追い込みます「大寧寺の変」。また、逃亡していた相良武任も殺害されています。隆房は義隆の養子・大友晴英(大友義鎮(宗麟)の異母弟)を新当主として擁立し大内氏の実権を掌握します。この時、晴英の名から一字をもらい「晴賢」へと名を改めています。
 晴賢は、大内氏の統制を強化していきますが、これに反発する毛利元就らと対立。安芸を勢力下に置いた元就と対決するために、弘治元年(1555)に自ら大軍を率いて、安芸厳島に侵攻します。
 晴賢は、毛利方の宮尾城を攻略しようとしますが、毛利軍の奇襲攻撃により敗北、毛利方に味方する村上水軍により大内水軍が敗れたため厳島からの退路を断たれた晴賢は自害します「厳島の戦い」。享年35歳。
 この決戦に勝利した毛利元就は、この後、出雲の尼子氏も滅ぼし、中国地方の覇者となります。なお、晴賢の遺骸は、桜尾城で首実検の後、洞雲寺に葬られたそうです。
 
広島県廿日市市佐方1701-1